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「生きる目的」*ルカ9章23〜27節

更新日:2023年2月13日


美しい花々を見ながら、この世界は神様が人間のために造られたのだという言葉を想いました。

背の低い花たちは太陽に向かって上を向いて咲きますが、それはちょうど私たち人間が愛でることのできるように可愛らしく咲いており、高い木々や背の高い花は人が見上げた時にちゃんとその花びらを楽しむことができるように下に向いて咲いている花が多いというのです。花も鳥も動物も神様を賛美しながら待ち望み生きています。豊かな命を見つめながら人間はなんて神様に愛されているのだろうと、さらに優しい神様に思いを馳せるのです・・。


日曜日のメッセージは「自分の十字架を負って」と題してルカ書よりメッセージ。


先週は、イエスさまが「あなたは神のキリストです」と告白できた弟子たちに向かって第二のレッスンをスタートされたという箇所でした。イエスさまに対しての理解がずれていた弟子たちに対して、ご自分はこの地を治める王ではなく、十字架にかかってよみがえられるということを語っていかれました。イエスさまは弟子たちのみならず、そこにいた人々皆に向かって(23節)お話されました。


❶十字架を負うとは


世間一般にはこの「十字架を負う」という言葉は、自分が負ってしまった重荷に対して使われます。健康であった人が大病を患って生きていかねばならない時。また試練を担いながらも進まなければならない時に。しかし、聖書が言う「十字架を負う」とは、そういう意味ではないのだと語られました。


聖書を読みますと、イエスさまが通られた「十字架の道」は残酷極まりない道でした。

ゲッセマネの園で捕えられてからあれよあれよという間に、当時の三職と彼らに煽動された人々によって、普通ではあり得ない夜中に二つの裁判にかけられ、強引に十字架刑が決まりました。イエスさまはローマ兵からなぶられ、からかわれ、鞭打たれ、震えながら重い十字架を背負ってカルバリの道を歩かれました。当時一番重い刑である十字架刑は執行される度にその一人一人のために十字架が作られ、囚人たちはそれを刑場まで自分で背負わされ人々の罵詈雑言を浴びながら十字架につけられていったと言います。


イエスさまは、鞭打たれてから、十字架を背負い、下り坂から上り坂になったところの非常に苦しい場所で倒れられました。田舎からちょうど出てきていたクレネ人シモンという人が兵に捕まり、イエスさまの後から十字架を運ぶように言われて運んだと聖書に記されています。十字架はアクセサリーとしてつけている人がいますが、当時の社会で十字架をそのように身につけていた人などいるわけもない、十字架刑とは恐ろしい極刑でありました。


23節には「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。」とあります。ここで「自分を捨て」という言葉と「日々自分の十字架を負って」という言葉がセットになっており、

「十字架の道」が明らかに「この世の道」とは違うことを覚えるべきことが語られました。

「出る杭は打たれる」そんな世の中です。この世の価値観の中にどっぷりと浸かっている人々と聖書の価値観の中に生きようとする者の生き方は明らかに異なる道にあり「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」と第二テモテ3章12節にある通りなのです。


小さなことですが四福音書の中でルカのみがこのみことばの中に「日々」という言葉を入れているのだと語られました。真剣に主に従うなら、この世は悩み多い世であり毎日毎日この世との戦いが続いている、その世にあって世の光・地の塩として用いられるということはどんなことだろうか。光は暗い所に持っていかれたところで初めて光としての役を果たし、塩も味付けに使われてこそ初めてその働きをする。イエスさまが「あなたがたは出ていって福音を宣べ伝えなさい」と言われたように、引っ込んでいないで、導かれたならば戦いの場・最先端に出ていって用いられなさいということ。主が置かれたその場所で用いられ、そしてその中で毎日毎日信仰を確認する。

「十字架を負いなさい」という言葉に従う道は、痛く苦しく、これはいつまで続くのだろうかと思うような道。しかし、イエスさまに従う中で主が理解を与え、力を与え、助けてくださる。


