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「死の問題」*ルカ8章49〜56節

更新日:7月19日


菜の花でいっぱいの二宮です。

「恐れないで、ただ信じなさい。」と題してルカ書よりメッセージ。


ヤイロが一人娘の癒しを願いイエス様の元にやってきました。イエス様はヤイロの娘の元に共に向かってくださいましたが、その途中で、長血の女の癒しと対話があり、早く早くと心急くヤイロにとっては、「イエス様もたもたしてないで、早く、娘の元にきてください。」と怒り半分、心配のあまりパニックになるようなそんな心持ちであったことでしょう。


そんな最中に、ヤイロの家から人が来ていうのです。49節「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすことはありません。」と。


娘の死の知らせを聞いて、へたへたとそこに崩れ落ちるヤイロの姿が目に浮かびます。大切な娘が死んでしまった。イエス様なら、治してくださると、なんとかしてくださると、間に合わせたいとそう思っていたのに・・・と。


❶イエスを信じるということ。

ヤイロはこの知らせを聞いて、絶望を感じたことでしょう。一刻も争うこの事態に、長血の女との対話は無駄なことであり、ああ、イエス様!なぜ、このタイミングなのですか。止まられるのですか!とそんな思いでいっぱいであったに違いありません。


しかし、イエス様はこの知らせを聞いてヤイロに言うのです。

50節「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」

伝道者の書3章11節にはこのようなみことばがあります。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」


ヤイロの目線では、娘が、もう虫の息である今がその時。しかし、神の時はいつか。自分が最善と思う時ではなかった。

私たちは「神の時」があるということを、忘れてはならない。私たちが「今!」と思うその時と、「神の時」にはタイムラグがあるのだということを。


私たちは、自分が絶体絶命であると思うような時、急を要する事態に、なぜこの時にこの場面で神様は働き助けてくださらないのだろうと思う。しかし、神は、「人が」作った神でなく、「人を」造った神であられることを忘れてはならないのです。神のご意志・神の時が来なければそれは行われないということ。


そして、イエス様が言われた「恐れないでただ信じなさい。」という言葉は、イエス様がご自分への信仰を呼び覚ますために、ヤイロにかけられたお言葉であることを覚えます。


ヨハネの11章には、ラザロのよみがえりについて書かれています。

そして、この少女のよみがえりととても似ていることに気付かされます。

ラザロが病んでいるという知らせを聞いてもイエス様は2日間もおられたところから動かれなかった。そして死んでから向かわれたのでした。その時イエス様が言われたことは、「ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」(11章11節)

そして、大声で墓に向かって「ラザロよ。出てきなさい。」と叫ばれたのです。


この少女の手をとってイエス様は叫ばれました。「子よ。起きなさい。」と。

この二つのよみがえりの箇所は私たちに何を教えているのか。

私たち人間は誰も「死の問題」から逃れられず、のみこまれるだけの存在です。しかし、イエス様にとっては、「死」は最終地点ではないということ。


聖書の中には、イエス様が次にこの世界に来られる「再臨」の時、ラッパの音と共に雲に乗って来られると書かれてあります。まず先に亡くなった者がよみがえり、生きているものが天にあげられ、空中でイエス様とお会いするのです。


つまり、死は「通過点」に過ぎない。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きるのです。」と言われました。十字架にかかって死んでくださったイエス様のいのちは「死」によっても絶えることがなく、だからこそ「わたしを信じなさい。信じるものは生きるのだ。」と言われるのです。


やがてイエス様にまみゆる時には、イエス様は私たちの名を呼んでくださる。

まるでその前味のように、ヤイロの娘に向かって「子よ」、ラザロに向かって「ラザロよ」と叫び呼ばれた。イエス様が呼ばれたら、私たちは死んでもよみがえる!その希望に感謝します。


❷ただ信じる、とは。

イエス様はすっかり希望を失ったヤイロと家に向かわれました。そこでは、多くの人々が少女のために泣き悲しんでいたと書かれています。(52節)

イエス様はそこへ入って行かれましたが、ペテロとヨハネ、ヤコブと少女の両親以外は家に入ることを許されなかった(51節)と書かれています。


よみがえりのシーンを、外で多くの人の前でやって見せたら、宣伝になるのでは?神の子だ!すごい!と皆が見れてよかったのでは?とそのように思うでしょうか。

イエス様は、人の生き死に・尊厳に関わることを見せ物にされることなく、またそれによって功名をたてるなどとちっぽけなことも考えられず、ごく限られた人々の中で、みわざを成されたのでした。


「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」と言われたイエス様を

人々は嘲笑います。

神様の語られる言葉に私たちはどのように応答するか。

マルコ書にある「ただ信じていなさい。」という言葉の元々の言葉は「信じ続けていなさい。」「信仰を投げ出さずにずっとイエス様を信じていなさい」という意味があると語られました。

またルカ書においてのこの言葉には、「今から信仰に入りなさい。」という意味があるとも。

今まで信じていたかもしれない。しかし、この死の先をよくご存知で、死で終わらない「よみがえりであり、いのちである」と言われる方を本気で信じ、生きるということはどういうことか。


「恐れないで、ただ信じなさい。」イエス様のお言葉をもう一度心に受け止めつつ今週のあゆみを導かれたいです。


「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来て下さい。」黙示録22章20節           聖書

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