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「惜しみないキリストの愛」*ルカ10章21〜24節

更新日:2023年5月17日



5月14日。教会でスタートした母の日。と共に、個人的には、イスラエルの建国記念日として神様の言葉が一つ一つ成就されるということを心に噛み締めつつ過ごしました。AD

70年、イスラエルの民が散らされてからの1948年5月14日。誰がこの国の再生を思い描いていたでしょうか。神様がなさると言ったことは必ずなるということ。実に1900年近くの時を経て再び国が再建し、また今、ウクライナとロシアの戦争によって多くのユダヤ人たちがイスラエルの国に帰還しています。聖書は一つの間違いもない信頼に足る書物であり、ここに書かれてきたことはすべて成就されてきました。まだ成就されていないことはイエス様の再臨であり、終末になされることについて聖書はその四分の一を費やして預言していますが、私たちはこの世界情勢を見ながら、聖書が預言していることが一つ一つ進んでいること。そして今自分達が立っている場所を、使命を確認しつつ、主の前に厳粛な思いを持って歩まされたいと願うばかりです。


さて礼拝は、ルカ書10章から講解説教が続いています。「イエスが心に定めた者」と題して。

先週は、遣わされた場所で成功を収めたことを喜ぶ72人の弟子たちに向かって、イエス様が目に見える成功でなく「あなたの名がいのちの書に記されていることを喜ぶなさい」と言われたことから学びました。

イエス様は、そのご自分の言われた言葉に、聖霊よって喜びに溢れて今日のみことばを語られました。(21節)


❶隠し、現す方。

イエス様は21節で「父よ」と神様に話しかけられました。「アバ!」と呼びかけるこの言葉はイエス様が父なる神様と親しい関係であることを表し、その父という言葉の前に「天地の主であられる」とつけられました。この言葉は、聖書を辿ってゆくと創世記の14章まで遡ります。そこにはアブラムを迎えに出てきたサレムの王メルキセデクが登場しますが、この中で、19節、22節とに「天と地を造られた方」という言葉が出てきます。この元々の言葉は「所有者」を表す言葉であり、全てを創造し支配されている絶対的な権威を持っている方という意味があるのだと語られました。


この神は「隠す」こと「現す」ことをされるお方であること。

「啓示」という言葉が語られました。

「啓示」には「一般啓示」と「特別啓示」があります。

霊であられる神が、肉である人に、この二つを通してご自身を啓示されるのです。

「一般啓示」。神様の造られたすべての被造物を通して、私たち人間は素晴らしいなあ、すごいなあと感動します。花や虫。山や海。生き物、星や月、宇宙・・・ただただ神様の創造の御業を前に驚き、創造主の存在を感じるのです。しかしこれだけでは神様のことがわからない。「特別啓示」聖書を通して、この天地全てを造られた神様が「私」を愛してくださっていること。そのために愛する一人子イエス様をこの世に送ってくださったこと。イエス様は私たちの罪をすべて負ってくださり、そのキリストイエスさまを信じるだけで、永遠のいのちを持つこと、神の子としてくださる特権を与えてくださったことを知ることができるのです。


神様は私たちがそれを知らないでいることをお許しにならず、現してくださいました。しかし、これをある人々には明らかにし、ある人々には隠されると、イエス様はここでおっしゃられたのです。

21節「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」

22節「父が誰であるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者の他は、誰も知りません。」とあります。

これは、聖書をその文字通りに読むときに、イエス様が隠される人とは「自分を知恵ある者と思っている者」ということです。

多くの聖書学者や哲学者が聖書の研究をし、成果を発表します。しかし、聖書を学問書として学ぶだけでそこに神様への信仰が見られないときに、まさしく神様が彼らに大事な真理を「隠されている」ということを見るのです。


この「知恵者」の対角上に置かれているのが「幼子」です。成熟に対して未熟な存在です。

幼子は、自分を賢い者として高く置くことなく、心低く教えられやすい魂です。救いは、自分の努力や知恵、才能、能力に応じて信じて与えられるのでなく、一方的な神様の恵みによって与えられることを喜ぶ空っぽの心、心の貧しさによるものなのだと、イエス様は語られたのでした。


❷イエスが心に定めた人


22節「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子が誰であるかは、父の他は誰も知りません。また父が誰であるかはこと、子が父を現そうと心に定めた者の他は、誰も知りません。」

天の神様のことをイエス様はよく知っておられ、イエス様のことを天の神様はよく知っておられる。非常に親密な大切な関係。そしてそれだけでなく、本当は知り得る事のできないはずの外部の人もそれを知ることができるようになる。そしてそれはイエス様が「心に定めた人」とあるのです。


このみことばを聞いて、ああなんてイエス様は気前の良い、惜しむ事のない方なのだろうと改めて思いました。イエス様を信じることを通して、私たちは神の子とされました。つまり「神の養子」とされたのです。長子であられるキリストの下に、私たち信じる者が続々と「養子」として神に愛される存在として家族に入れていただける。このようなイエス様の愛はとてもとても測り知ることができません。

さらに、それは「イエス様が心に定められた人」とあります。つまり、信じることに導かれた私は主の一方的な憐れみと恵みによって選ばれ、主が定めてくださった、ということで、なんという選び、恵みでしょうか。


これは誰にでも開かれているものでなく、誰もが信じれることではない、と聖書にあります。

それはラクダが針の穴を通るよりも難しく(マタイ19章24節)、イエス様は「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていく者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そしてそれを見出すものはわずかです。」(マタイ7章13〜14節)と言われているのです。

しかしその難しいことも可能にして下さるのも神様であり、

神様が定めたすべての人が救われることを望まれているということと、それが神様の御心なゆえに先に恵みを受け取った私たちは、主の選びにあるすべての人々に福音を届けることに心を配りたいと切に願わされます。


❸時代的な特権

イエス様は23、24節で、言われました。

「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。あなたがたにいいます。多くの預言者や王たちはあなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに聞けませんでした。」と。


天地創造から約3000〜4000年でしょうか。アダムとエバから、イエス様がこの世に来られるまでの間に多くの人々が歴史を積み重ねてきました。多くの預言者や王が、聖書の約束を待ち侘びて、生きてきたのです。「救い主はいつ来られるのだろう」と。そして、聖書の予言は2000年前に成就し、キリストがこの世界に人の子として生まれてきてくださいました。(ユダヤ教の人々はイエス様を救い主として信じないのでまだ来られない、いつ来られるのだろうと今も待っている状況ですが・・・・)イエス様に会いたくても会うことができなかった旧約の時代の人々を想うときに、私たちは、イエス様が十字架を通して救いの計画を完成してくださったことを受け取ることができ、なんという恵み、時代的な特権を受けているのだろうと驚きます。


9章の後半から厳しいイエス様のメッセージが続きましたが、この最後にイエス様はどんなに私たちが恵みを受け幸いにあるのかを説いてくださいました。この喜びをいつも心に覚えつつ、この世の戦いですでに勝利してくださった主が共にいてくださる、そのことに励まされ、日々の歩みを強められたいと願わされたことです。


「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。」ヨハネ16章33節      聖書

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