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「今」でなく「やがて」*ルカ6章22・23節

更新日:2021年1月22日

今日は児童祝福式が礼拝の中でありました❣️


牧先生に祝福のお祈りをしてもらいました。教会ですくすくお兄さんお姉さんへと成長している子どもたちが、さらに神にも人にも愛され祝福されて大きくなりますように。教育部の役員の方から、みんなお菓子のペンダントを頭からかけてもらいましたよ。嬉しそうです。😌

小さいちゃんはお誕生日を迎えみんなでお祝いしました。おめでとう❣️CSではクリスマスに向けてアドベントカレンダーを製作中。スタッフの方が丁寧にご準備くださったものに、自分の名前もしっかり書けるようになったり、数字を記入していったり・・自分の必要なペンを「ください!」と訴えていたり、それぞれ小さなことだけれど、こんなこともできるようになったんだなあ・・と感動しながらのCSですね・・。お話はダビデさん。サムエルさんも出てきたね。みんなよーくお話を聞いています。



 礼拝ではルカ6章22・23節より「人の子のために受ける試練」と題してメッセージ。

22節では、「人々があなたがたを憎む時、人の子のゆえに排除し、罵り、あなたがたの名を悪しざまにけなす時、あなたがたは幸いです。」とあります。

キリスト者は、世のものではないからこそ世から憎まれることを覚えなければなりません。

ヨハネ15章19節には「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」とあります。

 

 私たちのアイデンティティーは「天国人」であり、天国に国籍を持つものです。この世に生きながらも、この世のものではない。ローマ書12章2節には「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば神の御心は何か。すなわち何が良いことで神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるようになります。」ともあります。この日本の法律、民主主義、人権の根底には、「聖書」があります。しかし風習や伝統といったことがくるとき、私たちは、聖書と照らし合わせて判断していかねばならないことが多々出て来ます。たとえ「和」が大事なのに、何故できないの?と問われたとしても、です。

 

 いにしえの聖徒たちも多くの困難に会いました。たとえば、使徒の5章において使徒たちは、サンへドリンの議会に引き出されました。大祭司たちに捕えられた牢から主のみ使いによって連れ出され、恐れなくいのちの言葉を語る使徒たちを、妬みに燃える大祭司と仲間達が再び捕え、脅し、鞭打ったのです。しかし、使徒の5章41節に、こうあります。

「使徒たちは、御名のために、辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。」と。

 ペテロも弟子たちもなぜ喜んだのか。

ルカ6章23節に「その日には踊りあがって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」とあります。実に、キリストの栄光が現れる時に私たちが、歓喜に溢れて喜ぶためです。創世記から黙示録に至るまで、聖書に一貫して書かれているのは、「今生きている世と、やがて来る世は繋がっている」ということです。

「今」と「やがて」は直結しているのです。

 

 ルカ19章にはミナのたとえが、マタイ25章にはタラントのたとえが書かれています。

私たちが地上でどう生きたかが、神の国でどうなるか。また、のちに与えられるものは確かであり、それが神の約束であると信じ、見定め、歩んでゆくことの大切さを示されます。

私たちは、「今」を求めるのか。「やがて」を求めるのか。この世の事ばかりに目を向けるのではなく、やがて神の国に入るときに、価値観が大逆転することを知らされた者、神を信じる神の民として、「今」でなく「やがて」に希望をおく、そのような歩みを、主に助けていただきながら、進んでゆくものとされたいです。


「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」第二コリント4章18節 聖書




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