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「神に従う生き方」*ローマ15章22〜33節

更新日:2023年2月6日


秋ですね。午後焼き芋大会をしました。小さなお友達とだけですが、せっせと牧先生の作ったお芋を洗い、ホイルに包んで待つこと1時間(^-^)「まだ〜?」「まだ〜?」と待ちきれない様子の子どもたち。初めて食べる焼き芋は予想以上に美味しかったようで満面の笑み。食欲の秋です)^o^


礼拝のメッセージは「力を尽くして神に祈って」と題してローマ書より。

❶神の御心に従って生きましょう


22節の「そういうわけで」という接続詞は19節の「私はエルサレムから始めてイルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。」という文章に続く言葉だと語られました。エルサレムからイルリコまでの宣教。

パウロは、ローマに行くことを切望していました。また他の多くの場所にも赴きそこで伝道し、聖徒たちにも会い、励ましたいと願っていたのです。しかしながら当時の未発達な交通機関の中でその広大な地方全てを巡り行くことは難しかったこと。

そのような中でも、25節ではパウロは色々な地域を訪れ宣教し「もう私の行くべき場所はない」と言っています。「あちらへこちらへと伝道し尽くしたので、もう行くべき場所はないのです」と。

私たちも天に召されるときに「ああこの地上で、私が伝えるべき人はもういないのだ」と言ってこの世を去ることができるだろうか。そんな問いかけがありました。

パウロは、なおもイスパニア(現在のスペイン)へと24節で願っていたことがわかります。



パウロのように広く長い距離に至って伝道した人はいません。そして彼はさらにイスパニア、その次はまた別のところへと行こうとしていたのです。このような情熱、伝道スピリットはどこから来ているのでしょうか。

使徒1章8節においてイエス様が天に昇られたときに言われた「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」という言葉をパウロは、使徒たちと交わる中で聞いたに違いないと語られました。


その言葉を聞いて、パウロは思ったことでしょう。「ああ。私に知力・体力があるからでない。聖霊が私を突き動かし、用いてくださるのだ。私が行きたいから行くのでなく、聖霊が導かれるなら行くのだ。」と。


「自分に与えられた人生をどう用いてゆくのか」パウロの言葉から、私たちは個人的なテーマとしてこのことを祈り求めて行かなければいけないということを考えさせられます。

神を知る前は自己実現のために生きてきたでしょう。あるいは神を知ったとしても「これは自分の人生」と、自分自身でぎゅっと握り「残ったほんの少しを神様のために」そんな風に思ってきたかもしれません。

しかし、神様の力強い働き、聖霊の導きを知った時に「なぜ私がここに置かれたのだろうか」と考えて、歩むことは大切なことで、考え、受け止めることを先送りしてしまう時に、結局自分の思いに従ったままで人生が終わってしまうかもしれないのです。


「イエスキリストは、命をかけて私を救って下さった。でも、私は命をかけるのは嫌です。私のやり方で、やりたいことをします。あなたの道に歩む時に何か問題が起こってきたら・・・。」と、もし自分の願い通りに、人生を設計し進むならば。

「神が召されて志を与えて下さったから私は神に従います」と前進する時に、神ご自身が

「人生」を保証し、従う者がたとえ失敗したとしても、尻拭いをしてくださる。


「一度きりの人生。後悔しないように生きればいい」そんな言葉を聞きます。しかしそれは神抜きの人生です。神を知り救われ、生かされる今。精一杯神に仕え、従うべきなのです。神に従うこと以上の祝福はありません。

ヘブル書のアブラハムの姿を見ました。

神様はアブラハムに一言だけ言われました。「私の示す地に行きなさい。」と。

もしアブラハムが神様の言葉に従わなかったら神様は別の人を立てたでしょう。そのように語られました。

豊かな都市で裕福であったアブラハムは全てを捨てて、神の言葉に応答し、決して魅力を感じることなどなかったであろうカナンの地へと出ていったのです。神はそのようなアブラハムの信仰を祝福されました。


