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「神様の子どもとされること」✳︎ルカ11章5〜13節

更新日:1月16日



前の週はクリスマス会でしたが、年末へ突入です。2023年度の最後の礼拝となりました。再び、しばしの時、ルカの講解説教に戻ります。

みことばは「しつこさのゆえに」と題してメッセージが語られました。


イエス様の弟子たちは、イエス様に「ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言いました。彼らに対して、イエス様は「主の祈り」を教えられましたが、それに続いて「私たちがどのように神様に祈っていったら良いか」イエス様が教えられたのがこの箇所です。


❶しつこく求めるとは?

真夜中に友達の家のドア🚪を、来客のためのパンを求めてしつこくノックする人の姿をイエス様は語られました。

当時のユダヤ人の社会には「旅人をもてなす習慣」がありました。この旅をしてきた友人は日が暮れるまでに着くことを目指していたかもしれません。しかし、到着したのは真夜中でした。あらまあ、と真夜中であるならばそのまま食事を出さずに寝てもらっても良かったような気もします。しかし、8節にある「しつこさのゆえに」という言葉には「恥を避けるために」という別の意味もあるのだと語られました。

つまり、旅人がやっとこさっとこ着いた我が家で「疲れたでしょう、さあもう寝てください」と寝かせてしまったらそれは恥ずかしい、失礼なことでもあったのだ、と。恥の文化、恥に強い意識があったのです。この友人がなぜしつこく求めたか、それはまさに「ふりかかってくる恥から逃れたい。」そんな思いがあったからでした。


さてこの例えにおいて、パンを求められた友人は誰かというと、まさしく「神様」です。

イエス様はこの例えをお話になられながら、神様とはそういう方なのだよ、と教えてくださったのです。神様は求めれ、頼まれたら、面倒だ、帰れ!と言われない。私たちの願いを受け止め、それに正しく応えてくださる方なのだ、と。

そしてここで非常に大切なのは「神様と私の関係」だと改めて気付かされました。


私たちの子どもがもし、子としての立場に満足していないなら、私たちは親として失敗なのだと語られました。つまり「ああこんな家に生まれて悲しい」と子どもが思うなら、親は悲しみを覚えるし、逆に子どもが「ああ、この家に生まれてきてよかった!感謝だなあ!」と感じるなら親には喜びが湧き上がります。神様も実は同じなのだ、と。

私たちは、キリストの救いを受け入れるだけで、「神の子」とされる特権をいただきました。「特権」とは、神の恵みを受けることのできる立場ということです。


私たち人間の親子間においても、子どもが駄々をこねなければ、私たち親は子どもの願いを聞き入れようとしない姿を貫くでしょうか?

いいえ、決してそんなことはありません。

常に子どもにとって最善のものを提供したいと、与えたがっている自分に気づくでしょう。

ましてや、神様は、全知全能の神様はいつも私たちを最善の愛で満たそうと願って見つめてくださっているのです。

私たちが何事でも神の御心に叶う願いをするなら、神様はそれをいつも聞いてくださる。(第一ヨハネ5章14〜15節)

これがまさしく「神の子とされた特権」であり、「アバ父よ!」と神様に呼びかけることが許された素晴らしい特権なのです。


私たちの願いに耳を傾けて下さる神様との「関係」が与えられたということ。

大きな恵みです。そして、願いならばなんでもということでなく、神様の御心にかなう願いをするように、成長させられてゆくということを私たちは心に留めてゆきたいです。


第一列王記に記されている「エリヤとバアルの預言者との戦い」の話が語られました。

唯一の創造主である神さまに仕えるエリヤと、対して、この頃中近東において盛んに崇拝されていた偶像バアルを支持するイゼベルとともにあった預言者たちが決闘する場面です。

「火をつけずに、祭壇に火を持って答える神が本当の神である」その言葉を持って、彼らは戦います。バアルの450人の信奉者たちは、激しくバアルよと祈り裸になり体を傷つけて火を求めますが、一向に火はつきません。しかし、その後で、エリヤがたった一人で、彼らの前に立ち神様に祈るのです。「神様こそが真の神であることを火をもって明らかにしてください。」と。エリヤは祭壇に大量の水をかけ、さらには溝をほってそこにも大水を満たさせます。神様はエリヤの祈りにすぐに答えられ、大水で溢れている祭壇にも関わらず、火が下り、捧げ物も薪も石も土も、溝さえも焼き尽くしてしまうのです。

