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かわいそうなサウル*第一サムエル記10章(礼拝)

更新日:6月8日


紫陽花や色鮮やかな花が可愛い6月です。

今日の礼拝は「神に選ばれたサウル」と題して第一サムエル記10章よりメッセージ。


❶王とされたしるし

1節「サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ・・・」とあります。


神の選びによる特別な儀式であります。

教会においての牧師の「按手礼式」を想像させます。

神の働きのために選び出され、またその任に当たることを主の前に厳粛に受け止め、目に見える形でしるしとして設けられる式であります。


日曜学校の教師任職式もまた然りで、教師の自覚のために特別に会衆の前に出て式を持ちます。それは、CS教師がただ単に、人が足りないからやる、時間があるからやる。というのではなく、主の召しがあるから謙虚な思いでその任に当たらせていただく自覚のためであると語られました。

厳かな気持ちを持って大切な霊の養いである場に仕えていきたいと思わされたことです。


このサウルの油注ぎのあと、サムエルは3つのしるしについて語ります。

①ラケルの墓のそばで、2人の人に会うでしょう。

②ダボルの樫の木のところで、3人の人に出会うでしょう。

③ギブア・エロヒムに着くと、祭壇からの一団と出会い、あなたもそこで預言するでしょう。


私たちは「神様が私と共にいてくださる。」ということを聞くときに、それを素直に受けるかというと、しるしを同時に求めます。具体的に、職場や学校・家庭の中に「ああ!神様は確かに共にいてくださるんだなあ!」と確信する瞬間があります。


神様がいつも共にいてくださることを、私たちがいつも感じることができるように、神様の方で、いろんな方法を用いて働きかけてくださっていることを改めて覚えます。


さて、サウルへのこの3つのしるしは、その後すぐにその日のうちに起こりました。

サウルは、きっと、油注がれたことと同時にこの3つのしるしが起こり、「ああ、神が召されたというのは本当なのだろう」と感じたに違いありません。


6節で「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。」とあります。


この箇所から、「旧約と新訳の聖霊は違うのではないか」ということを本に書いた先生がいたそうです。この6節で「主の霊が下り」とあり、16章14節では「主の霊は離れ去り」とあるからです。

 新訳では聖霊は取り去られることはないと教えているのに、旧約では取りさられている、だから同じ聖霊ではないのだ、と。

 しかしそれは「三位一体」を否定し基本的教理が崩れてしまう考えであり、本質は一つであり神格が3つある父・子・聖霊の三位一体は、それでは果たしてどこから来るのだろうという話になってしまうのです。つまりこの先生は、サウルが救われているという前提でそのことを書かれた。

 しかし、果たしてそうだろうか。サウルは本当に救われていたのだろうか。そこをしっかりと見る必要があります。


 「神に選ばれた王だから神を信じているとは言えない」ということです。聖霊は信じる者のうちに住んでくださり、いなくなりません。ということは、サウルは救われていなかったのではないだろうか。私たちが聖書を読み進めていくときに、彼の人生の中に救われた者としての行動・救われている者に見られる特徴を見出すことができないのです。

 つまり、彼の中に「悔い改め」がないのです。これは決定的なことであります。


15章に、ギルガルで7日間サムエルを待ったがサムエルがなかなか到着せず、しびれを切らしたサウルが、サムエルの代わりに勝手にささげ物をした記事があります。それは預言者にのみ許されていることであり、サウルが決して侵しては行けない聖域でした。しかし主への恐れのないサウルは軽率な行動に出て神の怒りを受け、神の命令を聞かないサウルを主は退けられるのです。

さらに15章30節においてのサウルの言動には驚きます。「私は罪を犯しました」といったものの、「王である自分の面目を保ってください。」とサムエルに請うのです。神からよりも、人々からどう思われるかが怖い。悪く思われたくない。人々の信頼を失いたくない・・・と。




このようなサウルの姿を見るときに、彼の中に神への信仰を見ることができないのです。


対照的なのがダビデです。ダビデも神の前に大きな罪を犯しました。しかし彼はそのことを指摘されたときに、真っ先に神に悔い改め、裁きを甘んじて受けます。同時にそれを人々に隠すことなく、彼は嘲笑を受け、石を投げつけられ・・苦しみを受けます。そして彼はいうのです。「私の心を見られる主は必ず、この呪いを祝福に変えてくださる」と。これこそが真の悔い改めの姿であり、罪の赦しをいただき救われたものの姿です。


