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「クリスマスアドベントメッセージ🎄」✴︎マラキ書3章1〜5節



ススキ🌾が風に揺れる中、鳥が楽しそうに歩いたり飛んだり。そして紅葉の美しい二宮です。

日曜学校ではオーナメントを作りました。それぞれの個性が出る素敵な作品が完成。

クリスマスまであと2週間。

礼拝では旧約聖書の一番最後の書、マラキ書より御言葉をいただきました。マラキ書3章1〜5節より「あなたがたが尋ね求める神」と題して。


❶預言者マラキが活動した時代


マラキという人物は、今から約2600年前、預言者ネヘミヤや預言者エズラが活動した時代に生きた人物であり、ネヘミヤが城壁を完成させてから10年後に活動した預言者です。


イスラエルの民は、バビロン捕囚から80年を経て、また約束の地カナンへ戻ってきました。

戻ってきたら、そこはバビロン軍により敗北したままのひどい状態でした。そこからのスタートです。

彼らは、バビロンに敗北し捕囚となった原因は何かをよく知っていました。

神の御言葉に不忠実であったこと。悔い改めもしようとしなかった故に神の裁きによって、異邦人の地へ捕囚の民として連行されていったということをよく理解していたのです。


そこで彼らはもう一度神の祝福に預かろうと、神の前に御言葉の実践を忠実に成してゆくことを心に決め、ネヘミヤ・エズラの信仰復興の指導のもと、城壁・神殿の再建へと向かっていったのです。エズラの宗教改革により、彼らは律法を重視し、イスラエル人の系図を整えて神の恵みを振り返ることを始め、また過越の祭りを行いました。

悔い改めの実として、それを忠実に行なっていったのです。

民の霊性が整えられていったのでした。

第二神殿が再建し、イスラエルの民は、神がメシヤを送ってくださるという期待と共に、信仰的に熱狂しさらにそれは高められていきました。


ところが、です。なかなか民が思う時に救い主イエス様はおいでにならなかったのです。

1年経ち・・2年経ち・・10年経ってメシヤが来られないと、民の心はまた神様から離れ始め、期待が実現されないことによる失望や無気力が人々の心を支配するようになりました。


人々の信仰は冷え込み、ピンと張っていた糸が緩むと何が起こるか・・。

「なーんだ。信仰に真面目に生きてきたのに、メシヤはちっとも来られないじゃないか」

彼らの社会はまた不信仰な悪い方向へと流れていったのです。

マラキ書2章17節、彼らは言いました。「悪を行う者もみな主の目に適っている。主は彼らを喜ばれる。いったい、裁きの神はどこにいるのか」

このような言葉を神様の前に平気で口にするようになっていったのです。

「神を信じて敬虔に生きるより、自由気ままに生きる方が得してるじゃないか。悪を行ったとて、神に裁かれることはないのだ」と。

そのような彼らに対して預言者マラキが言いました。

「あなた方は神を疲れさせている」(2章17節)と。


このマラキの時代から私たちは今、約2600年後を生きています。

マラキの時代に「ああメシヤは来られると言ったのに」と民は落胆しました。何年経っても来られない。。。人々の心は次第に暗くなり、失望しました。

しかし、神様の決めておられる時が到来した時。この600年後にメシヤ・イエス様はきてくださいました。ユダヤのベツレヘムで小さな赤ちゃんとしてこの世にお生まれくださったのです。預言者たちによって神様が御言葉を送られた通りに神様の時に成就したのでした。


今の私たちにも約束があります。「一度来られたイエス様がもう一度来られる。」

使徒1章11節に「・・・あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上っていくのをあなたがたが見たのと同じ有様でまたおいでになります。」とあります。

それから2000年という年月が経ちました。私たちの心はどのようでしょうか。

「もう来られないのではないだろうか」と諦めたような心でしょうか。

神様は一人の魂も滅ぶのを望まれず、全ての人がイエス様を信じて永遠の神様との交わりに入れられることを望まれている、ということを私たちは信じ、希望をもって待ち望む中で、

神を無視する生き方を悔い改め、罪の道を歩んで裁きに合うことがないように人々に警告してゆくこと。それが私たちに与えられた使命なのだと、語られました。

「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節


❷信仰者である私たちにできること


神様はそのような悪が蔓延していた状況にある民たちに、マラキを遣わして「わたしはわたしの使いを遣わす。彼はわたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然その神殿にくる。」と言われたのです。(マラキ3章1節)

「ヨハネが先に遣わされ、そしてイエス様が来られる。」この箇所にはいろんな解釈がある中で、神様が救い主を送る計画をクリスマスを通して成就されたと私たちは理解することができるのです。


この使いや救い主を遣わされて神様はイスラエルの社会をどのように聖められたのか。

まず「レビの子ら」🟰宗教的指導者をきよめると言われたのでした。

「金や銀にするように、彼らを純粋にする」とあります。不正や不信仰、愛のなさを神様は全てきよめられ、神様に喜ばれる義による礼拝が捧げられるようになる、と言われたのです。

世が堕落しているから、世からきよめられるのでなく、神様はまず信仰者がきよめられると言われていることに心を留めるべきことが語られました。

まず信仰者が、教会が、正され、それから世が正される、と。

現在のキリスト教会にこれを当てはめると第一ペテロ4章17節にこのような御言葉があります。「なぜなら、裁きが神の家から始まる時が来ているからです」


私たちは「神の言葉」と「私たちの心情」を秤にかけます。その時に神の言葉よりも心情に重きを置くならば、つまり、罪や不正を見ながら関係が悪くなるのを恐れて黙ってしまうなら、口を閉ざしてしまうなら、それは神からの使命をなおざりにしているのと同じなのです。


旧約の預言者たちが、神の御言葉を語った時に、イスラエルの民は彼らを迫害し、排除しようとしました。しかし預言者たちは人々に受け入れられるようとしたのでなく、神様が告げなさいという務めに専念したのです。

たとえ、それによって、関係が悪くなり、憎まれたとしても。そこから逃げなかったのです。


世の中の最後は二つの最後しかないのだ、と語られました。

一つは永遠の滅び。もう一つは永遠のいのちです。

グレイゾーン、真ん中はないのです。

真実の愛を持っているならば、悔い改め、神の前にそれを持って行かねばと私たちは告げなければならない。

贖いの代価となってくださったキリスト。それは、神の裁きのカウントダウンに入ったということでもあるのです。

キリストが天の権威を捨て、地上に降りてきてくださったように、私たちも「自分は救われたのだから大丈夫」と高みに留まるのでなく「このままでは滅びますよ」と語ってゆくことが神様に期待されているのだと語られました。


クリスマス。本当の意味はすり替えられ、ただ楽しければ良い、とあちこちにツリーが飾られています。先日はスーパーの真ん中にみんなの願い事カードがびっしりと飾られた大きな七夕クリスマスツリーを見つけて驚きました。

イエス様がこんな私たちの罪を全て引き受けるために世に来てくださった、真実のグッドニュースを告げ知らせる時となりますように。。。


「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」ルカ2章11節 聖書

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