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竿代照夫師*ガラテヤ書5章13〜26節❶*礼拝

更新日:2022年10月29日


竿代照夫先生をお迎えして「御霊による歩み」と題してみことばをとりついでいただきました。

竿代先生のお父様は茨城の農家に生まれましたが、青年期に肺病を患われました。しかし闘病中にキリストに出会い、癒されてからはワックス会社を立ち上げ、実業界で活躍され、ギデオン協会でも熱心に働かれたそうです。お母様は明治時代においてクリスチャンホームに生まれ、津田塾に学ばれる中で、さらにバックストン宣教師の影響を受けたお兄様を通してキリストにより近づけられ、クリスチャンの歩みをされるようになりました。そのようなご両親の八人の子どもの下から三番目として生を受け、成長する中でクリスチャンとなり、宣教師・牧師としての歩みを成されてこられた先生です。


「聖め」について語っていただく中で、このガラテヤ書のみことばが開かれました。

パウロは第一次伝道旅行において小アジア・ヨーロッパにある教会においてキリストの福音を宣べ伝えに行きました。しかしその後、ガラテヤ地方の諸教会において、パウロを通して救われた人々が、律法主義に立つユダヤ人たちにより「割礼を受けなければ救われないのだ」と言われ、論争と共に教会内に混乱が生じたことを知ります。パウロはそれを鎮めるためにガラテヤ書の手紙を書きました。


明治時代に外からクリスチャンを見た人がこんなことを言いました。「酒飲むな、タバコ吸うなの耶蘇教(キリスト教)は ああめん(アーメン)どうな宗教なりけり」


パウロはこの書簡の中で、聖い歩みとは「あれも守らねばだめ!」「これをしなければだめ!」と縛りや圧力を感じるような律法的なものではないのだと語ります。

聖い歩みとは、聖い御霊によって導かれるもので、それはキリストにある自由なのだと教えるのです。


16節では「御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲を満たすことは決してありません。」とパウロは語ります。

「肉の欲」とは何か。人は欲が無くなれば人間ではなくなる。つまり、ここで言われている意味は、自然の欲でなく「神から離れた者としての人間性」なのだと語られました。

22節〜23節には御霊の結ぶ実について語られています。


私たちはキリストを神の一人子として信じ、御霊によってそれを告白するときに、御霊のご人格が信仰者の人格を所有し、支配し、聖化してくださる。

その御霊に「わたしの人生の全てをご自由にお使いください。あなたがダメと言うなら私はそのことをしません。」と鍵を渡してしまう。実に「白紙委任」の状態が重要なのだと語られました。

自分の確信したいところに固執してそれを持っている限りでは「白紙委任」ではない。しかし、信頼して全てをお任せし、より頼む時に御霊は私たちを支配・所有してくださり、豊かに用いてくださると言うこと。


また聖霊は決して、私たちの人生を牛耳るような暴君でなく、むしろ私たちそれぞれの個性・願いを用いて生かしなさるお方であり、元々の趣味・喜びを捨てろと言われる意地悪な方ではない。しかし際どいところで、それはダメと言われることもある。それは私たちにとって最善であり、うちに住んでくださる全てよくご存知の聖霊様を信頼するときに、そこに真の自由があることを知るのです。


私たちは、救われても「ああ自分はダメだなあ」と打ちのめされることも多々あります。

神さまが喜んでくださらない歩みをしているのでは、神様が望まれるような自分でないのではと不安も付き纏うのです。


ローマ6章11節にはこのような御言葉があります。

「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きているものだと、認めなさい。」

この認めなさいという言葉はギリシャ語では「計算しなさい」という意味の会計用語だそうです。つまり会計上において、小切手があれば現金がそこになくてもあるものとして計算する。私たちは、罪に対しては、十字架によって既に解決されているのだからもう罪の値は神の前に払い済みのだということ。

そこに私たちの律法やすべきことは何一つ加えられないのです。


「肉を十字架につける」と言うことは、「イエス様から離れている」という罪を主の前に悔い改めることであり、その時に、私たちは「聖められた者」とされるのだと言うこと。

罪でがんじがらめにされていた鎖から解き放たれて、私たちがあるのは真の自由なのです。

弱い自分であっても、そのことで打ちのめされたとしても、神様に信頼するものを神は捨て置かず、責任をとってくださる。だから私たちはこの御霊に常に頼りながら生かされていくのです。


A・Bシンプソン師が著された「御霊にあるあゆみ」の中から、御霊に頼って歩むことについて5つの項目が紹介されました。

❶御霊を認識することー御霊は遠い存在ではなく、友として内住してくださっている。

❷御霊に信頼することー御霊はどんなことでも叶えようと待ち構えてくださっているお方。

❸御霊に相談すること

❹御霊に服従することー御言葉に日々接し、主の御心を汲み取り従うこと。

❺御霊に同調することー主の御言葉に遅れず、また早過ぎず、歩調を合わせて歩むこと。


そして、常にそのために自分の良心の鋭敏さ、敏感さを養うことも大切であることを教えられました。

主が何をしたら喜ばれ、何をしたら悲しまれるのか。「聖い歩み」とは

私の内に住んでくださっている聖霊様に助けていただきながら頼りながらの歩みであることを覚えました。


「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。エペソ4章30節」   聖書

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