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「一番偉い人」*ルカ書9章46〜48節


ミツマタの花の香りが溢れます♡


今祈祷会では「雅歌」書の講解説教が続いていますが、初めて雅歌から説教を聴き、なんと温度の高い書物なのだと驚いています。神様の愛のほとばしる書です・・・。先週は2章からでしたが、こんなみことばがありました。

「わが愛するものよ、美しい人よ。さあ立って出ておいで。

ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎていった。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。山鳩の声が私たちの国に聞こえる・・・」

花が咲き、鳥たちが飛び交う美しい春の二宮。新しい週も神様の声に耳を傾ける一週間でありますように。


礼拝のメッセージは「誰が一番偉いか」と題してルカ書より


これまでのメッセージでイエス様の受難告知が続きました。その裏で、弟子たちの間で何がなされていたかというと、彼らはイエス様に聞かれないようにしていつも自分達の中で「誰が一番偉いか」という議論を繰り広げていました。イエス様の弟子たちというと、漁師であったり、取税人や革命家といったような社会的には影響力のない人々でした。

そんな彼らがそのような議論をするようになったのは、自分たちが従っているイエス様が偉大であることに気づき始め、この方についてゆけば自分もきっと権力の座につくことができるのだ、そして王座に着かれたイエス様の右腕になることができるのでは、と考え始めたからなのだと語られました。

このような様子からも彼らが、イエス様の語る受難告知に真剣に向き合おうとしていないということを見るのです。イエス様はそんな彼らに「真の偉大さ」について教えられました。


❶「弟子たちの議論のきっかけ」


46節の「議論」という言葉はルカが何度か使っていますが、どれも悪い意味をさし、批判的であったり、敵対心を表す言葉として用いられていると語られました。

弟子たちの中でなぜそのように互いを牽制しあうような議論が持ち上がったかというと、

この前の箇所では、三人の弟子たちだけがイエス様に伴われてヘルモン山に登り、イエス様の受難・十字架についてエリヤとモーセと語るその場を目にすることができました。

あとの九人といいますと、彼らはふもとに残っていたわけです。置いてきぼり、というわけではありませんが、なぜ私は連れて行ってもらえなかったのだろうか、なんで三人だけだったのだろうかとそのような悶々とした思いが他の弟子たちの中にあったのかもしれません。

 

イエス様はさまざまな場面で、全員ではなく数名のみを連れて行かれることがありました。そこには「永遠の視点」でのイエス様の選びがあったわけですが、弟子たちの中には、「一つ一つイエス様には聞けないし、聞いてしまったら自分も傷つくし・・・」と内側では煮え切らない思いが沸々としていたことが想像できます。


誰が一番イエス様の信頼を受け、一番イエス様に愛されているのか。。。

マタイ書では、弟子たちが「天の御国では誰が一番偉いのでしょうか」と質問した様子が書かれています。

マルコ書には、彼らがイエス様の耳には入らないようにして、こそこそと小競り合いのような議論をしていた様子が描かれています。

そしてルカ書において、ルカはそんな彼らの心の中をイエス様はよくご存知であられたと記すのです。


エレミヤ17章9〜10節が開かれました。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。誰がそれを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」


人の心は人には見えません。しかし、全能の神様はよくご存知であり、それをご覧になっておられるということ。イエス様は弟子たちのそのような心の動きをよくご覧になりながら、この話をされたのでした。


❷本当の偉大さとは何か



イエス様は47節で「一人の子どもの手をとって自分のそばに立たせ」と書かれています。

この「手を取り」という言葉は、「連れてくる」とか「捕える」という意味の言葉だそうで、イエス様がこっちにおいでと招かれたのでなく、捕らえてくるという少しきつい表現だと語られました。

イエス様に捕らえられたその子どもは、当時は無価値な存在として小さいものと受け止められていたといいます。


イエス様は言われました。*48節

「誰でもこのような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」


「一番偉い」とは元々の言葉では「大きい」という意味があり、イエス様はつまり「一番小さいものが一番大きい」と言われました。


よくこの箇所は「この子どものようにならなければ、子どもの心を持たなければ・・」と理解されますが、決してそのような簡単な文章でなく少し難解な箇所であり、

ルカはこのイエス様の言葉を通して「一番小さな者」が何であるかを弟子たちや私たちに語っているのです。


子どもの位置もマタイやマルコは、子どもを「真ん中」に記していますが、ルカは「イエスさまのそば」と記しています。それは、ルカがここで伝えたいことの視点が少し違うからであり、子どもの担っている役割も違うのだと語られました。

ルカにおいて「子どもは受け入れる対象」として記され、子どもという小さな存在、また無価値と言われるような存在を、「イエス様の名のゆえに」受け入れ、「まるでイエス様であるかのように」受け入れるということ、そこにイエス様の臨在が溢れ、それを行う人・実践する人こそ一番偉いのだ、と言われたのです。


トルストイの「靴屋のマルチン」の話が語られました。


妻子を失った寂しい靴屋のマルチンが毎晩聖書を読み、心慰められていました。ある晩そんなマルチンに神様が言われたのです。「明日あなたの元に行くよ」と。

マルチンは嬉しくなってその晩休み、翌朝イエス様を迎える準備をします。

そして「イエス様はいつきてくださるだろうか」と心待ちにするのです。


ふと窓をやると寒い中掃除をしているおじいさんが辛そうにしていました。

また、小さな赤ちゃんを抱えて震える若いお母さんがいました。

さらには、りんごを盗んで逃げようとした男の子と捕まえた露天商のお婆さんがいました。

マルチンはそれぞれの人たちを、自分の家に迎え入れて、温かくもてなし、あるいはトラブルの仲介に入り、心温めてそれらの人々を見送ってやるのです。

はてさて、そんなことをしていたら日も暮れてしまい「あれ、イエス様はきてくださらなかったのだなあ」と少し寂しい気持ちになって、その晩もまた聖書を開くのです。すると

マタイ25章40節にはこう書かれてありました。

「まことにあなたがたにいいます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」

イエス様は「その人々を通してお前のところに行ったよ」とマルチンに語ってくださったのでした。

そしてマルチンがした親切こそ、イエス様ご自身にしたことなのだよ、と。


みことばの箇所において、弟子たちは「自分こそ偉い」とお互いに牽制しあっていたけれど、そんな彼らを尻目に本当の偉大さとは何かとイエス様は示そうとされたのでした。


メッセージの最後で「一番偉いのはイエス様だと思いました」と語られました。

教えても教えてもなかなか悟ろうとしない弟子たちは、イエス様を悲しませ、がっかりさせ、悩ませたことでしょう。ちっとも成長も見られず、3年半という期間の間イエス様はお辛かったでしょうと。しかし、その彼らの不信仰を嘆かれつつも、見捨てることをせず、常に共に歩んでくださった。

「一番小さき者」とは、「無価値な人たち」とは、弟子たちであったかもしれない。いつもいつも「だれが一番偉いだろうか」と議論するような彼ら。しかしその弟子たちの足を自ら洗われたイエス様。


イエス様は神の子であられるのに、このような世界に降ってきてくださり、そして私たちの汚い足を洗ってくださるような、ご自分を低くされるお方。まさにここに偉大さがあるのだと、あなたがたもその偉大さに倣いなさいと言われているのだと。ああ、そうだなあとイエス様のお姿を想いました。


「一番小さな者が一番大きい」と言われる主を思い、主に倣う一週間とされたいです。


「すると王は彼らに答えます。『まことにお前たちに言う。お前たちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』マタイ25章45節 聖書」

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