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神の箱を*第一サムエル記5章(礼拝)

更新日:5月12日



前日の⚡️雷雨から一転して、素晴らしい晴天の一日。思わずカメラを向けた海と空のコントラストの美しいこと!創造主を褒め賛美します。

講壇のお花は


クジャクサボテンというお花☺️


礼拝の初めの子どもタイムでは、「主の祈り」について少しずつ学んでいます。

「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」

今日は、この御名とは何か教えてもらいました。

牧先生と始めた交換ノート、許可をいただいたのでアップしますと・・・



このように、自分でメモしてくれていました😍

神様は子どもたちを愛し、礼拝者の一人としてしっかりと見つめてくださっていること。ただ可愛らしいだけでなく、小さな子どもたちの素直で正直で主の前にとび込んでゆくその姿から大人たちも教えられます。


さて今日のメッセージは「神の自己主張」と題して第一サムエル記5章からメッセージ。

神の民がなぜ、戦いに負けたのか。リーダーたちは、その理由として「主の契約の箱が戦いの最前線に置かれなかったからだ」と、契約の箱を戦いに持っていくことにしましたが、またも大敗しさらにはその死者は初めの戦いの約七倍である3万人にも上ったと記されています。そして民が何よりも嘆いたのは、「神の箱」がペリシテ人に渡ってしまったこと。

祭司エリも、ピネハスの妻もショックを受けて死にましたが、彼らのみならず、それはイスラエル全体にとって大きな打撃、悲しみとなりました。


「神の箱がなくなる」ということは、「神の栄光がなくなる」ということであり、神の臨在を知るものにとっては非常に悲しいことでありました。


これは、内住してくださる「聖霊」との歩みにあるキリスト者についても置き換えて考えることができます。神に喜ばれない選択をするときに、その不従順な罪ゆえに、聖霊様のご支配が弱くなり、まるで聖霊様がおられないかのような力の無い歩みとなってしまうことを覚えます。


持ち去られた箱は戦利品としてペリシテ人の所にずっとあったのか。二つのことから学びました。

❶偶像礼拝に注意しましょう

ペリシテ人はアシュドデという町に神の箱を運び、彼らの偶像であるダゴンの神殿にそれを置きました。(2節)

当時の戦いは、人と人、武器と武器の戦いではなく、神と神との戦いと考えられており、もし背後にある守護神が強いならば、人数や武器の数に関係なく勝利を得ることができると考えられていました。


ペリシテ人は負けたイスラエルの国の神の栄光を表す「神の箱」を、自分たちの偶像神であるダゴンの前にひれ伏させるようにして、設置したのです。


ところが、彼らが翌朝見てみると、ダゴンが主の箱の前にひれ伏すように倒れており、

さらには、翌翌朝には、ダゴンの胴体から頭や両手が切り離されるようにしてバラバラに倒れていました。(3−5節)


頭が切り離されていたということ、それは当時、圧倒的な勝利・征服を表す行為でした。

(ダビデがゴリアテを倒した時を思い起こします。)


戦いに負けたということは、イスラエルの神がダゴンに負けたのだと、ペリシテ人は考えました。ところが、神が負けたのではない、神の思いがそこにあったこと。神に目を向けず、偶像に目を向けるイスラエルの民に神が気づきを与えられるために戦いに負けるように導かれた。


神は黙って偶像ダゴンの神殿の中に入れられ、辱められているかというとそうではない。神は全くこのような偶像と違うということを表されたのです。



人間が石や木や紙で作った神と呼ばれる偶像には何の力もありません。

所詮人によって作られたものは、人によって助けられなければならないものであり、そこに命がないのです。

どうしてそれが、私たちの危機に、助けてくれるのか。なぜそのようなものに人は心を向けるのか。人が作り、人の助け無くしては在れないものに心を向けるのは虚しいこと。


しかし、なぜ人は偶像を信じてゆくのでしょうか。

一つは、人は霊的な存在に対する普遍的な恐れ・思いがあることによると語られました。

5節でペリシテ人は倒れたダゴンのバラバラになった頭や両手が神殿の敷居にあったので、敷居を踏まなくなったと書かれています。

人々の中に、ダゴンの呪いがあるかも、霊があるかも、と根拠のない祟りや呪いなどの恐れが生まれたことがわかります。


新訳で、パウロが偶像に捧げられた肉を食べることについても、何ら問題ないが、そこに祟り、呪いなど霊的な恐れを抱いてしまう弱さを持つ人々についても書かれています。

日本においてもですが、これをしないと祟りがあるかも・・・と数々の神事と言われることに支配されている場合があります。しかし、全く根拠のないこと、それをしなかったからと言って何が起こるのか。悪霊は偶像に働きやすいが偶像そのものには何の力も宿っていない。しかし、恐れから礼拝を続ける。そんな姿があることを思います。


