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「神様は必ず応えてくださる」*ルカ9章21〜22節

更新日:2023年3月20日


ぐっと寒くなりました。そんな中、私たちの目を楽しませてくれる美しい花々。ああ、神様の可愛らしい作品に心ウキウキさせられます。


日曜日のみことばは「苦しみを受ける人の子」と題してルカ書より。

先週はイエス様の祈りにより導かれ、イエス様の問いかけに正しく答えることができたペテロと弟子たちについて学びました。今週はその彼らに向かってイエス様が「このことを誰にも話さないように」と言われて、弟子たちに「受難」の予告、弟子たちへの第二のレッスンをされて行くところです。


❶なぜイエス様は弟子たちがご自分について話すのを止められたのか


当時のイスラエルの状況を見ました。二週間前の説教において、9節でヘロデがイエス様に対してものすごい関心を抱いたことを学びました。彼の思いは「会いたいなあ」という単純なものでなく、自分が殺したヨハネのよみがえりではないか?という人々の噂に心囚われたゆえであったことを学びました。


イエスさまより半年ほど早く生まれ、イエス様の公生涯よりも早くに活動を始めたヨハネです。ヨルダン川で次々と洗礼を授けながら「これから聖霊のバプテスマを授ける方が来られます!」とイエスさまの道を整えるために生まれ、召されたヨハネでした。そのヨハネが捕えられ殺された。

世の権力と神の力が見える形で拮抗しており、ヨハネはまさに「世の権力」によって殺されたのでした。

イエスさまも、捕らえられて殺されることをよくわかっておられた。またそれこそが神様の御心であり、十字架にかかる道をよく理解されていましたが、それが「今」ではなく「その時」ではないということもよくご存知であられた。それゆえに、弟子たちに話してはならないと言われたのでした。


また、この時にまだ弟子たちが正しく「キリスト」についての理解ができていなかったということも理由の一つでありました。ヘブル語の「メシヤ」はギリシャ語で「キリスト」であり、弟子たちがイエスさまのことを「あなたは神のキリストです」と告白できたことは素晴らしかったけれど、弟子たちの「メシヤ」という言葉への理解は聖書が教える理解ではなかったのだと語られました。


「メシヤ」は「王」そのものであり、「キリスト」が来られるならユダヤ人たちはこの王の下に、国を、世界をやがて支配して行くようになるのだ、と考えていたのでした。当時はローマ皇帝カイザルに向かって「神です」と告白せねば捕らえられて殺されるような時代でした。ローマの支配下にあってイスラエル人たちは心では思っていなくともそのような告白をせねばならなかった。そのような中で「ああ早くメシヤが来てほしい」と皆切望していたのです。いつ、この世を変えてくれる「メシヤ」が来てくれるのだろうか、と。


弟子たちもまた同じでした。「イエスさま。あなたの王国はいつ建てられるのでしょうか?」彼らはそのようにイエスさまに尋ね、彼らの母親までもがやってきて「わたしの子どもたちをその王国が建った時には右腕に、左腕にしてください」と頼みにくるようなこともありました。彼らはイエスさまがメシヤだと分かった時に、「やった!俺たちは勝ち組に乗れた!」「世界を治めてゆく流れの中で重要な人物になれるぞ!」と常に誰が一番偉いかと論じ合っていたのです。


弟子たちは宿敵ローマを転覆させるように「イエスさまは力を持っていかねば!」と意気込んでいた。しかし、それは正しくイエスさまを理解していなかったゆえの思想でした。


イエスさまが「メシヤとは何者か」と弟子たちに対して訓練してゆく期間が、まさにここから始まったのだと語られました。


❷イエスには遣わされた方への揺るぎない信頼があった


22節を見るとイエスさまはこれからご自身に起こることを弟子たちにはっきりと告知しておられます。すなわち、イエスさまは、苦しみを受け、捨てられ、殺される、のだと。


そしてそれらは、当時の三職「長老たち」「祭司長たち」「律法学者たち」によってなされるのだと。この三職はユダヤ社会全体を表す言葉です。この人たちがリーダーであり、ユダヤ社会を牛耳っており、彼らが治める社会がイエスさまを排除しようとしたのでした。


この三職は、イエスさまがみことばを語られる時には反抗し、みわざを成されても崇めず、イエスさまが虐げられる人々の間に入って共に食事をされるのを見ると「あれは大酒飲みの大飯食らいだ」と攻撃しました。

常にイエスさまのことを陥れようと企み、陰で会合を開き、無理難題を持ってきてはイエスさまを試そうとやってきたのです。

イエスさまは、このような三職と彼らに取り込まれていった群衆に罵詈雑言を浴びせられ、十字架にかけられ、辱めを受けられ、苦しみのうちに殺されるということをよくご存知だったのでした。


私たちを愛して、それゆえに小さな赤ちゃんとしてその身を低くしてお生まれくださったイエスさま。神であられるイエスさま。本当は歓迎されるべきお方が「殺される」ということ。


イエスさまは、殺された後に「3日目によみがえらなければならない」と言われました。

この「ねばならない」という言葉を見るときに、ここにイエスさまの「従順」が前提としてあるのだと語られました。神様の御心を十分に理解し、服従するときに、神様が当然「よみがえり」を成して下さるのだとイエスさまの神様への信頼が込められた言葉だということ。「人間の罪のために十字架にかかって死ぬことが神様の御心である」ということを理解し、その神様の前にご自身を差し出す時に、神様は絶対にそのままにされることはないのだ、よみがえらなければならないのだという神様への信頼です。

十字架は神様の御心にご自身を浸してゆくイエスさまの神様への信頼ゆえの「従順」でした。それゆえに、イエスさまは「いつかよみがえる」「きっといつかよみがえらせてくださるだろう」などとは言われず、はっきりと「三日目に」と言われたのです。神様はそうしてくださる、と。


使徒2章23〜24節でペンテコステの日に、ペテロが語っています。

「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」


イエスさまのよみがえりは、十字架の前から神様がご計画されていたことでした。

神様の側(ご計画)でしなければならないこと、神様には責任がある「べき」があるのだと。神のみことば、神の御心に従ってゆく時に、神の「べき」が発揮されるのだ、と。


神様が私に「こうしなさい」と言われて従った時に、神様の側でも答える「べき」ことがある。

私たちが神様の前に忠実に応答して、心を込めて献げる時に神は何も成されないのか。

あの5000人の給食において、多くの人々を前にして、少年が差し出してきた「二匹の魚と五つのパン」を見られた時に、イエスさまは「こんなものは役に立たない!」と言われたか。いいえ、言われませんでした。神様は決して、私たちの信仰、神様への信頼を裏切ることのない「べき」お方なのだ、と語られました。信じるならば神の栄光を見る、と言われるイエスさまに私たちは、そこまでの信仰を培っているだろうか。


たとえ、今。目の前が真っ暗だったとしても、何も見えなくとも、疑わず、神様に信頼するときに、神様は必ず「応えてくださるお方」。信頼して神様を呼び求め、見上げる一週間とされたいです。


「イエスは彼女に言われた。『信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。』ヨハネ11章40節    聖書」


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