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「クリスマスはあなたのため」クリスマス礼拝✳︎ヨハネ3章16〜21節

更新日:2023年12月26日



クリスマスおめでとうございます🌲

午前中は新しく来られた方々もともにクリスマス礼拝を捧げ、

午後は日曜学校のクリスマス会を開催しました。⭐️

「クリスマスの夜」劇を観たり、楽しいゲーム、大きなケーキに大歓声。楽しいひとときでしたね⭐️

御言葉はヨハネの福音書より「あなたを愛される神」と題してメッセージ。


❶クリスマスとは神様の愛が具体的に示された日


クリスマスとは「キリストの祭り」という意味で、キリストがこの世界に誕生してくださったことをお祝いする日です。

このキリストの誕生が、私たち一人一人にとってどのような意味があるのか。

クリスマスが「神がどれほどあなたを愛しておられるかを示された日」であり「神様が具体的に愛を示された日」であることを覚えたいと思います。


さて「愛」という言葉は、この世界に蔓延しています。しかし、同時に世界中の人がこの「愛」に飢え渇いている、それが現実です。なぜか。それは、真実の愛を知らないからです。


明治期の小説家・翻訳家の二葉亭四迷という人は、「love」という言葉をどのように訳したら良いか、考えてこのように訳しました。

「あなたのためなら死んでもいい」と。


この「愛」を持っている人間はいないと語られました。

「愛」には「エロスの愛」「フィレオの愛」「アガペの愛」があります。

先の二つは男女間の愛、友情の愛。人間が持っている愛です。しかし「アガペの愛」は人間が持つことのできない、神様だけが持っている愛です。人間の愛には限界があります。神様はどうやってそのアガペの愛を私たちに示し、私たち人間を愛してくださったのでしょうか。

それが、「クリスマス」です。


聖書の一番初めの書は創世記という書物です。

ここにはこの世界の始まりが記されています。約6000年前に神様がこの世界を創造され人間を造られました。この世界のすべては神様のお言葉ひとつで造られました。しかし、人間だけは、神様はご自身のかたちとして、神様にかたどってお造りになられたのです。

神様がそのようにされたのは、人間のみなのです。

なぜでしょうか。それは神さまが人を愛され、愛される存在として人間は造られたからです。

アダムとエバと神様との関係は非常に親密であり、神様は大変喜ばれました。

しかし、です。アダムとエバがサタンにそそのかされ、神様との約束を破ったために

神様との関係が断絶しました。

罪に誘拐され、罪が入り、罪に支配される。人間には、罪を嫌われる神様との修復の方法はもはや一つもなく、ただ罪に沈む存在となってしまったのです。

私たちは、誰に教えられることもなく罪を犯します。

そして、神様は誰?神のお言葉って何?神様の話をなぜ聞くの?神様をなぜ信じるの?

と、神様のことが全くわからなくなってしまった。そのような惨めな存在になってしまったのです。

人間が、神様との関係を自ら切ってしまったのでした。


神様は非常に悲しまれました。

愛して造った人間が、サタンの支配に移され、造り主であられる神様のことがわからなくなり、神様に背を向けるようになったのですから。

しかし、神様は、すぐにこのような哀れな人間を、憐れみ、救済計画を立てられました。

創世記の3章で神様は、必ず、救い主をこの世界に送り、人間を救いに導かれると約束されたのです。


ヨハネ3章16節

「神は、実にそのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と記されています。

永遠のいのちとは何でしょうか。

死の先には二つの世界しかありません。永遠のいのちか永遠の滅びか。

永遠の滅びとは神様との交わりのない世界です。


神様はご自分に背を向けた人間が滅びてしまうことを望まれず、ご自分のもとに引き寄せたいと願われました。永遠のいのちとは、すなわち、永遠の神様との交わりに入れられるということです。

この神様との間にできた、決定的な「溝」はどのようにしたら埋められるのか。

人間の側には溝を埋める術は一つもなく、ただ神様の側だけにあるのです。

神様がそのためになされた事。それが、ご自身の大切な一人子を世に遣わす、ということでした。


神にそっぽを向けることを「罪」と言います。

どうやったらその「罪」を赦されるのか。神様は大切な一人子イエスキリストを世に遣わし

十字架におつけになりました。私たちが罪の罰を受けねばならなかった、その身代わりとなって、十字架にかかり、一人で全てを負ってくださったのです。

神様は、罪を一つも持たれない聖い神の御子、神さまが最も愛されている一人子イエス様を預言の通りに約束通りに送ってくださったのでした。


❷選択しなければならない


ヨハネ3章18節にはこのようにあります。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の一人子の名を信じなかったからである。」

この「裁かれている」という言葉は、元々の言葉では、現在形でなく、完了形で記されているのだと語られました。

つまり、私たちは生まれながらにして、神様の裁きのもとに置かれているのです。

ということは、何もせず、そのままでいれば変わらずに滅びの中に入れられてゆくのであって、すべての人は悔い改め、このイエスキリストを信じ、悔い改めて死からいのちへ移されてゆく必要があるのです。


すべての新興宗教やキリスト教を名乗る異端は、人の弱みにつけ込み、人を生かそうとするのでなく、殺そう、奪おうとします。統一教会やエホバの商人など、そんな彼らに共通することは「イエスキリストを神の御子と信じることがない」ということだと語られました。

神様は永遠のいのちに、招きたいとイエス様を送ってくださったのに、それを否定して、人々を闇の中へと先導してゆくのです。


人がいくら努力しても、永遠のいのちを自ら得ることはできません。神様だけが与えることができるのです。それは神様から発したもので、人間が作り上げたものではないのです。

仏教ーそれは神なしの宗教です。

神なしにしていかに最高に生きることができるかを探り求める宗教なのです。そのために多くの知恵を語ります。しかし人には、人を救うことはできないのです。

神以外には人を救うことはできないからです。


使徒4章12節にはこのようにあります。

「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」


つまり、私たち人間は、神が教えてくださったものを受け入れるのか、受けいれないのか。

神様が教え、与えてくださった方法に応えるのか、応えないのか。これひとつなのです。


❸光の中を歩みましょう


19ー20節にはこのようにあります。

「その裁きとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」


闇と光が対比されています。

神様は聖い方で、くもりは一点もなく、すべてのことをよくご覧になる神様の御前に、私たちすべての人間は引き出される日が必ずやってくるのです。

神様の光に照らされる時に、それまでは誰の目にも、また自分でさえも見えなかったものも、すべて見えるようにされます。


私たちは、その方の前で、申し開きをせねばならないのです。しかし、その裁きの日に、弁護してくださるお方が「救い主」イエス様です。このイエス様の名を信じ、悔い改める、神様の与えてくださった救いの方法を受け入れることにより、すべての私の罪を「ないもの」と神様は見てくださり、永遠の神様との交わりに入れてくださる。


私たちは愚かな「罪人」です。だからこそ、イエス様が十字架にかかり、神様との交わりに入るに「ふさわしい者」へと変えようとしてくださいました。

イエス様は「ご自身のいのち」をかけて、私たちを愛してくださった。

クリスマスは、このとてつもない大きな「愛」を覚える日。そして「受ける日」であること。感謝します。


「神は実にそのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3章16節  聖書」

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