「神からの召し」と「神への従順」*ルカ1章26〜29節
- nycc-jesus
- 2021年11月29日
- 読了時間: 5分

いよいよ2021年第一アドベントの聖日です。クリスマスまでのこの期間、神様が私たちを深く愛してくださるがゆえに一人子を与えてくださった、そのことに思いを馳せ、心からの感謝を深める時とされたいと思います。
礼拝のメッセージは「恵まれた方」と題してルカ書より。
❶神は「人」に注目しておられる。
26節に「さて」とあります。これは前の記述を受けて、切り替わっていくことを表しており、前の箇所というと、祭司ザカリヤとその妻エリサベツに男の子が与えられるという記事です。ルカは二つの重要な受胎告知をここで丁寧に記しています。
このザカリヤとエリサベツへの受胎告知と、マリアへの受胎告知は非常に似ています。両者とも、当の本人たちが全く予期せず期待もしていない時に、不可能と思われる状況の中で、霊的な存在である御使いによって知らされ、恐れを持つ中で「恐れるな」と声をかけられ、「このような名前をつけなさい。」と告げられ、そして御使いは去ってゆくのです。
受胎告知ということが、こちらの状況や事情など全く関係なく、突然の、神からの一方的なものであるというフレーム(枠)のなかで記されているのだと語られました。
年老いたザカリヤとエリサベツには、バプテスマのヨハネが生まれます。彼はイエス様に先立ち「道備えをする者」として生まれてきました。マリアにはイエス様が誕生します。
神様のご計画によって誕生するヨハネと神の一人子イエスさま。
受胎告知において異なる点の一つとして、「御告げを聞いた場所が違う」ことが挙げられました。
ザカリヤは「聖所」に入っていました。彼は祭司職についていましたが、一生のうちに一度入れるかどうかわからないくじ引きによって老齢になるまで選ばれることもなく、この時にやっと入ることができました。そこで御使いが現れ彼に語るのです。
一方マリアはというと、聖所ではなく「自分の家」に居ました。そこに御使いが入ってきて語ったのです。
私たちは礼拝に来ている時は霊的になり、一旦場所を離れると、日常生活の中では神の声に聞くというよりは世的な価値観の中に身を浸し、まるで信仰と生活を切り離しているような二元的な生き方をしてしまいやすい傾向があります。
しかし大切なことは、神は会堂だけではなく、日常の中で御業を成し、私たちに働きかけ、声をかけてくださるということ。つまり、神様は「場所」で働かれるのでないということ。
神が心を留めておられるのは、実に「人」であるということ。
またこの告知は、マリアにとっては「突然」な事でしたが、このことは神様が初めからご計画されていたことであるということも語られました。第二サムエル記7章13節には、ダビデ王に対しての言葉、メシヤ預言が記されています。「彼はわたしの名のために、一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」と。神に特別愛され選ばれたダビデに対して神様がこの家系から救い主が生まれると預言を与えられたのです。
マリアのいいなづけであったヨセフは、家系図を辿ってゆくと、まさにこのダビデの末裔であり、神様がこの人を選ばれ、お言葉を成就されたということを知るのです。
❷恵みの告知
28節に「おめでとう。恵まれた方」とあります。
これは「喜びなさい」とも訳される言葉であること、またこの「恵まれた方」は、「ずっとあなたが恵みの中で生きてきた中で・・・」と現在完了で書かれていることを教えられました。マリアはこの祝福の言葉を受け取りますが、非常に困惑します。29節には、「しかしマリアは、この言葉にひどく戸惑って、これはいったい何の挨拶かと考え込んだ。」とあります。
主の民として生きる私たちは、自分ペースで生きる者ではない。むしろ自分にとって不都合と思われるような時に、あえて語られ介入される主に自分の歩みを合わせて生かされるということ。そして神の言われるように歩むとき、神様が喜ばれ、委ねて信頼する者に対して自分では想像することもできなかった祝福を開いてくださること。主の召しに応える者の信頼をとても喜ばれるということを改めて示されました。
例えば奉仕の依頼があるときに、それが自分の思いや生活に合わなければ、「やりたくない。」「私の時ではない。」と、信仰よりも合理的な考えで様々な言い訳を述べて断るということがあれば、「神のご栄光のために」といいながら、結局は神の召しでなく、自分の選択によって歩んでいるという現実を知るのです。神様は全てをよくご存知のお方であり、神様と私たちのタイミングというのは、時として異なることが多い。できれば避けたいという「不従順」な歩みでなく、神が召してくださることに対して、責任を持ってくださる神の存在に委ねて歩み出すときに主は私たちを「従順」なしもべとして喜び、必要な力を、全てを与えてくださる方であること。時間も精神も能力も何もかも足りないけれども主よ、用いてくださいと主にすがり、信頼をおいて歩む者とされたい。マリアの姿から大切なことを学ばされました。
❸主があなたと共におられます
マリアへの御使いの言葉です。

この言葉は特に神の恵みが保証されている時に使われる言葉であると語られました。
この言葉が挨拶として使われているのは、旧約においてルツ記と士師記のギデオンへの二箇所だけであり、励ましの言葉としてか、挨拶として語られたのか、この後のマリアへの告知の内容を考えると、神様からの力づけの言葉であったのではないかと語られました。
主が共にいて、働いてくださらなければ立ち行かない者であることを意識づけるための言葉であり、私たちも、自分自身・家族・職場を見て悲しみ心折れることがある。しかし、どうして辛い中にあっても生きることができるか。それは絶えず「主が共にいてくださる」からであること。第二コリント12章9節「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言ってくださる神様が、いつもどこにいても離れず共にいてくださる。
今週もマリアの姿を思い起こしつつ、自分の信仰をもう一度省みつつ、いつも共にいてくださる主に喜ばれる歩みをさせていただきたいと願います。

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「人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、主は人の心を評価される。」
箴言21章2節 聖書
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