神様は同じように私たちに語りかけて下さっています。「わたしに従いなさい。わたしに聞きなさい。」と。その言葉に従う時に人生を祝福してくださるのです。

パウロはダマスコの途上でキリストと出会いました。そして、彼のために祈るように遣わされたアナニアによって神の言葉を聞くのです。「あなたは、わたしの名を、異邦人・王たち・イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。」と。この言葉を握り、神様に従い、パウロは祝福され用いられていきました。


❷信仰者には主にある交わりが必要である。

パウロは25節において、ローマの教会に行きたいけれども、エルサレムに行くのだと記します。異邦人たちから捧げられた献金を携えてエルサレム教会に行くのだといっているのです。エルサレム教会は一番初めにできた教会だから、さぞ大きく成長していたのではというとそうではありませんでした。大きな迫害に遭い、散らされ、散らされた先々では宣教が広がっていましたが、エルサレム教会自体は常に厳しい監視があり、攻撃があり、繁栄よりもむしろ必死に弟子たちが守っていたような状況だったのです。


迫害ゆえに職を失い、生活が困窮する。そのような状況の上にエルサレムで飢饉が起こり、厳しい生活が強いられていた。パウロは比較的余裕がある地方異邦人の教会にエルサレム教会の窮状を訴え、マケドニアやアカイアの人々はパウロの訴えに応えて、当然するべき義務として喜んで捧げていきました。エルサレムが最初に宣教を担い、そして私たちが生み出されたのだからエルサレム教会を助けよう!と。


パウロの書簡や使徒を読むと、パウロが宣教旅行の度に、エルサレム教会やアンテオケの教会に戻り、宣教報告をし、交わりを深くしていたことがわかります。

25〜29節の文章を読むと、そんなパウロの「この献金をエルサレム教会に届けて励まさなければ!」という思いが満ちていることがわかります。


❸宣教には祈りが欠かせない。

30〜32節でパウロは熱く語ります。

「私のために、私と共に力を尽くして、神に祈ってください。」と。

この言葉は元々「私と共に戦ってください。」という意味であるのだと語られました。

つまり福音宣教は戦いなのだと。この戦いは目に見える血肉の戦いではなく、肉の目では見えないが確実にある霊の戦いなのです。

エペソ6章12節にあります。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる諸々の悪霊に対するものです。」


インドネシアの奥地に宣教師として遣わされていた先生から「霊の戦い」について話を聞いたことがあったそうです。そこでは目に見えるような形で霊の戦いが展開されていたそうで、それを聞き、驚きつつも「では、なぜ、日本ではそのようなことが見られないのでしょうか。」と宣教師に問いかけてみると「日本では完全に悪魔が勝利してしまっていて、聖徒たちが救霊のために祈ることがないので、戦いをするまでもないだろうと悪魔が安心している状態にあるからだ」と言われてショックを受けたということが語られました。


今、異端や新興宗教などが日本にははびこっており、恐ろしい旧統一協会の問題についても毎日耳にします。

先週は国会で、金子みちひと議員が「私はキリスト教会の牧師です。昨日も礼拝で奉仕させていただきました。旧統一協会の問題が毎日取り上げられる中で、メディアが「教会」「教会」と呼ぶようになり、私たち正統な伝統的・聖書的教会は、勘違いされることもあり大変迷惑しております。一般名詞でなく、「旧統一協会」としっかりと固有名詞で呼んでいただくようにお願いします」とはっきりと語って下さっていましたが、本当に

霊の戦いを感じます。

この国のために、救霊のために祈ることの大切さを思わされます。


「礼拝と祈り会を大切にしましょう」と語られましたが、祈りというのは力です。

何もしなかったとしても、心一つに主の前に祈りを捧げる時こそ主の働きをみる。

主に信頼して、喜ばれる選択をする今週の歩みでありたいと思います。


礼拝後は1時間ほど、教会墓地にて、先に天に召された方々を思い、彼らの信仰を思いながら、聖書のみ言葉に力をいただく恵み溢れるひと時を過ごしました。

爽やかな秋風そよぐ緑の中「ラザロよ。出てきなさい」と叫ばれたイエス様を思いつつ

永遠の命をいただくことの恵みを思わされました。感謝します。


「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、全ての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。エペソ6章18節」




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