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「イエスさまが下さる気づき」*ルカ9章49〜50節


会堂のドアを開けたら、沈丁花の香りに包まれました。

なんて優しい香りでしょう!春爛漫。玄関のチューリップも礼拝が終わって外に出ると花開いていて驚きました。暖かな日差しに喜んで神様を褒め称えているように思えます。

日曜学校でもそんな温かな優しい神様の御名を賛美し、お話は牧先生から聞きました。礼拝と同じ箇所です。

礼拝のみことばはルカ書より「反対しない者は味方」と題して。


ずっとルカの講解説教が続いています。イエス様が受難告知をされ、その後、弟子たちに大切なことを教えられる箇所です。

先週は「小さい者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ」とイエス様が言われたところから学びましたが、ヨハネはこのイエス様の言葉に「答えて言った」(新解約第三版)と書かれています。「先生、あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。」

先生、それでいいですよね?小さい者を受け入れるというのはわかったけれども、そうでない人もいますよね?というヨハネの思いです。


仲間ではない者に対して受け入れることはないですよね?そう思うヨハネの基準とは、この49節の後半にありました。「その人が私たちについてこなかったからです。」

四六時中イエス様と行動を共にしていたのは12人の弟子たちでした。仲間とは同じ釜の飯を食うという表現がありますが、同じ環境に居て同じ事ができる者同志のこと、と彼らも考えていました。しかし、イエス様は言われたのです。

「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」と。

私たちは木を見て森を見ずということがあるのだと語られました。


イエス様の身近にいた弟子は十二人でしたが、群れを見ると多くの人々がイエス様を信じ

従っていました。例えば、エルサレム入場の際、子ロバに乗られたイエス様ですが、その子ロバを弟子たちが尋ねて行った時にお貸しした人。また過越の祭りの最後の晩餐となった部屋を提供してくれた人たちも、イエス様のことを知っていた人々であり、反対する人ではなかった。イエス様の昇天後、教会が生まれ、使徒6章7節には多くの祭司が救われて次々と交わりに入れられていった・・と記されています。

パウロのようなパリサイ人からも救われる人々が起こされ・・・と大小様々な教派から救いを受け入れる人々が起こされていきました。


さらには思想だけでなく、言葉も違う聖徒たちが増えてきて、そのような違いから配給される食事の問題などが上がってくるほどになりました。

最初はユダヤ人のみであった教会も、異邦人に宣教が広がってくる中で、異邦人の教会間においてトラブルが起こり、パウロが解決に入るということも出てきました。

イエス様がお生まれなさってわずか100年の間にも、宣教が進むにつれて、教会は大きく変化していきました。ですから、もしヨハネのようなことを考えていたら教会の枠というものは非常に狭くなってしまったのです。


イエス様はそのようなヨハネの狭い理解に光を当てられて「彼らは、同じイエスキリストをうけいれた人々であり、救い主キリストを宣べ伝える働きは尊い、反対しない者は味方なのだ」と話されたのでした。


❷イエスの名によってなされる働きとは?


それでは、誰でも何でも仲間であり、同じかというとそうではありません。

二つの大事な基準が語られました。

一つ目は、「イエスの名によって、その御名のために」なされている働きか?ということです。

「イエス様のためなんです」と言いながら、その人の名が上がるために、すごいねと評価され満足するためなら、そしてそれをしている人の名に栄光が帰されてしまうなら神様の御心とは真逆の方向を歩いていることになります。イエス様の名を第一とする、そこに立つ働きの大切さを思います。


二つ目は、イエス様の御名が広く広まることを喜べるか、です。

パウロはコロサイ1章6節でこのように記しています。

「この福音はあなたがたが神の恵みを聞き、それを本当に理解した時以来、あなたがたの間でも見られる通りの勢いを持って、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」

23節では「固く立って、信仰に踏みとどまらなければなりません。・・・この福音は天の下の全ての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」パウロは、他にも直接自分の顔を見たことがない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか知ってほしい・・と言っています。

共に行動しているか、仲間かどうか、パウロはそのような狭い世界ではなく、全ての人々に伝えられる福音の広がりを切実に願い走っていたのでした。


「一緒に」「共に」いる人たちだけでなく、イエス様のお言葉によって、遠い場所においてイエス様にお従いするようになった弟子たちも多くいました。

ゲラサの地で、多くの悪霊レギオンからイエス様に救っていただいた男は、イエス様にお供したいと願いました。しかしイエス様は、「家に帰って」神様のしてくださった業を証しなさいと命じられました。

彼はその生涯、その地にあって、イエス様の福音を伝え続けたことだと思います。

ですから「自分達と一緒でなければ」という弟子たちの主張は、誤りでありイエス様はそのことを指摘して、教えられたのでした。


イエス様は、「小さい者を受け入れる者はわたしを受け入れるのだ」という教えと共にこの教えを弟子たちに諭されましたが、それは弟子たちのプライド・自負心をお取り扱われたのだと語られました。


この前の箇所では、弟子たちが悪霊を追い出すことができなかったことが記されています。

なんで、私たちにできないことをイエス様の名を使って勝手にあの人たちはしたのだ、と、嫉妬と共に、その働きをすぐにでもやめさせたい、というような思いもあったのでしょう。しかしそんな彼らの醜い心をイエス様は取り扱われて、他人と自分達を差別化している狭い心を指摘されたのでした。イエス様の名によって働く人々は味方であり、その支えの中に弟子たちは置かれているのだよ、と。


私たちもまた、同じようにイエス様からお取り扱いを受け、心謙ることを教えられ、謙遜に生かされるように主が導いてくださっていることを思うのです。

「十字架を負う」とは、キリストの道に従うことと同時に、そのような愚かな自分に気づきが与えられ、イエス様から直接お取り扱いを受けてゆく道なのだ、と教えられました。

そして、そのように練られ、お取り扱いを受けながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられ、天国にふさわしい者へと造り変えられてゆくのだな・・・と示されました。

いつも見捨てず、教え、叱り、励まし、育ててくださる主を思い、感謝しつつ・・・。


「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイ5章3節聖書」

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