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「一番初めの礼拝者」*ルカ2章8〜20節

更新日:2022年6月29日


今年最後の礼拝式。第二礼拝では、転入会式を持ちました。新たに主が加えてくださった兄弟を心から歓迎します!

礼拝のメッセージはルカ書より「最初の礼拝者」と題してメッセージ。

この2021年。「礼拝者」としての私の姿はどうであったか。イエス様にお会いしたい一心で、御告げを聞いてからイエス様の元に駆けつけた羊飼いたちの姿から学びました。


歴史の中で、一番最初に救い主イエス様を礼拝した人々・・・それが羊飼いたちであることを改めて覚えつつみことばをいただきました。


❶イエスへの最初の礼拝者となった羊飼い



15節において、御使いから御告げを聞いた彼らの反応は「見届けてこよう!」という思い一つであり、16節に記されている「急いで」「捜し当てた」という言葉からも、ただなんとなくゆっくりと向かっていったのではなく、告げられた救い主に「すぐにでも会いたい!」「一体どこにいるのだろう?」というひた向きで懸命な姿を見ることができます。きっと

御使いが目印に伝えてくれた「飼い葉桶」を探すために目ぼしいところを一軒一軒巡ったのではないかと語られました。


羊飼いたちは決して暇だったのでなく、真っ暗な夜中に、緊張感を持って、夜番をしていた。仕事中であったのにも関わらず、イエス様のところへ急いだのです。


20節にはこうあります。

「羊飼いたちは、見聞きしたことが全て御使いの話の通りであったので、神を崇め、賛美しながら帰っていった。」

この言葉をそのまま読むと、彼らが賛美した理由は、御使いから聞いた言葉と自分の見聞きしたことがピッタリだったので、喜び帰っていったというふうに受け止めますが、

元々の言葉では、「見聞きしたことに基づいて神を賛美した」と書かれているそうで、それは彼らがイエス様を見たときに初めて信じたのではなく、

「御使いから聞いた地点でその言葉を信じ、それを見たい!という素朴な信仰が彼らのうちに生まれ、喜びに包まれて、信じて、行ったときに、本当にその通りであった」というふうに理解することができるのです。


「行って」「見てこよう」。ルカはこの「行く」とか「見る」「来る」という言葉に彼らの「信じる」という信仰を示したのだと語られました。

ヨハネの福音書においても、ナタナエルやサマリアの女の箇所を見ても「行く」「見る」という言葉に彼らがイエス様を信じてゆく様子が映されています。ルカはヨハネのようにこの言葉を意識的に使いながら、この人たちはキリストを信じている人たちなのだと表現しているのだと語られました。


コロナ禍にあって、インターネットでも自由自在に礼拝できるようになりました。これは以前はなかった現象です。しかし、それが主流になる時間が続くときに、人々は礼拝に戻ってくるのだろうか。なかなか終息しないコロナがたとえ下火になったとしても、便利であったり手軽であったりするインターネット礼拝を選択していくときに、それは果たして「聖書が教える礼拝」なのだろうか。


一度、この礼拝者羊飼いたちの姿を見ながら、私たちもまた主の前に礼拝に「来て」、みことばを聞くことを示されているのでないか。「礼拝の本質」について改めて考えさせられたことでした。


JECAのハンドブックにはこのように示されています。


礼拝を大切にするということ。聖徒が共に集まり、霊の家族としてのお取り扱いを神から受けること。羊飼いたちが「あなたがたのために救い主が生まれた」と聞いたとき、嬉しくて嬉しくて、ワクワク・ドキドキして飼い葉桶に「足を向けた」ように、会堂に集うということ。


神のみことばを聞いて、御業を拝することのできる教会に、心からの喜びと感謝を携えて主の宮に集まる私たちでありたいと思わされたことでした。

主の宮に来るとは、奉仕や仕事のためでなく、主の前にひざまずき、みことばをいただき憐みを垂れていただく、そのような純粋な姿であり、そこに真の休息があるのだと改めて示されたことでした。


❷イエスを礼拝した羊飼いに起こった変化

17節には「それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。」とあります。この「知らせた」という言葉は、15節において、「主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けてこよう。」の「知らせて」という言葉と同じ言葉で、共観福音書の中で、ここだけに記されている非常に珍しい言葉であると語られました。


羊飼いたちに知らせたのは「神様」であり

その神の知らせを他の人々に知らせた「羊飼いたち」


ここに礼拝者としての本当の姿が表されているのだと知りました。

私たちは、奉仕や何か任されていることがあるから教会に来るのではない。一番大切な働きは「神のお言葉を聞く」ということであり、会堂を後にしてそれぞれの職場や家庭に遣わされていくときに、その聞いたみことばを「知らせてゆく」ということであると語られました。


礼拝の中で、メッセージを忘れないように書き留めます。

しかし、そのメモを鞄に一週間しまい込んで置くだけであるならそれはタラントの例えに出てくる愚かな者の行為と変わらないということが語られました。


マタイ25章14〜30節にある例え話です。

「天の御国は、旅に出るにあたり自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。。」という言葉から始まります。主人はそれぞれのしもべに5タラント、2タラント、

1タラントを預けます。しもべたちはそれぞれ、その預かったものを使って二倍の儲けを出し主人の前に持ってきます。ところが1タラント預かったものは、それを用いることなく、土に埋めたまま主人の前に立ちました。主人はこのしもべに対して「悪い、怠け者のしもべだ!」と叱り、彼からその1タラントを取り上げ、10タラント持っているものに与えてしまうのです。


私たちが神のみことばを受け取りながら、それを抱え込んで、しまい込んでいるなら、それはこの1タラントのしもべのような姿であり、主に栄光を返すことができない。


神のみことばが語られるところに、不思議があり、御業が行われていくということ。

羊飼いたちは、ああ!神様は素晴らしい!といただいたものを他者に分かち合いながら帰路に着きました。


20節において、彼らが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とあります。

この「あがめ」という言葉は14節においての「栄光」を動詞にした言葉であり、

「賛美」は13節の天の軍勢が現れて神を賛美したと同じ言葉が使われているそうです。


ルカはこの言葉を重複することにより、御使いたちに使っていた言葉を羊飼いたちに使い、

彼らも御使いのように神をほめ讃えるものたちとして変えられていったことを表しているのだと語られました。


クリスチャン、キリストを信じる信仰者は、神が生きて働かれる方であることを証してゆく「証人」であり、神の栄光を現す存在なのだと、教えられたことでした。


礼拝の後で、今日の御言葉が心に刺さり、涙を流しておられた方がいると聞きました。

主が生きて働かれ、私たちの心に、ご自身のお言葉を持って語られるということを改めて思いつつ、私も主の前に真の「礼拝者」として悔い改めつつ成長させられたいと思わされたことです。


CSでは、クリスマスの後。神様がくださったプレゼントはなくならないことをもう一度お話を聞いて考えました。目に見えるプレゼントやご馳走は全部消えてなくなってしまうけれど、神様がくださった「ひとりご」イエス様はずっとなくならない大切なプレゼントであることを覚えました。暗唱聖句はヨハネ3章16節。


この一年間を守り支えてくださった主に感謝しつつ新たな年を迎えたいと思います。


「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

詩篇116篇12節 」   聖書

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