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光*第一サムエル記2章12〜36節


晴天の爽やかな聖日。感謝します❤️

礼拝の中では、この春3週目の転入会式がありました。転入される兄姉のお証もとても恵まれました。神様が選ばれるお一人お一人に、定められた時、ご計画のうちにみことばを語りかけられ、また必要な人との出会いを与え、隅々までその道にご配慮くださり導かれるということを改めて思わされたことでした。この春、このように恵みのうちに導かれてこられた転入されるお一人お一人を心から歓迎いたします。


みことばは第一サムエル記2章12〜36節より「誰が仲裁に立つだろう」と題してメッセージ。

祭司エリの二人の息子の無法ぶりが書かれている箇所ですが、これを読むときに、親の教育について、失敗した子育てとして語られることが多いところです。しかし果たして、それだけなのか。もちろんエリにも落ち度はあったかもしれませんが、聖書は100%そうだとは書いていない。どんなに完璧な教育をしたとしても、同じであったのでは。つまり、そこに主のお心があった、ということを私たちは注目せねばなりません。

❶悔い改める心が与えられているうちがチャンスである

12節に、このエリの息子たちがどのような者であったのかということが書かれています。

「エリの息子たちは、よこしまな者たちで、主を知らなかった。」

よこしまとは、無価値・邪悪。さらに、主を知らなかったとは、神を本当の意味で信じておらず、救いを受けていなかったという意味です。

これには驚きます。

この二人の息子たちは、父エリの祭司職を受け継ぎ、奉仕をしていました。今でいえば、牧師というところでしょう。当時は、神と人の間に立って執りなす仕事であった訳です。その祭司として任じられたはずの二人が、神を知らなかったというのは、一体どういうことでしょうか。

この二人の息子たちは、律法を全うするのではなく、自分たちの思いを優先して身勝手な奉仕をしていました。神との間に個人的な交わりのない、主を恐れない彼らがリーダーとなるということは民にとって大変な悲劇でありました。


このホフ二とピネハスという二人の息子たちの様子が13節から17節まで書かれていますが、主が定められた律法に従わずに、欲のままに行い、神を侮る姿が記され、それが神の怒りを引き起こしたことを見ます。

マルコ3章28ー29節にはこのように記されています。


この、「聖霊を冒涜する」とは、救いに至る手段を冒涜する、その手段を無視することであると学びました。そして

サムエル記2章25節において

「『人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。』しかし、彼らは父のいうことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主の御心だったからである。」と書かれています。

恐ろしいことです。祭司エリも真剣に注意した。しかし、息子たちは聞く耳を持たなかった。そこに神がお心を示されたということ。


ローマ書には


悔い改めのチャンスを拒絶し、欲に引きずられていく人に対しての神の裁きが記されています。


伝道者パウロが情熱を持って記した手紙において

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど、神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」と記していますが、

神の提供してくださる救い、その豊かな寛容ゆえの愛を冒涜し、受けいれようとしないならば神の御怒りとしての裁きを受けることになるのです。


しかし、諦めずに、先に召された私たちは、この主の愛を語り、また祈り求めてゆくことの大切さ、わたしたち自身もよくよく自分を調べて、主の望まれる道を歩むことを示されたことでした。


❷人を重んじるのか、神を重んじるのか。

27節以降、エリの家に対する神の裁きが語られ、29節で、

「なぜ、あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじたのか。」と神様の叱責の言葉があります。エリが責められるべき点はまさにここにありました。

サムエル記4章18節には

「エリは四十年間イスラエルをさばいた。」と書かれています。

エリには人をさばく権威が神様から与えられており、、それゆえに、たとえ自分の子どもであったとしても、厳しくその罪を問い、悔い改めに導くべきであった。しかしそうしなかったということは、エリは神様を愛するよりも、自分の息子を愛したということだったのです。


私たちも、神様の前に、どうだろうか。神様よりも、人を、それが家族であっても友であっても、重んじることはないだろうかと、自問自答する。もしも天秤にかけることがあるならば、迷わず神様を選ぶ、そのような信仰を求められていることを思いました。