私たちキリスト者も、救われたから、洗礼を受けたから、ということで、全く聖い生活が送れるかというと残念ながら、そうではありません。罪の責任は免れたが、罪の根は生え、誘惑があると、いくらでも罪を犯す弱い愚かな存在。「教会は赦された罪人の集まりだ」とルターは言いましたが、本当に主に悔い改め赦され続けなければならない者であることを思います。


このサウルの箇所を説教されたある先生はタイトルに「かわいそうなサウル」とつけられたそうです。サウル王は信者として王職に召されたのではなく、あくまでも人々がどう思うか、人々の理想は何なのかというところで、神様が裁きとして、民の上に立てられた王だったからです。

6節において「新しい人に変えられた」とある記述も、サウルが「救われた」のではなく「特別な力が与えられた」ということであり、あくまでも「状況が変わった」ということの記述であると語られました。


❷新生したキリスト者とされましょう。


この教会は戦後初のプロテスタント教会として建てられた教会です。

ここで行われた初めての洗礼式で洗礼を受けた11人の人のうち数名が実は公安当局の人々でスパイ、つまり偽りの告白をした人であったことがわかっています。

ジェームス・バラ師はそれを知らずに洗礼を授けたのですが、他人の信仰は人にはわからないものであり、目に見えてわかるのは信仰告白のみであることを改めて考えてしまいます・・・。

彼らは、信じていないが仲間とならねば、調査できないから洗礼を受けた訳です。


ここまで行かなくとも、真に神を信じていないのに信じているという人は、メッキが剥がれやすく、表面的に信じたといっても、時間の経過と共にその言動において信仰は明らかになっていくのです。言動が信仰と直結していると言っても過言ではありません。

真に神を信じる者と、信じていない者との間にはその差が歴然となっていくのです。


❸神に心を動かされる者でありましょう。

サウルは14節〜16節で、叔父に会いますが、ここでも、叔父に王位のことについて語りません。後のことを考えてか、まだわからないので慎重だったかの賢い選択によるというよりは、まだ信じていないサウルの頑なさを見るのです。


サムエルは、度々会議を行うミツパにおいて、今回は王の選出を行なっていきます。あくまでも、これは神を退ける行為であることということを説明しつつ(19節)王を立てるということが始まって行ったのです。


くじにおいて、イスラエルの全部族から、ベニヤミン族。さらに、それぞれの氏族からマテリ族。そしてキシュの子サウルが選び分けられていくのです。


ところが、当のサウルがどこにいたかというと、彼は荷物の間に隠れていました。

これは決して謙遜からでなく、油注がれ、しるしも見ているのに、自信のない心の表れであり、これがカバーされたときに傲慢が出てくる、自信のなさと傲慢は表裏一体であると語られました。


そんなサウルが出てきたとき、彼の身長は「民の誰よりも肩から上だけ高かった」と書かれていますが、容姿を見て民は喜び「王様万歳!」と叫び喜んだとあります。(24節)


26節。サウルを王とするにあたり、「神に心動かされた勇者」は彼についてゆき、「よこしまな者たち」は彼を軽蔑し軽んじたことが書かれています。


神に心動かされた者たちは、サウルの容姿を見て、この人についてゆこうと決めたのではなく、神の御心と信じて、従っていこうと心に決めた人々です。しかし、よこしまな者たちは、神の御心をそこに見ず、自分の理想、自分の思い、自分の生き方・わがままを遂げさせてくれる人でなければついていかないと、「こいつがどうして我々を救えるのか」と言ったのです。


私たちも、主の御心を求め主に従うことを決断し、あゆみ進んでいきたいと願わされます。



さて、今日のCSはゲストスピーカーにみんなの大好きなマキセンセイ。サムエル記5章から

ダゴンの神殿での偶像のお話を聞きました。どんどこどこどこ・・・と練習した音楽!?とともにダゴンが出てきまして、もうお友達は大爆笑。大人も大爆笑🤣

「が」の神様と「を」の神様について学びました。

人間「が」つくった神様。

人間「を」つくった神様。

よくお話を聞いていましたね。暗唱聖句は出エジプト記20章3節。

「あなたにはわたし以外にほかの神々があってはならない。」です。

よく覚えられました❣️

ゲームはミッキ〜ジャンケン!そして工作は折り紙で飛行機!

ありのままソングは振り付けは無視で💦体を動かし、高いジャンプが恒例になってきました。😁大人も汗びっしょりです。


午後は第二弾フードバンクが夕方まで会堂にて行われました!


「神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。」第一サムエル記10章26節 聖書


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