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「神を拝する」*第二サムエル記6章



二宮の海は美しく。礼拝の前の日曜学校も元気いっぱい✨です。

礼拝のみことばは第二サムエル記より「主への恐れと喜び」と題して。

ダビデが神の箱をエルサレムに運び込ませるところです。礼拝するとはどんなことなのか。礼拝者としての王ダビデの霊性に教えられます。


❶主の臨在を求めたダビデ


神の箱は神の臨在を表す大事なものでしたが、ペリシテ人に敗北し奪われてしまいました。イスラエルの民が無力で何もできなくても、神ご自身が動かれて、その事によりペリシテ人たちの間に恐れが生じ、この神の箱はイスラエルの元に戻ってきました。そしてキルヤテ・エアリムのアビナダブという人の家にずっと留まっていたのです。


ダビデはこれからエルサレムを治めて行く中で何が必要かを知っていました。

「神の臨在」なくしては、神の民を治めることなどできないと悟っていたのです。

ここにダビデとサウルの対象的な姿があります。サウルの治世は神の箱をとりに行くこともなくそれを遠ざけたまま過ぎてゆきました。サウル王は有能な王でしたが神の臨在を求めないがゆえに祝福を失ってしまいました。彼は与えられているものなら、神の憐れみなしにVISIONは達成できるのだと邁進していったのです。


私たちが与えられている財も知識も職も家族も健康も、全ては神様の御心のうちに許しの中で与えられているものです。しかしそれをいつの間にか私たちは自分で握り、誇るのです。

神のものを自分自身のものとして握るときに、それを失い、祝福が途絶えるということに気づくのです。

ですから、与えられているものを、自分のものと誇ることなく「裸で生まれ、裸で帰る」とヨブが告白したように「これらは私のものだけれども私のものではない」とそこに留まり続け、神の御心のために捧げてゆく時にそこに祝福の基があると知ることは非常に重要なことです。


この1節にはダビデが精鋭三万人を集めてこの神の箱を迎えにいったことが記されています。

神の箱はそんなに大きかったのでしょうか。

実は、神の箱は幅が110㎝、奥行きが60㎝ほどの小さな机くらいの大きさであったのだと語られました。10人でも人が余るほどです。

しかし、ダビデは三万人もの精鋭を送ったのです。これはペリシテ人との戦いに動員された兵士の数と同じでした。


私たちも、「私」という人の中に「神」を迎え入れる時に、このような恐れと謙遜を持ってお迎えすべきだろうと語られました。

私たちは神の創造物です。罪のゆえに神との交わりが途絶えていたのに、その「神」がもう一度私たちのうちに入ってくださった。


RICK WARREN牧師は「人生の五つの目的」という著書の中で、その一番目に大切なこととして「神を知り、自分のうちに神を迎えること」をあげています。そして大事なことは、その迎え入れた「神」と共に生きること、なのです。神の前にどう生きて行くのか。神を求めながら委ねながら生きて行くことが求められているのです。生活の中で主権が神にあること。私たちは、自分で自分の人生を治めているときに見ることのできなかった奇跡を、この神に人生を委ね明け渡すときに見させていただくことができるのです。


❷ウザの死から何を学ぶのか。



ウザという人の話を見るたびに、かわいそうだなあと思うと同時に、このイスラエルの民全体に広がった恐れを内に感じました。私たちが、当然だ!正しい!と良かれと思って自分の判断で発言したこと、動いたことが、神の領域に入ってしまい、裁きに会うことがあるのだと。

もちろんこのことにいつも注意深くなければならないと思います。神の前に恐れを持つことは非常に大切なことです。


もう一つ、今日学んだことは、そもそもこの「神の箱」がどのように取り扱わねばならなかったのかということです。

神の箱は律法によって取り扱われ方が、事細かに示され、レビ族だけが「担ぎ」運ぶことになっていました。ところが、この箇所をよく読むと、ダビデとイスラエルの民はそこに注意を払うことなく、荷車に乗せて(3節)運んだことがわかります。