「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、

わたしをさげすむ者は軽んじられるからだ。」第一サムエル記2章30節


別の箇所には、「わたしを尊ぶものをわたしは尊ぶ」というみことばがあります。

力強く生きて働かれ、私たちをじっと見つめておられる神様を見上げその愛に応える者でありたいと願わされたことでした。


❸暗闇の中に光の存在であるサムエル

今日、私はこのメッセージを聞いて、本当に心励まされました・・・。

このサムエル記第2章後半は特徴のある書き方がされているということ。

ホフニとピネハスの悲しい記事が書かれている随所随所で、それが中断されるように、

小さい幼子サムエルのことが、短く挿入されているというのです。


よく見てみると、本当にそうです。説教の中では一つ一つが紹介されませんでしたが、

今聖書を開きながら、見てみると、

18節「さて、サムエルは亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。」

26節「一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」

そして35節〜36節は、サムエルについての預言。


この記事は、祭司エリと息子たちの話を一つにまとめて書いてもよかった。しかし、あえて、途中、途中に、幼子サムエルについての記事が挟み込まれているということ。


それは、「サムエルにこそ希望がある」ということを意識して記されているという事です。

ホフニとピネハスの暗い行動の合間に幼いサムエルが日に日に成長している様子が描かれている。

「神様の働きはいつもドラマティックな形で行われるとは限らない。日常の小さなことの積み重ねが、やがて花開いていく。それも、神様のお働きなのだ。」と言われた説教者がいるそうです。


小さなサムエルを神様が育ててくださった。このサムエルの成長の記録が「神はここにおられる。」「神はここでも働いておられる」とささやく役割を果たしているというのです。


この時のイスラエルが深い闇に包まれていたように、私たちも今苦しみや試練、コロナ禍、様々な悩みの中にあり、落胆させることの多々ある状況があります。でも、そんな中でも

同時並行で神様の働きは進められており、私たちの希望に繋がる動きが起こされているということです。目立たず微々たるものかもしれませんが、でも神様は確実に働いてくださっているということ。


35節で「わたしは、わたしの心と思いの中で、事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。」と神様が言われています。

堕落していた祭司制度のもとにあったイスラエルを主は憐み、ご自分の栄光のために、導き続けてくださった。


聖霊の働きを無視したホフニとピネハスはやがて、その罪ゆえに裁かれ、死を迎えます。彼らが取り除かれることによって、イスラエルは守られ、祝福されていきました。


私たちが寝ている時も、まどろむことなく、私たちを守り、祝福してくださる神様。今は小さな光かもしれませんが、暗闇は光に勝つことができず、闇は光の前に消え去っていくしかない。光の働きはすでに始まっており、圧倒的なその光によって暗闇は覆われてしまう時が来る。


この神様に望みをおき、期待し、また神様に悔い改めを導かれるなら、主の前に悔い、そしてあゆみを成してゆくものとされたいと願わされたことでした。



今日もCSはのびのび楽しく過ごしました。美味しい宝探しゲームをしたり、聖書のお話は雲の中に帰られたイエス様。

そして、工作は牛乳パックで作った飛行機に思い思いの絵を描いてビューン!と外で飛ばしてみました!😍お天気も良く、楽しかったね!


最初のお花は、お花を愛する教会の婦人からいただいたクリスマスローズ。大好きな花です!!!!感謝❣️以前に育てたことがありますが、自然に鳥が落としていった種から育ったクリスマスローズの方が、すこぶる育ちがよく、自然てすごいなあ!と感動したことがありました・・・。このクリスマスローズも立派です。お庭で咲いたものだと思いますが、素晴らしい・・・。

手前の蘭の花は、歩いていたら、ご近所のご婦人が呼んでくださり、いただきました。一生懸命育てられたランをチョキチョキ・・・申し訳なかったですが、素敵な色に惚れ惚れです。

鶯が泣いているかと思ったら、もうツバメがビュンビュン飛んでおり、

紫陽花も咲いていたり、お花も鳥も大忙しの春です。


さあ、今週も主が豊かに憐み、支え、導き、助け、祝福してくださいますように❣️


「この方に信頼する者は、誰も失望させられることがない。ローマ10章11節」聖書

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