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「悪魔と神の指」✴︎ルカ書11章14〜26節

更新日:1月26日



2024年最初の礼拝となります。メッセージは「ベルゼブルか神の指か」と題してルカ書よりメッセージが語られました。


❶不信仰のゆえに


祈りについて教えてくださったイエス様ですが、今日の箇所では、口をきけなくする悪霊に取り憑かれていた人から悪霊を追い出すイエス様の姿、そのイエス様に抗い敵対する人々の姿が記されています。

イエス様によって、ものをいうことができるようになった人を目前にして、敵対する者たちは「これはベルゼブルの力を借りたからだ」と非難しました。

ベルゼブルとは「ハエのかしら」すなわち「悪霊どものかしら」という意味です。

イエス様はそんなことをいう人々に対して、二つの矛盾点を指摘されました。


一つはもしそうなら、悪霊たちは仲間割れしないだろうか。(18節)そんなことをしても悪霊達にとってなんのメリットもないだろう。上のものが下のものを追い出しているなら、悪魔の世界とて争いごとで国が立ち行かない。

もう一つは、イエス様以外の人が(19節)悪霊を追い出したら、人々は神様の力だと言ったのに、イエス様に対しては非難するのだ、と。


人々は悪霊追い出しそのものについてではなく、イエス様ご自身を否定し、非難し、敵対していたのです。


イエス様を信じようとしない人々は「天からのしるしを見せてほしい」とも言いました。(16節)

そのように申し出たということは、彼らが、ある程度旧約聖書を学びメシヤ預言を知っていたからだと語られました。イザヤ書35章4〜6節にはこのようにあります。

「強くあれ、恐れるな・・・神は来てあなた方を救われる。そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。その時、足の萎えた者は鹿のように、飛び跳ね、口の聞けない者の舌は喜び歌う。・・・・」


この「そのとき」というのがまさにメシヤが来られた時であり、メシヤが来られた時に、このように口がきけなかった者が開かれ・・という目にみえる祝福が起こる。彼らはそれを知っていたのにも関わらず、目の前にいざイエス様が来られたときに、救い主メシヤとして信じ受け入れることができませんでした。


そして、イエス様は20節で「神の指」という言葉を使われています。


この言葉は聖書の中で4箇所使われているのだと語られました。その一つは、出エジプト記に記されており、イスラエルの民を解放するために、モーセがエジプトの王パロの前で行ったことについて、魔術師たちが「これは神の指です」と言った箇所です。

王パロは、モーセの言葉と神様の起こされる災いに対して、心をどんどん頑なにし閉ざしていった。そして最後十番目の災いにおいて、大切な長子を失うのです。ついにパロの心は折れて、イスラエルの民を解放します。

この時に、頑ななパロの心を折ったのは、まさに「神の指」だったのです。


悪魔という存在は、私たち人間を自分の支配下に置こうと、なかなか手放そうとしないのだと語られました。CSルイスの著書の中に「悪魔の手紙」という本があります。悪魔の上司が部下へ送る手紙ですが、この本を読むと、いかに悪魔というものが、しつこく私たちに働きかけ自分の手の中に留めるためにあの手この手で策を講じやってくるかということを考えさせられます。(イエス様が私たちすべての人間のために十字架にかかり身代わりになってくださるというときも、最後の最後までイエス様に働きかけ、「誰がお前のことなど信じるのか?こんなどうしようもない人間のためなど十字架にかかることもあるまい。やめたら良い。それなのにかかるのか。」と御業を邪魔しようとしたのです。ゲッセマネの祈りが、イエス様にとって、血のような汗が出るほどの最後の戦いであったことを思い出すのです。)


悪魔は嘘つきで、そして、執拗です。

私たちがこの悪魔に一人で対抗することなどできません。

ではどうやったらこの執拗な悪魔の支配から逃れられるのかーそれが「神の指」です。


イエス様はまさにこの「神の指」を持って悪霊に取り憑かれている人から悪霊を追い出してくださったのです。

20節と22節を読むときに、この「神の指」がどんなに強いかを知ることができます。

「強い者」と書かれているのは「悪魔」です。しかし、その強い者も「もっと強い人」が来た時には倒れてしまうのです。この「もっと強い人」こそイエス様であり「神の指」であるということ。


イエス様に対して「ベルゼブル」🟰悪霊のかしらだ、という人々、さらに、もっと天からのしるしを見せて欲しいという人々に共通するのは彼らが「不信仰」であるということだと語られました。


終末の時代。神を信じない人々が増える不信仰の時代。

イエス様が来られたということは「神様の支配」を証明する神の国が来たことであり、悪魔の支配に終わりを告げる出来事でした。しかしこのイエス様を信じようとしない神無き時代ー自分や人を神として生きる時代には、終末おける悪魔の最後のあがきを見せられ、悪魔の巧みな策略があることを知るのです。

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と聖書にあります。これから多くの背教者、離脱者が出て、ふるいにかけられ、残る人と、去ってゆく人に分けられてゆくのです。


不信仰の時代において、信じるものとされること。神の強い指にあって、神の御言葉を確信して歩む者とされたいです。


❷神の国の到来した時代に生きる者の責任


キリストを救い主として受け入れ信じ、勝利者とされたとしても、この不信仰の時代を生きている中で私たちは多くの影響を受けます。どうしたら良いか。


イエス様は24節から、悪霊が去った人のたとえを用いて話されます。

悪霊はその人から出てゆくが、元いたところに住みやすいのだと。さらに、そこが前よりも掃除されていて綺麗になって空っぽならば、自分よりも悪い仲間を連れてきて住むのだ、と。そのようにたくさんの悪霊が住むようになったその人の様子は以前よりもさらに悪い状態になってしまう、と言われるのです。


私たちはイエス様の救いをただただ喜んでいるだけでは悪魔の攻撃に耐えることはできないのです。イエス様は21節で悪魔のことを「強い人」と言われました。弱い人でないのだと語られました。


この「強い人」に私たちは負けてしまう。たとえ勝利が与えられても、そのまま放っておいたら、強い人に負けてしまう。イエス様を信じたのに、離れてしまう人は、前よりも悪い状態に置かれていくということであり、救われた後に、その人がどのような歩みをするのかが非常に大切なのだと語られました。


生きるかぎり、この世での歩みは、二者択一なのです。

つまり「神に従うか」「悪魔に従うか」

「はい」は「はい」

「いいえ」は「いいえ」

神なのか、悪魔なのか。

真ん中はないのです。黒なのか白なのか。グレーはないのです。

そうでなければ悪霊が来た時に簡単に負けてしまうのです。

ですから、イエス様の側に立つという決断が必要であり、自分ではそれができない弱さを抱える私たちは、助け主であられる聖霊様により頼み、悪霊が出ていった後、この真ん中に住んでいてくださる聖霊様の支配を認め、王座から追い出すことがないように、すがり歩んで行くのです。


私たちの心の真ん中に喜んで住んでくださる聖霊様に信頼し服従し、歩むことができますように。


「あらゆる祈りと願いによって、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのために目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。エペソ6章18節 聖書」

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