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「私のために祈って下さる方」*ルカ9章18〜20節

更新日:2023年2月19日


寒い日々ですが、綺麗な花の花びら一枚一枚、木々の葉っぱ一枚一枚にすべてを造られた主の愛を想い心温まる1月です。

みことばは「神のキリスト」と題してルカ書より。


❶イエスの祈りは何のためだったのか


先々週は、9節「ヘロデはイエスに会ってみたいと思った」という箇所を学びましたが、彼はイエス様の噂を聞き当惑していました。「あのヨハネが死人の中からよみがえったのか?」と人々がいうのを聞いて関心を抱き「イエスに会ってみたい」と思ってたのです。人々は「イエスの名」が語られると悪霊が逃げてゆき、どんな病も癒やされるのを見て、この人はただものではない、きっとこの方はあの預言者エリヤなのかもしれない、神が選んだ器なのだ、と口々に言っていたのです。


一方弟子たちはどうであったか。弟子たちにはこの「イエスの名」を語る権威が与えられ、彼らは遣わされた所にそれぞれ出ていって、その名を用いて悪霊を追い出し、病を癒して行きました。

実際に「イエスの名」を使って奇跡を行った彼らは、このイエス様をどのように理解していたのか。

イエス様と一緒に行動を共にする特別な経験・体験をしてきた彼らに向かってイエス様が問いかけられた言葉は「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」でした。


この記事についても4つの共観福音書が記しています。ここで、ペテロは、イエス様のことを「あなたは神のキリストです」と告白し、イエス様はそれを喜ばれ「このことをあなたに明らかにしたのは天の父です」と言われたのです。


今日、ここで18節の言葉があったことを初めて意識しました。こうあります。

「さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。」


イエス様はいつも群衆に仕え、彼らに追われる中でも一人になれる時を見つけては天の父なる神様にお祈りされていました。

ここで、イエス様は一人で祈っておられた、とあります。弟子たちもそこにいた中で、祈っておられて、そしてその直後にイエス様は彼らに尋ねられたとあるのです。


イエス様が何を祈っておられたのか。それは、聖書に書かれていないのでわかりません。

しかし、この祈りの後に重要な問いかけを弟子たちにしてゆく前に、イエス様はきっと彼らのために天の父に祈って下さったのではないだろうかと語られました。

それを聞いて、ああそうなのだ・・・と心が平安で満たされました。

彼らに理解力が与えられ、正しい答えをすることができるように導きたまえと祈ってくださっていたのだろう・・・。

人々のイエス様への評価は「偉大な人の生まれ変わりであろう」。それが大多数の意見でした。そのような中で、弟子たちはそれに流されない意見をしっかりとイエス様に告白したのです。それは、イエス様が彼らのために祈っていてくださったゆえでした。



❷告白することの大切さ


ペテロは「神のキリストです」と告白しました。

人々は、イエス様のことを「自称教祖」とか「自己推薦の救世主」ともみていず「神から遣わされた預言者」と言いました。「神から送られた」というところは正しかったのです。しかしその理解では不十分でした。つまり、イエス様は、旧約から神の救いの約束がいよいよ実践する、時代を変える「主人公」であられるのに、人々の理解はそこまでに至っていなかったのです。


ペテロの「神のキリスト」という告白は、この方を通して旧約から語られていることが実現されるということ、そして人間の歴史を転換させてゆく神の力を持った方であると信じる告白でした。


この時代、人に向かって「神」というのは、非常に勇気がいることでした。それは律法で固く禁じられていたからです。また、ローマの皇帝が「生き神」とされ、それに服従しないなら反抗因子として捕えられ殺される時代でした。ですからペテロのこの告白をもしもローマ皇帝がきいたなら、あるいはパリサイ人たちが聞いたら、途端にペテロは捕えられたかもしれない。そのような緊張の中での「告白」だったのです。


ペテロや弟子たちは、この告白の意味を完全に理解していたわけではありませんでした。その彼らに告白するように導かれたのはイエス様ご自身であり、弟子たちをよくご覧になっていて信仰が引き上げられていっているのをご存知で「告白しなさい」と促されたのだと語られました。


弟子たちはイエス様と寝食を共にし、イエス様のみわざをよく見て、さらに、イエス様の解き明かされる言葉を聞いていた。「あなたがたはわたしをよく見てきたでしょう。さあ告白しなさい。」と。彼らは、この告白の後、その真理を求め学んでゆくことになります。

理解不十分の告白を、学び求め続けるそのような姿勢がとても大切であること。

人知をはるかに超えて、理解することが困難だとしても、それでも求め続けてゆく姿勢。イエス様はその私たちのために祈っていてくださっている、とりなして下さっていることを思いました。


❸信仰を深化させましょう


学び続けるということの大切さ。

いくつか本が紹介されました。

リーストロベルの「イエスキリストは神の子か」

J・I・PACKERの「聖書教理がわかる94章」

「ニカイア信条を読む」

「キリスト教とは何か」など・・・。


そしてタンポポの花の話が出ました。

タンポポというのは実は根っこがとても長くしっかりしていること。

ちょっとやそっと引っ張っても抜けないタンポポ。

上に出てくるタンポポの花の部分を信仰生活の姿と見るならば、

下へ下へと伸びてゆく根っこのように、私たちの信仰はどれくらいイエス様が望まれているところまで伸びているだろうか。イエス様に求め続け、学び続ける「根っこのしっかりした」信仰を目指して行きたい、そのように語られました。


何よりも、イエス様が私のために祈って下さっている。こんな心強い励ましはありません。

感謝なことはありません。今週もそのイエス様を頼りつつ「学ぶ者」とされたいと願わされました。


「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。ローマ8章26節  」聖書


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