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みことばの力*ローマ書10章14〜17節

更新日:2022年2月15日


今日から対面での礼拝が再び始まりました。人数を制限しての礼拝ですが、久しぶりにお会いする皆で共に神様に礼拝をお捧げできる恵み、感謝いっぱい❣️


礼拝の子どもタイム


こどもたちと共に学びつつ、今日は92問目でした。


メッセージは、「遣わされる幸い」と題してローマ書10章より。

❶福音を聞けなかったことが問題なのか

こどもタイムでちょうどみことばが開かれましたが、私たちはキリストを救い主として信じ受け入れるだけで永遠のいのちをいただくことができます。しかし、この福音を受け入れなかった人々はさばきに合うと聖書は教えています。

リック・ウォレンというアメリカの牧師が、「人生の5つの目的」という本を書かれていますが、その中で人生で一番大切なこと、1丁目1番地は「生きている間に神様と出会うことだ」と述べています。


死後、よみの世界でも福音をきいて救われる人もいるのだ(セカンドチャンス)と語る人々もいます。しかし、聖書のみことばに忠実に、決して人の目や願望からでなく、神の目を知るときに、イエス様が語られた「金持ちとラザロのたとえ話」にも見るように、愛であり義であられる神様は裁かれる方であること。本当にゲヘナの苦しみがあること。私たち人間は、謙虚にこの絶大な愛であり義である神様に信頼を置くだけの存在、そして聖書が語る以上のことを語ることを慎まねばならないことを知るのです。

 「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」イエス様の言葉です。神を畏れ、神の言葉に立つことを思います。


私たちは神のみことばが語られてゆくときに、神の招きを受け入れる人と、拒む人がいるということにも気づきます。パウロも、全ての選ばれし同胞・そして異邦人が救われるためにみことばを語っていきました。ある人は福音に心を開き、またある人は、心を閉ざします。

閉ざした人に対しては、「みことばを聞かなかった」ということにはならず、全ての人にみことばを語り続けていくことが、先に救われた者に与えられた務めであります。


イエス様の生涯をみるときに、30歳まで人々の間で暮らし良い証をたてて過ごされ、30歳からは公生涯に入られました。十字架の苦しみの前に、

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と北ガリラヤ地方から南ユダに至るまで福音を宣べ伝え歩かれたのです。

この時代。このコロナ禍を通して不思議なことが始まっています。リモートでの礼拝やYouTube配信が広がり、福音を聴こうと思えばいくらでも、聞くことができるようになりました。

恐ろしいコロナとともに、福音がネットを通して広がる時代へと変わっていったのです。


以前私たちがお仕えした教会でも、そのような福音の動画を聞かれ「聖書を学びたい」と教会のドアをたたかれ、牧師と学びをする中で、イエス様の救いを受け入れ告白し、受洗された方がいました。


福音を語ることは、神様から一人一人が託された務めであり、主は一つ一つの機会を働かせて用いてくださるから、そのために祈り備えてゆくべきことをもう一度示されました。


❷みことばを語り続けなさい。

私たちはみことばを語るということを諦めないで、挑戦し続けてゆくものでありたいです。

人を救うのは「神のみことば」であるということを改めて示されるのです。

みことばには力がある!ゆえに、私たちはどこに行っても福音を伝えるものでありたいのです。

どうしたら、伝えられるのだろうか。

「みことばが、人を救いに導く」ということに、重きを置いていくべきこと。

私の行いを通して信仰を証する・・なんとなく、いつか・・・・でなく、

人が救われるために、神様が与えてくださったものは、「みことば」そのものであること。


パウロはローマ書1章16節で

「私は福音を恥とはしません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも信じる全ての人に救いをもたらす神の力です。」と語りました。


羽鳥明先生という牧師の話が語られました。

戦時中、旧制中学時代の軍事教練の時間に教官が「まさかいないとは思うが、この中に、敵国の信じる耶蘇を信じるものなど、いないな?」と威圧して脅かした時に、「はい。私はクリスチャンです!」と自分が信仰者であることを告白して立ち上がった同級生舟喜順一先生がいた。その姿に衝撃を受け感動して、「その強い姿は何なのだ。」と声をかけ、そこから教会に行くようになったというのです。

みことばに根ざし、忠実に生きる姿を見させられます。


福音に、神様のみことば以外の混ぜ物をして、人々の関心を集め、みことば「も」語ります、という人がいます。しかし、みことばはそんな弱々しい付け足しのようなものではない。神のみことばには、ダイナマイトのような原動力があり、私たちは、その主を信頼し

ただ謙虚に忠実に示されたように語っていくことが求められているのです。


❸すべての聖徒が遣わされている

テモテへの手紙の中で(第二テモテ3章2節〜5節)パウロはこのように語っています。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

けれども、あなたはどんな場合にも謹んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」


またイザヤ書6章において

神様がイザヤにかたられました。

「誰を私は遣わそう。だれがわれわれのためにいくだろうか。」

私は汚れているというイザヤに主は祭壇の燃える炭火を持ってきて触れられ、

イザヤは「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と主に答えるのです。



小さい愚かなしもべですが、主によって力づけられ、聖められ、主が遣わしてくださることをもう一度思いつつ、勇気をいただき「神のみことば」を蓄え、握り、遣わされていくものとされたいと願わされたことでした。



CSは短い時間の中、ゲームをしたり、お話を聞いたり、元気いっぱい共に主を賛美して楽しいひとときでしたね!ずっと会えなかった夏・秋のお誕生日のお友達の祝福の時間もありました!みんなの成長が楽しみです。

今週も主の祝福が豊かにありますように!!!!


「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は。」ローマ書10章15節 聖書


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