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主を畏れ主を喜ぶ*第一サムエル記6章(礼拝)

更新日:2022年11月19日


アマリリスが咲きました!毎年短い間ですが元気に咲いてくれて元気をもらいます😁

講壇に捧げられたお花は、キンギョソウ。とても甘い香りがして蜂がたくさん🐝寄ってくるほどだそうです❣️


メッセージは「だれが主の前に立つことができるか」と題して第一サムエル記6章より。

❶悔い改めの機会を逃すことがないようにしましょう

1節にペリシテ人は7ヶ月間自分たちの地に主の箱を置いていたと書かれています。

先週学んだように、ペリシテ人の町に次々と起こっていった災いは大変なものでした。しかしながら彼らはそれをすぐに返すことをしなかった。

 

ペリシテ人たちはイスラエルの神が「力ある方」であることを知っていました。

戦いの時に、イスラエルの民が主の箱を陣営に持ってきたときに、彼らは恐れて口々に言いました。

 「神が陣営に来た。ああ、困ったことだ。今までにこんなことはなかった。ああ、困ったことだ。だれがこの力ある神々の手から、我々を救い出してくれるだろうか。これは荒野で

ありとあらゆる災害を持ってエジプトを打った神々だ。」と。(4章7節)


彼らは神の力を知っていましたが、「我々はイスラエルに勝ったのだ!これをすぐに返したら、勝った意味がない」と主要な町々が苦しんだとしても、議論しても、高慢・傲慢のゆえにこれを返そうと決断できず、7ヶ月もの間右往左往していた、そんな姿を見ます。


返せば解決できるのに、やろうとしなかった。それは、これをすれば生活が変わるのに、決断・実行しようとしない私たちの姿と重なりもします。


6節でペリシテ人の祭司たちと占い師たちが、ペリシテ人の民にこのように言います。

「なぜ、あなた方はエジプト人ファラオが心を堅くしたように、心を硬くするのですか。

神が彼らに対して力を働かせたときに、イスラエルを去らせ、イスラエルは出ていったではありませんか。」




出エジプト記の出来事は、イスラエルの民の解放とともに、エジプトで拝されていた偶像の敗北を表していました。そして、心を頑なにしたファラオは10の災いの後に、イスラエルの民を解放しましたが、すぐに思い直し、イスラエルの民を追いかけていきました。しかし、その結果彼らは紅海に沈んでいきました。彼らが心を頑なにしたゆえです。

心を硬くした結果、そこにあったのは「滅び」でした。


私たちの心の中にもそのような、心の硬さ、頑なさがあるということ。

私たちは創造主なる神の前に、へりくだらなければならないこと。

私たちの王である主を恐れ、主の御前に額ずいて礼拝を捧げることの大切さ。


今、世界規模では人口の三分の一がクリスチャンですが、この日本においては0.6%であると言われています。私たちを創ってくださった神の前に、それを無視して心頑なにしてゆくならばそこにあるのは、滅びであることを、だから、人生の中で、自分の愚かさに気づき悔い改めが求められているということ、神が全ての人にその愛を知り、救いに預かって欲しいと願っておられることを、先に救われ、導かれた者たちが告げ知らせる使命を与えられていることを思います。


救われた私たちも、思いかえせば、何も知らず、神を求めようとしなかったそんな私のために必ず、祈ってくれていた人、導いてくれた人がいました。その人の愛と祈りがなくば、今の私はありません。

もう一度恵みを振り返りつつ、託された使命について考えさせられたことでした。


❷救ってくださった神に感謝を表しているでしょうか。

ペリシテ人たちは、こんなわけで7ヶ月経ってから、これは置かれるべきところに置かれなければならない、この箱を戻さねばならないと悟り、それを実行に移します。




この祭司たちはこのように言いました。

「今一台の新しい車を用意し、くびきをつけたことのない、乳を飲ませている雌牛を2頭とり、雌牛を車に繋ぎ、その子牛は引き離して小屋に戻しなさい。また主の箱を取って、車に載せなさい。償いとして返す金の品物を鞍袋に入れて、そのそばにおきなさい。

そしてそれが行くがままに、去らせなければならない。

注意してみていなさい。その箱が国境への道をベテ・シェメシュに上っていくなら、私たちにこの大きな災いを起こしたのは、あの神です。もし行かないなら、神の手が私たちを打ったのではなく、私たちに偶然起こったことだとわかります。」



つまり、乳を与えている雌牛2頭は、普通に行くならば子牛の方へ進むはずです。しかし、驚いたことに、この雌牛2頭は向きを変えることなく、ベテ・シェメシュの方へ一本道をまっすぐに走っていきました。


ここに神の不思議な働きをみます。雌牛を神ご自身が引っ張り導かれていった。

主の御手がその上にあった。ここからも、私たちは主の導きがある時に、たとえ自分がこうしたいと思ったとしても、主がここだ、この道だと言われるならば、そこに神のお心が用意されていることを信じて従う、信頼するということを学ぶことができます。


