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「人が望むもの」*第一サムエル記8章(礼拝)

更新日:3 日前


お天気の良い暑い一日でした!

礼拝は「神を拒む民」と題して第一サムエル記8章よりペンテコステを覚える記念礼拝、メッセージ。

❶真の統治者は誰か。

イスラエルの歴史を振り返ると、神ご自身がアブラハムを選び、族長たちが神の民をリードし、モーセ・ヨシュア・士師様々とリーダーが立てられたことを思います。

サムエルもそのようにして主に選ばれ「神はこう言われる。」と、神から選ばれて忠実に民を治めてきた、いわゆる神制政治が行われてきました。神が王であられる政治です。


 しかし、ここにきて、年老いたサムエルの二人の息子が賄賂を取るような間違ったリーダーであったにしろ、これまでのサムエルの働きに対して失礼な態度・言動をもって他国のように王を立ててほしいと願ってきた民に対して、サムエルの心は穏やかではありませんでした。民が求めたのは、王制政治です。



民の求めに対して、サムエルは怒らず、神様に祈りました。感情的になってもおかしくない場面で、一人主の前にひれ伏して祈ったのです。

サムエルは誰が統治者であられるかをよく知っていたのです。

全てをよくご存知で、信頼してくる者に最善以外は決してなさらない方、それが神であることを。

しかし、民は目に見えることに動かされ、また目に見えて口で語り合い、手で触れることのできる、そのような存在を求めました。


私たちも何か困ったことが起こったときに、神様に真っ先に相談し、尋ね、神様のお言葉を頼りにして、それに従っているだろうか。

あるいは、すぐに思いつく人に電話し、相談し、解決を急ぎ・・と、神でなく人に頼っていることはないだろうか。考えさせられます。


❷心を頑なにする民


神様は祈り、主に尋ねるサムエルにこう言われました。

「民があなたに言うことは、何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らはあなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。」そして続けて言われました。

「わたしが彼らをエジプトから連れのぼった日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、他の神々に仕えることだった。そのように彼らはあなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」と。(7節〜9節)


王政について、メリットとデメリットを10節から18節に至るまでの箇所で、事細かに書かれていますが、このようにサムエルは民に主の言葉を説明しました。



この8節間の中で語られている王は、息子・娘・畑・税金・・・と、「奪う王」であること。つまり、神があなた方を支えてくださっていたときには自由があったが、王が立てられたら、あなた方はそれも奪われ、王に仕えるのだ、それでも良いかとの意思確認です。

民はそれでも良いのだと、サムエルの言葉を拒み、主を拒みました。


❸神を拒んだ民の姿

本当の王は「奪う王」ではなく、「与えてくれる王」です。自分の民を愛おしみ、そのために一人子さえも惜しまず命を捨て、全てを与えてくださった神様。この神さまが真実の王です。


マルコ10章42〜45節にはこのようなみことばがあります。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなた方も知っている通り、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄に振る舞い、偉い人たちは、人々の上に権力を振るっています。しかしあなた方の間ではそうであってはなりません。あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなた方の間で先頭に立ちたいと思う者は皆のしもべになりなさい。』人の子も、仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」


人は自分がしたいと思うことができないと、苛立ち、感情的になりその思いが遂げられるまで意固地になり、訴え続けようとすることがあります。自分の意見・自分の思いが叶えられるために様々な態度で主張します。

しかし、ここで、ふと立ち止まり、「自分の思い」を通そうとするのか、「神様の思い」を待つのか。非常に大切なことであることを思いました。

19節から、王政になれば苦労するよと助言があるのに

「いや、どうしても私たちの上には王が必要です。」と民は引きません。


他国と肩を並べることができる、前に立って戦いに出てくれて守ってくれる王が欲しいと

民の主張はガンとして動かず、神の導きに一向に目をとめないのです。


イスラエルの民はあらゆる国の中から、神に選ばれた民でした。(出エジプト19章5節「今もしあなた方が確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなた方はあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」)

それなのに、他の国の民と同様になることを求めた。

サムエルは再び、主の前に出て民の訴えを神様に伝えます。

すると主は、「彼らのいうことを聞き入れよ。彼らのために王を立てよ。」と言われました。このことを許容的指示だと語られました。民の頑なさのゆえに、主が許容されたということ。


これは神様の御心ではないことでした。神様が王として民を支配してくださるのに、民はそれを拒み、自分たちの考え・自分たちの思いを主の前に出して、頑なに求めた。


この結果。サウルの王朝が始まりますが、それは一世代で終わります。

そしてその後、ダビデ王朝がスタートし、そのダビデの末裔としてイエス・キリスト。神の一人子が生まれてくださいます。


このことを見るときに、王政が神様の目に必ずしも悪いことではなく、むしろ、神様の深い御計画があったことを見ます。ところが、民が「神様の時」を待てなかったばかりに、

墓穴を掘ってしまうということを知るのです。


ホセア13章9〜11節

「イスラエルよ、あなたは滅ぼされる。あなたの助け手である、わたしに背いたからだ。では、あなたの王はどこにいるのか。全ての町のうちで、あなたを救う者は。あなたをさばく者たちはどこにいるのか。かつてあなたが『私に王と高官たちを与えよ。』と言った者たちは。わたしは怒ってあなたに王を与え、また憤ってこれを奪い取る。」


このみことばは神様の究極的な答えであると語られました。

このホセアの預言は、バビロン捕囚のときに成就されました。バビロニアによって滅ぼされた南ユダの王ゼデキヤは、両目をつぶされ、捕虜たちとともに連れて行かれたのです。


人々は「王政を!」と願った。王政がいいのだ!と。しかし王政は神の御心により、たちどころに滅ぼされてしまった。


本当に私たちが目をとめ、信頼すべき方は、真の王、神様であることを示されます。

「私たちの心の王座には誰が座っているのか?」

キリスト者、キリストにつく者であるなら、キリストが王座におられ、聖霊が住われていることを覚えるのです。


このペンテコステの日。人間の思いと恐れに支配されていた弟子たちの上に、聖霊が降り、この日を境に

弟子たちは大胆に、「イエス・キリストは主です!」と福音を宣べ伝え、教会がスタートしました。主を恐れ、主を信頼し、聖霊様を歓迎する教会に神さまは人を送り、多くの人々を加えてくださったのです。


「今日。あなたの心の王座には誰が座っていますか?」この言葉が心に響きます。

自分の思いを通そうと、自分がその王座に君臨していないか。主に王座を明け渡し、全き主のご支配のうちに、今週も祝福溢れた歩みが与えられますように。。


「お話ください。しもべは聞いております。第一サムエル記2章10節」聖書




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