❷なぜ十字架を負うべきなのか


24節から26節には、原文ではその節ごとの冒頭に「ガル」という言葉が入っているのだと語られました。この言語を訳すと「なぜなら」という意味です。

ですから、24節の「なぜなら自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです」という言葉は、23節の「自分を捨て日々自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」という言葉の理由として書かれているのです。


旧約聖書において「自分のいのちを救うために逃げなさい」という言葉が使われている箇所が挙げられました。


ソドムとゴモラからロトを救い出そうとする御使いや、サウル王から命を狙われた夫ダビデを逃すミカルがこの言葉を使っており「さあ自分の命を救うために逃げなさい」とアドバイスするのです。ところが、このルカ書9章のイエスさまの言葉はそれと正反対です。


ゲームの世界では、登場人物の命というものは失っても何度でもリセットされます。しかし現実の世界では、私たちの命はたった一度のものであり、それを失えば2度とリセットすることはないのです。だからいのちはとても大事なものであり、大切にされるべきものです。

しかし、もし、その命を失っても良いと思うことがあるなら、それは命以上に大切なものを見出したときではないだろうかと語られました。


イエスさまは24節で「わたしのために」と言われました。

つまり、闇雲に捨てなさいと言われたのではなく「わたしのために捨てるなら救われる」と言われたのです。「いのちというものは守るものではなく、使うものなのだ」と。


私たちは皆「いのち」をある目的のために使います。生きるという目的のために、働き、学び、もっと幸せになるために、もっと豊かになるためにと、そこに全てを投資してゆくのです。

しかし、自分のために投資するからといってその人生が豊かになるかというとそうはなりません。自分のためでなく、あの人のために、この人のためにと他者のために生きるという時その命が生き生きとして、やる気がアップしてゆく。。。それが一般論です。

ところが、イエス様がここで言われているのはそのような生き方でもなく「日々自分の関心事や自己中心な生き方を捨てて『イエスさまのために』生きる時に自分自身のいのちを救うことになる」という真理なのです。


25節には、自分中心の生き方をしたとしてもそれが「何の益になりますか」と書かれています。商売で大きな儲け・稼ぎを得、たとえ全世界を手にしても、いのちを失ってしまったら、何の益があるだろうか・・・と。


トルストイの話が出ました。「人には生きるためにどれくらいの土地が必要か」という話です。登場してくる男は、歩いただけの土地を得ることができると聞くと、もっともっとと欲を出し体力ギリギリまで歩き続けました。しかし、その果ては力尽きて死んでしまい、結局彼が得た土地・彼にとって必要だった土地とは彼を葬るための棺を入れるだけの土地でした。


聖書の中のルカ12章にはイエスさまが話された「ある金持ちのたとえ話」があります。

金持ちの畑が豊作になり、蔵を建て直さないとならないほどの収穫・稼ぎとなりました。金持ちはいうのです。「我が魂よ、これから先、何年分もいっぱい物が貯められた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」ところが、この金持ちに向かって神様が言われた言葉があります。「愚か者。お前の魂は、今夜、お前から取り去られる。お前が用意したものは、一体だれのものになるのか。」と。

イエスさまはこのたとえ話の最後に言われました。

「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこの通りです。」と。

私たちが生きていくためにはある程度のお金は必要です。しかし、もっともっとと欲を働かせることは虚しく「自分のために」と私たちが作り出すものは最終的には、何の益にもならず、地上の富は何の益もないと言われているのです。

「今、このいのちが守られているのは、それを守っておられる神様がおられるから」

自分の益に固執することなく、神様の望まれる道を最優先する、御心を求めそこに従う道。

「日々自分の十字架を負う」道は、決して自分を滅ぼす道なのではなく、自分を救っていく生き方であることに気づくのです。


自己実現が叫ばれる時代です。しかし私たちは自分で自分のいのちを握ることはできず、全ては神様の御手・主権の中に生かされているのだということを知るときに、神様の御心を求め従うことは至極当然のことのように思います。そこにこそ本当の幸せ・平安があるのだと知るのです。全てをご存知でそこに歩む者の上に最善しかなさらない神様を恐れ、そこに従う道を選びとってゆく歩みとされたいです。


「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは、悟ることである。箴言9章10節」

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