イスラエルの民は、神の箱が奪われても、それを取り返しに行こうとするのでもなく、13節をみても、彼らが普通の生活に、何事もなかったかのように戻ってしまっていることをみます。取り返しに行って死にたくなかったということもあります。また、神の箱があったのに負けたという信仰に対する屈折した思いを見ることもできます。


もう仕方ない、とすっかりその生活に落ち着いてしまっていた。再びペリシテ人と戦う意欲もなく、心は沈んでおり、暫くそれを取り返せるとは思えなくなっていた。


そんな不信仰な彼らの方に、神の方から戻ってきてくださった。薄情な民を見捨てず、憐れみ、彼らのところに、御自分を置くということをしてくださった。計り知れない、本当に気前の良い、心の広い主の愛をみます。彼らの力・願い・努力でもなく、ご自分の思いとして、神ご自身が帰ってきてくださった。


詩篇62篇1節

「私の救いは神から来る。」


私たち人間が何かをしたから、救われるのではない。熱心に求めたから救われたという人はそう多くはいないでしょう。神様の方から、反抗的で懐疑的で拒否ばかりする私に、近づいてくださった。


いくらでも見捨てることができるのに、見捨てず、捕えて下さって導いてくださった。

自分が何者であるかを知るときに、この神様への感謝の思いが与えられます。


イスラエルの民、ベテ・シェメシュの人々が小麦を刈り入れているときに、帰ってきてくださった。彼らはこの神の箱をみて喜んだと書かれています。(13節)

神の憐みゆえに救われた。願っても与えられないような恵みが、願わずにも与えられた。

驚くべき恵み、これが救いです。


❸正しく畏れることによって喜びが生み出されます。

ところが、19節でこのベテ・シェメシュの人々が主に打たれたという思いがけない記事をみます。

その理由は、「主の箱を見たからである。」と書かれています。

続けて「主は民のうち七十人を、すなわち千人に五人を打たれた。主が民を激しく打たれたので民は喪に服した。」と。

(ついこの町全体の人数を計算してしまいました。聖書はわざわざ面白い書き方をしています…)


ベテ・シェメシュの人たちは喜んだのに、災いを受けてしまった。それは、彼らの軽率さゆえでした。

民数記4章20節には、この契約の箱への扱い方が記載されており、「彼らが入っていって、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである。」と書かれています。

ケハテ族だけが契約の箱にお仕えできたが、彼らでさえもそれを開けることを許されなかった。


ベテ・シェメシュの人たちに対して同情的に考えれば、金のネズミが入っていたから箱の中にも何かあるかもしれないという思いや、中身は壊れているか確認しよう、そんな考えで、開けてしまったのかもしれない。


しかし、たとえ、どんな理由でも、自分勝手な考えで開けてしまうなら神の裁きがくだるということ。この彼らの軽率な姿は、そのまま当時のイスラエルの民の信仰を表しているのです。


そもそもこの戦いの大敗の原因はイスラエルの民の不信仰が原因でした。それに気づくべきなのに、国をあげて主に悔い改めるべきであったのにそれをしなかった。神を信じていると言いながら、主に対して軽い、畏れのない姿。


私たちもここから、学ばされます。

神は私たちを深く愛し、親しく憐み、どうにかご自分に近づけたいと、一人子イエス様を私たちにお与えくださり、このイエス様を通して親しく引き寄せてくださいました。

 一方的な神の恵みです。しかし、この偉大な神様に対して軽率な態度や言動をしてしまうことに対して、注意しなければなりません。

 親しく近くに居て愛してくださる神様におそれを抱きつつも、主の御座に近づき、主を喜び、主を慕う。私たちの主への姿勢を教えられました。

 

ヘブル4章16節にはこのようにあります。

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に神の御座に近づこうではありませんか。」


詩篇2章11節

「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。」


深い愛で満ちておられる神様を畏れつつ、イエスさまの贖いを受けるがゆえに、喜びで満たされる。


今週もこのみことばを心に留めつつ、主を恐れ、喜び、歩みを与えていただきたいと願ったことでした。感謝します。



CSで母の日制作。ハーバリウムを作り、プラ板にお礼の言葉や絵を描いて詰めました。教会の皆さんに栞を手作りしてプレゼントしました♡

来週の日曜日、教会横の駐車場にて、フードバンクが開催されます。

町の掲示板の至る所にお知らせが貼ってあります。


お花の達人婦人が、いろんなお花を教会に飾ってくださり、みんなで珍しいお花を見ることができて嬉しいです。

上のお花は、ペチュニアの種類で「Shall we dance?」という名前のお花です。可愛い♡


今週も神様からの豊かな恵みがありますように!

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。箴言9;10」聖書


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