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「私は神の憐みの器」*ローマ書9章14節〜24節

更新日:2022年6月29日


引き続き緊急事態宣言のもと、ズーム配信のみの礼拝となっています。


ローマ書9章14節〜24節より「あわれみの器として」と題してメッセージ。

❶救いは一方的な憐みによるものである。

14節に「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」とあります。

誰が選ばれるか、すべては神のご意思にあるのだということが語られました。

意思とは、その人に選択権があり、誰も口を挟むことができません。あの人が選ばれたのは公平だ、不公平だと私たちは言いやすいものですが、選ばれた人が選んでくれた人に感謝するということが重要であること。


神の子としての身分が与えられたこと、救われたことを神様に感謝する。この世界の約79億という人口の中で、神が選ばれた私。ユダヤ人でもなく異邦の民、日本人の私をなぜ選んでくれたのか。それは神の憐み以外のなにものでもないということ。そしてただの偶然ではなく、母の胎に宿る前からこの存在を見つめてくださっていた、非常に綿密なご計画を備えていてくださったということ・・・。


16節には「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」とあります。

ただ、神の憐れみによってある私。

しかしながら、全てが満たされていると、私たちはそのことに目を向けることもなく、「神様私を憐れんでください。」と祈ることができないのです。


神に取り扱っていただくのでなければ。憐れんで頂くのでなければ・・・。

神様の前に心砕かれ、ひれ伏すときに、神様はその人の心に罪について、義について、誤りを聖霊を通して示してくださる。


伝道についても少し触れられました。私たちが一生懸命、熱心に、努力するというところに頼ると勘違いしてしまいやすいけれども、「救いは神の憐みによる」のであり、その中で、主の最善がなされるために用いていただくという姿勢です。


先週、私が読んでいた本が取り上げられましたが、要約・抜粋してご紹介します。

舟喜信先生の書かれた「キリスト者が神を信じるということ」という本のなかで、イギリス人のトーマスという青年の話が出てきます。

彼は、13歳の時にキリストに出会い、それから献身の思いが与えられる中で、ロンドン大学に進学し、教会や学生キリスト者の集いで一生懸命伝道した。自分でできる限りの伝道を声を張り上げ熱心にした。ところが、いくら頑張っても一人もそこから救われる魂が起こされない。

彼は、ああ自分は役に立たないしもべなのだととても惨めになり、ある日部屋に座り込んで祈った。すると突然神様が彼の心をみことばの焦点に合わせてくださった。走り回る彼を神様はずっと見守られ、絶望して倒れる時を待っておられた。「わたしは道であり、真理でありいのちである。」と。あなたはずっとわたしのために熱心に生きようとしてきた。しかしわたしはその七年間、あなたを通して生きようとしてきたいのちである、と。あなたはわたしのためにずっと働こうと努力してきたけれども、わたしはあなたを通して働こうとしていた、と。こういう神様の語りかけを聞いて、トーマス青年は自分が、忠実に一生懸命やってきたまわり続ける風車のようであった、ただもう走り回っている活動家であったと気づくのです。


「あなたはわたしのために働こうとしていたけれど、わたしはあなたを通して働こうとしていた。」それは、方向が違っていたということです。私が立派なことのために、主のためにと言っている限り駄目であり、「わたしはあなたの中に、あなたを通して、あなたが頑張っていくことではなくて、あなたを支配して、あなたを用いて、あなたの中に満ち満ちて、あなたを聖霊の支配の中で満ち満たして、私の業を行わせよう」という主の声に聞く。

そのことの違いがわかることは、本当に奥義を知るか知らないかの違いであると舟喜先生が書かれています。

私が熱心に主のために働くのか、主が私を通して働かれるのか。もし後者が正しいなら、主が働かれるのをじゃましないことです、不信によって、自己主張によってじゃましてはいけない。一生懸命やっているというプライドのゆえに主は何もできないかもしれないーと。


神様の取り扱いを受けたトーマス青年は、次の日曜日の奉仕で、若い人たちの聖書研究の働きに出てゆくときに、神様にこう言ったそうです。

「主よ。あなたはあの少年たちのクラスにお話に行かれるのですね。素晴らしいです。

昨日、私は自分が行くのだと思っていました。」と。

そして、そこで何人も少年が救いを受け入れキリストを信じたのです。


そしてこのように書かれてありました。「主の働きのために、主の御名によって私たちが遣わされて行く時、それが伝道のためであろうと、職場の働きであろうと、主の栄光のために行く時、『主よ。あなたが行かれるのですね。昨日私は自分が行くのだと思っていました。』と言うことの大切さ。

私たちの歩みに、なぜ、痛み苦しみ、悩みがあり、勝利がないのか。確信や周りとの調和がないのか。なぜいつまでも自分にこだわり続けるのか。なぜ栄光の主が先立っていることを見ることができないのか。それは、あなたの熱心さゆえです。」と。


戻りますが、私たちは、この神のあわれみと働きによりすがる者でありたいと願わされます。伝道もまず祈祷会や日々の祈りを通して主の御業を拝す者とされたいです。


❷あわれみの器として生きましょう。

「全て神のみわざであり、主権があるなら、人間の側に責任はないのではないか。」という言葉、責任を放棄する態度は神に言い逆らっているのと同じであると語られました。

19〜21節にはこのように書かれています。

「すると、あなたは私にこういうでしょう。『それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。誰が神の意図に逆らえるのですか。』人よ。神に言い返すあなたは、一体何者ですか。造られたものが造った者に『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」


「神と私」の関係は、「天地万物の創造主であられ、絶対者であられる神」と「その神が創られた人」という関係であり、神の憐れみによって私は「最高の器」というのではなく「あわれみの器」としてこの時代に生かされているのだと語られました。




100%完璧でなく欠点もある。しかしそれを神にいう権利はない。その私を通して「あわれみの器」として神は用いてくださる。「選んだ方と選ばれた私」。

あの12弟子も欠けだらけの人たちでした。

彼らはイエス様と過ごした3年半も常に権力闘争していたのです。そしてイエス様が十字架にかけられる前までそれは続き、十字架のイエス様を誰一人助けようとしなかった、それが12弟子の姿でした。その彼らに向かってイエス様は言われました。



「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ。」と。

私たちはどこに行っても問題・悩み・トラブルを抱えます。しかし神が私をここにおいてくださった。このトラブルも含めて、神のみ許しの中に置かれている。だから私はここで神に栄光を帰そう。私たちはそのようにたとえ問題があっても、神の介入・働きを期待しつつ「あわれみの器」として歩みをなしてゆきたいと願わされました。


「このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。ローマ9章24節     聖書」

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