神様はそのようにして、エリヤの祈りに答え、ご自身を明確に現してくださいました。

私たちが信じる神様はこのようなお方なのです。

もしも、私たちが、神を信じると言いながら、どこかで半信半疑でいたり、求めもしないなら、私たちは、偉大な神様を、自分の中で小さく小さくしてしまっていないか。

神様は決して私たちの理性や限界、心に収まってしまうような小さな神でなく、偉大な無尽蔵の富を持つ全知全能のお方であり、私たちが信頼して、大胆に求めるときに、答えてくださる方なのです。


この8節の「しつこさ」にはもう一つ意味があるのだと語られました。

それは「大胆さのゆえ」という訳です。

神様を信じる者は恥を見ることがない。神様の前に願う前に決めつけず、神の御心に従って大胆に祈る時に、主は、その祈りと願いに答えてくださり、私たちに恥をみさせることはない。アーメン!そのことを覚えたいと思います。


❷どのような姿勢で祈るのか?


9せつで「求めなさい。探しなさい。叩きなさい」とあります。


⭕️求めなさい

①ギリシャ語「エルタロウ」🟰「同じ立場の人が、同等の存在にお願いする」という意味があり、イエス様が神様にお願いする時に使われている言葉です。

ヨハネ17章9節において「彼らのためにお願いします」とイエス様が祈られています。

②ギリシャ語「アイテオウ」🟰「身分の低い人が高い人にお願いする」という意味であり、部下が上司に対して、あるいは子が親に対して使う言葉であり、子どもが親の目を見つつまたは目上のひとに求めてゆく、そのような言葉です。

神様に対する私たちの姿は、同じであり、子としての特権を与えられた私たちは「神様はこの祈りを受け入れかなえてくださるだろうか」と神様を見上げつつ祈ってゆくのです。


⭕️探しなさい

私たちは求めることに関して行動が伴わなければなりません。思ったら行動せねばならないのです。諦めてしまったらそこまでです。神様が見つけさせてくださるなら、探し続けるという姿勢が求められているのです。


⭕️叩きなさい

この例えで、友人の家のドアを叩き続ける人の姿を思います。

ドアを「ノックする」というのは、目上の人への働きかけであり、それは「神様に求め続ける」私たちの姿であるのです。

もし叩くのをやめてしまったら・・・。今はそうじゃないんじゃないか。きっとその時じゃないんじゃないか。と勝手に思うと、私たちはいつしか叩くことにさえ躊躇するようになります。しかし、神様を信頼し続け、求め続けることを神様は望んでおられると知るのです。


❸聖霊による祈りをささげる者


イエス様は、主の祈りを教えてくださる時に「天のお父様」と呼んで良いのだと言われました。私たちと天のお父様との関係は「これが欲しい」というときに、決して愛を裏切られるお方ではなく、最高のものを与えようとされている方であることを知るのです。

ローマ8章32節に「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく、死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」と記されています。

一人子、御子キリストという最高のものを与えてくださった神は、その御子よりも劣るすべてのものを必要であるならば、与えないことはない。この信仰です。

そして、13節に「神は聖霊を与えて下さる」と記されています。


ルカ書を通して、私たちが教えられることの一つは聖霊の存在と豊かな働きであり、この聖霊を通して、私たちは、神様の御心にかなう祈りをすることができるように成長させられてゆくのです。パラクレイトスー聖霊によって心を聖め、神の御心にかなう者としてくださるのです。


「神の子の特権は何か」それは聖霊を与えていただくことであり、聖霊は言いようもないうめきを持って私たちのために祈るべきことを祈ってくださる。

どのような祈りが、神の御心にかなうのか。聖霊は教え、御心にかなう願いをさせてくださり、神の子とされた私たちを神様は、良いものでみたし、必ず、神の栄光を現すものとしてくださる。アーメン!感謝します!


「何事でも神の御心に従って願うなら、神は聞いてくださるということ。これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。ヨハネの手紙第一 5章14節  聖書」




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