二つ目は、貪欲による偶像への信仰です。

ペリシテ人がこの時拝んでいたダゴンは、「豊穣」をもたらす神とされていました。

他にもバアルやアシュタロテなど、豊穣や願いを叶えてくれる神、都合の良い神が多く作られていました。人間に対して祝福してくれる偶像を神とし利益をもたらしてくれるなら、偶像礼拝を続けてゆく。自分にとって都合の良いものを人は自分から捨てることなどない。

コロサイ3章5節には


このようにあります。貪欲とは、むさぼる心であり、ありとあらゆるもの、あれもこれも欲しいと思うときに、貪欲な気持ちが働いていくのです。神の思いでなく、自分の思いで自分のものにしたい。そのために諦めない。。。

こうして偶像がその人の心を縛ってゆく。


私たちも、生ける神を退けてしまうような「貪欲」がないだろうか。心を点検することを示されました。


唯一であられる真の神は「わたしは在りて在るものである。」と言われました。

つまり、誰かが信じるから在る、信者がいるから在るというような依存する方ではない。信じる者に依存する神は自立していない存在ということになり、たとえ誰も信じなくても、そこにおられる神は自立しておられるお方なのだということ。

信じて、助けて、支えてあげなければいけない偶像は決して神ではないということ。


❷私たちの心に神の箱を運び入れましょう。

6節からペリシテ人がまるで爆弾ゲームのように、この「神の箱」を移動させていく様子が描かれています。





アシュドデからガテへ。ガテから、エクロンへ。

この神の箱が置かれた町は腫物と死で溢れ、人々は苦しみのあまり叫び、その叫び声は天にまで上った。(12節)と書かれています。

「神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。」と。(6節・11節)


このような中で、なぜペリシテ人は悔い改めなかったのか。彼らはついには、この神の箱をイスラエルに戻そうと考えましたが、なぜ本当の生ける神を信じることに至らなかったのか。


ある先生がこのことについて「それは、神よりも自分を愛していたからである。」という考えを述べておられることが語られました。


罪とは、偽ったり、憎んだり・・・・と具体的な行為を私たちは思い浮かべます。

しかし、罪の本質とは、神中心でなく、自分中心であること。

神という霊的な存在を求めず、自分の生活、自分の祝福を追い、ちっとも神中心でない考え方。自分だけがそこにいる、それが罪であるということ。


人は「罪」ゆえに、それを満足させようとして、偶像を作っていくのだということ。

ペリシテ人たちが崇拝していた「ダゴン」は欲を満足させるために作ったものであること。

そしてそこから抜けることができなかったのは、自分が可愛く、自分を愛していたから。ダゴンから離れることができなかったのです。


人は、自分が一番。神を、他の人を愛するのは後回し。真の神を信じたと言っても、都合の悪いことがあると、神に背を向けてしまう、神を遠ざけてしまう私たち。

神の前に立ち返り「神の箱」を私たちの心の内に入れていただくこと。これが私たちに求められているということ!

「神の箱」とは、「聖霊」で在り、内住してくださっている聖霊にご支配していただくということ。神の前にへりくだり、悔い改めるときに、私たちの心の中から偶像が倒れていく。


洗礼の「浸礼」について語られました。

洗礼式の時になぜ、水に沈められるのか。それは一度死ぬということを象徴しているということ。沈められ、そして引き上げられる時に新しい命をもってよみがえる、自分が死ぬということを経験することが大切であること。


私たちの人生、本当に短いものですが、生かされているのは、ただ神のめぐみ。

そして、それは神のために与えられている、私たちの命はそういうものであること。

自分(自我)にしても死なないならば、古い自分は生き続ける。しかし自分に死ぬときに、真の意味で新しい命に生かされる。それが救いであること。


「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい。自分のいのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。」ルカ9章23−25節


みことばを握りつつ今週のあゆみが一日一日守られますように。。


今月から、密を避けて広い空間で、時間に余裕を持ってCSができるようになりました。


移動輪投げごっこ!本格的なフォーム‼️で投げて、大興奮でしたね😁

礼拝で爆弾ゲームのお話が出てきたので、爆弾ゲームもしました😍ドキドキみんなで大笑い。お話は「サウロの大変身」みんなよく聞いていました☺️


礼拝も使徒信条を口ずさんでみたり、年間暗唱聖句を覚えていたりと子どもたちが、たくさん恵みをいただいていることを皆で確認して感謝しました。心身の成長とともに霊の成長が豊かにされ、主を愛する豊かな歩みがこれからも与えられて行きますように❣️


「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。

聖なる装いをして主にひれ伏せ。            詩篇29篇2節」聖書

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