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安心していきなさい*ルカ7章36節〜50節


2021年2月の最後の日曜日です。

メッセージは、「多く愛する者」と題してルカ7章36〜50節より


❶行為を見ればその人の心がわかる。

 イエス様がパリサイ人の家の食卓に招かれた箇所です。パリサイ人と聞くとイエス様との間にいつも確執があり対立関係があリイエス様をどうやったら殺せるかと早い段階で計画し数年後に十字架刑へと実行に移した人々・・・といったことばかりが思い浮かびますが

ここに出てくるパリサイ人シモンというのは、教えをこうためにイエス様を訪ねたユダヤ議会の議員ニコデモのようであったこと、イエス様を食卓に呼ぶような好意を持っていた人であることがわかります。


ところが、このパリサイ人シモンが本当にイエス様を尊敬し、客人として礼儀を持ってお迎えしていたかというと、イエス様のお言葉からも、必ずしもそうでないことに気づきます。

(44節から46節)

 

当時は、客をもてなす時に、最低限のエチケットとして主人は、

①肩に手を置き平安シャロームを祈る口づけ・抱擁を、その客への尊敬の印として行いました。ラビが来たときなどは、このことを決して欠かしてはならないという礼儀でした。シモンはこれをしなかったとあります。(45節)


②冷たい水を用意して置くこと。

 当時の靴は薄い皮に革紐の簡易なサンダルであったといいます。今のようにコンクリートで舗装されていない道をサンダルで歩くので、土埃で汚れ、さらに夏などは汚れやすく、疲れを労りホッとしてくださいという配慮であったといいます。シモンはこれもしませんでした。(44節)


③客間の香料

 薔薇油・オリーブ油を頭に一滴注ぐことにより、アロマ、リラックスの効果もあり、歓迎を表すために行っていたとのこと。これもまたイエス様は受けなかったのです。(46節)


つまり、イエス様を招いただけで、尊敬を示さなかった。イエス様の働きを知り、名の知れた人々から注目を受けている青年イエスを家に招いた。そのイエス様から教えをこうという気持ちは見られなかったのです。

 

彼が催した宴会には多くのパリサイ人が来ていましたが、その中で、招かれざる客と言われても過言ではない一人の女が登場します。


この女は、イエス様の話を聞き、イエス様の足元に近寄り、涙で足をぬらしはじめ、そして髪の毛でそれをぬぐい、足に口づけして、高価な香油を塗りました。


その行為をみて、このパリサイ人シモンはイエス様がもし預言者なら、この女がどんな罪深い女か分かるはずだと、イエス様を試みました。


この女は、パリサイ人シモンと全く違う行動を取りました。イエス様を愛し、尊敬する行為でした。そばに立った時に、涙が溢れてきて、しかもそれは少しの涙ではない、多くの涙。

それを髪の毛でぬぐい、香料を塗り、愛を示していったのです。


このパリサイ人シモンの家で、イエス様は何を話されたでしょうか。神の国の福音・また罪の赦しが語られたのではないでしょうか。そして、この女だけがイエス様のお言葉に、イエス様の愛・神の国の福音に応答していることをみます。


私たちも、同じように、礼拝に出席して、主のみことばを聞きますが、聴衆の反応はさまざまです。みことばが自分に語られているという自覚、罪が示されたという気づき、そのイエス様への愛の応答。


どうやったら、私の心が変わるのか。説教者ではない。神のみことばに対して自分自身が向かい、心探られ、全て私をご存知の神様が語ってくださった、そのみことばが感情を揺さぶり感謝・感動が起こってくる。礼拝の姿勢・神のことばへの飢え渇き。

私がパリサイ人シモンの位置にいるのか、この罪深い女と言われた女の位置にいるのか。

立ち位置を確認すること。示されました。


❷自己満足は神を心から締め出す


パリサイ人シモンは、イエス様をじっとみて、この女への対応をどうなさるのか試み、イエス様を見定めていました。

この女性に対しても、ここになぜ来たのか、彼女のうわべばかりをみて、彼女の行為の裏にある心にきづこうとも関心を寄せようともしませんでした。


彼は、自分は神に祝福されており責められる点はひとつもないと思い込んでいました。


しかし、神様の目に、このパリサイ人シモンも同じように罪人であり、イエス様のお言葉から悔い改めに導かれるべき者であったのです。


ウィリアム・バークレーの著書の中の一節が語られました。

「自己満足は神を心から締め出す」と。

パリサイ人シモンは、「私はもう救われているから大丈夫」そのような自己満足のゆえに、

神様の憐れみにすがり、自分の至らなさを悔い改めることがありませんでした。


人の最大の罪は「罪の意識がないこと」自分で自分を正しいとする、私は大丈夫という態度は神様の前に大きな罪であるということを教えられました。


パウロは、ローマの市民権をもち、律法の専門家であり、救われてからは異邦人への宣教として大いに用いられ、第3の天をみたのですと自分を誇ることなく、自分自身のことを「私は罪人の頭です」といいました。それは決して謙遜で言ったのではない、自分自身の言動を見て何年経っても情けない、主の前に何も誇れないものなのだという心からの告白でした。


信仰年数など関係なく、私たちは、本当に神のみ赦し、十字架の贖いがなければ生きていけない存在、だから私を救ってください、そのような求道者の姿勢を持ち続けなければ、そこに立ち続けなければならない、へりくだった悔いた心がどんなに大切なことか、

示されたことでした。


❸救いは信仰による

41節からイエス様は、金貸しのたとえを持ってお話されました。

47節で、イエス様は、「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多くを愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」と言われました。


イエス様は「どちらが金貸しにより多く感謝するか?」と聞かれず、

「どちらが金貸しをより愛するか?」と聞かれました。

感謝が、帳消しにされる金額の大きさでなく、帳消しにしてくれた金貸しそのものに向けられており、このたとえ話で、金貸とはイエス様のこと、イエス様がこの女を赦されたということをお話になったのです。


48節で、「あなたの罪は赦されています」そう宣言され、

50節で、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」そう言われました。


この女性の信仰。それは、「イエス様ならきっと赦してくださる」そんな思いいっぱいでイエス様の足元にきた。イエス様は彼女の全てをご存知で、その罪の赦しを宣言してくださり、「安心していきなさい」と送り出してくださった。


なぜ安心できるか。

ヨハネ14章27節には、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。

わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。」そう記されています。


私たちのうちから平安・安心がなくなってしまうのはどうしてか。

イエス様がくださる平安・シャローム。

「わたしがあなたの存在を知っているよ。あなたのために十字架にかかったのだよ」

イエス様が、私をこのように愛し、全部ご存知でいてくださることを忘れてしまうからではないでしょうか。


目の前のこと全てに心が奪われ、あれもこれも全てイエス様のみ許しの中で起こっているということを忘れてしまうのです。


あなたの全てを知り、あなたの地上の生涯、歩みを全て知っておられる主。

だから、どんなところへ行くのでも、「安心して行きなさい」というイエス様のお言葉を握ってゆくことができるのです。この言葉を握って、再び遣わされるところへ出てゆくことができる幸い。


イエス様。感謝します。。。今週もこの主のみことばを握り、歩みが祝されますように!


「安心して行きなさい。」ルカ7章50節後半   聖書  シャローム‼️






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