きっとこの神の箱が戦いに負けてペリシテ人のところに運ばれていった時にそれを見ていたイスラエル人たちが、神の言う通りでなく(律法)、50〜60年経って、自分たちが「その時見た」通りのことをやってしまったからなのだと語られました。


神の箱を運び迎え入れること自体は素晴らしいことであったのに、そのスタートが間違っていたのでした。神様は神様が求め、願われる通りのことをやったかどうかを、そのプロセスを問われているのだと語られました。同じ結果であったとしても、裁きを招いてしまうのだ、と。


祈祷会では今「民数記」を1章ずつ読み学んでいますが、ここにも記されているのです。

「ケハテ族が、神が願うように運ばねば、ケハテ族は死ななければならない」と。

神は侮られる方ではない(ガラテヤ書6章7節)とあります。

私たちすべての人間に、必ず訪れるものーそれは「死」です。そこで、やがて私たちは地上で成したことを裁きの座において裁かれるのです。しかし、キリストを信じる者は、そこでキリストの弁護を受けます。

それゆえに、私たちは、この愛であり、義である聖なる神に喜ばれることを求めるのです。

そして、今私たちのうちに臨在してくださる神様が私に何を求めておられるのか、そのことに心を向けていくことを思います。


ダビデはこのウザの介入が死をもたらしたことで、非常に恐れ、心配し、この神の箱をオベデエドムの家に3ヶ月間回しました。神様はこのことで、オベデエドムの家を祝福されました。彼らが神の箱を迎え入れるために謙遜になり、心からお迎えしたゆえです。


❸神の箱を迎えたダビデ


ダビデはオベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福されたことを聞いて、いよいよ「神の箱」をダビデの町に運び入れることを決めます。今度は、律法の通りにしました。

6歩進むごとに「肥えた牛」一頭をいけにえとして捧げた(13節)とあります。

20キロ近くある道のりで、6歩ごとに1頭の肥えた牛を捧げたとは、一体何頭の牛を捧げたのだろうと驚きますが、それでもダビデはそれをしました。それがダビデの信仰でした。


私たちのあゆみ、キリスト者も、キリスト教会もこのようなダビデに学びます。

なんでもこの世の中が求めるかのように、スピーディーに取り掛かり、行わねば!とそのように考え、言動してしまうことがあるからです。しかしそこに「神の御心は何でしょうか」と慎重に求め行くことの大切さを教えられるのです。


またこの時のダビデの服装や態度について描かれていますが、彼は王服を脱ぎ、亜麻布のエポデ(サムエルが着ていたようなもの)を着て「神の箱がやってくる!喜んで迎え入れよう!」と跳ね回って踊って全身全霊で迎え入れたと記されています。ダビデは全イスラエルの王として宮殿で椅子に座って待っていても良かったのです。しかし、彼は神の前にただただへりくだり、その臨在を心から喜び、謙虚に、真剣にこの「神の箱」を迎え入れたのでした。


このダビデの姿と対照的なのが王妃ミカルの姿です。ミカルはダビデの思いや信仰を理解しようとせず、心の中で蔑んだのです。

ミカルはサウル王の娘でした。「王衣を脱いで、裸同然で踊るとは!」とダビデに対して嫌味を言い、プライドを捨てることができず、そして、ダビデと心を一つにすることができなかったのです。


このミカルに対してダビデは言います。

「神はあなたの父ではなく、むしろ私を選んで王とされた」と。そしてその神の前に、ただ神を喜び、神がいてくださることを心から感謝したいのだと。

聖書はこの章を「サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった」と厳しい言葉で締めくくっています。本来はイスラエルの王としてこの正妻のミカルから生まれる子が王位に着くはずでした。しかし、心と言葉と行いを見られている神様ご自身がこのことをも裁かれ、御心の通りに動かれて行くことを見るのです。


神様が私の内にずっといてくださることを喜ぶ。「あなたと共にいる」といてくださる神様が毎日毎日ずっと一緒であることを覚えつつ、感謝して過ごしたいと思います。


「我が内にいますキリスト。これぞ栄光の望み コロサイ1章27節 聖書」

(かつてお世話になった千葉明徳牧師が奨励の中で語られたこのみことばが心に深く染み入ります。)



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