
朝からギラギラ太陽!ひまわりも元気いっぱい咲いています。
礼拝の子どもタイムでは「祈りについて」まき先生からお話を聞きました。
第一ヨハネ5章14節
「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」
私たちの天のお父様は、御心にかなう願いをするときに、それを聞いてくださる。優しいお父様であることを覚えました。
日曜学校のみことばは、第一サムエル記12章サムエルさんの告別説教の箇所から。暗唱聖句は「ただ、主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。」第一サムエル記12章24節です。工作はわーお、珍しい飛行機ですよ❣️Ring Wingsという飛行機だそうです!お外で飛ばしたら結構遠くまで飛びました✨工作大好きの皆です!
礼拝は第一サムエル記16章より「主はこころを見る」と題してメッセージ。
❶語らなければならないこと、語らなくても良いこと。
1節で神様は、すっかり気落ちし落胆しているサムエルに語られました。
「いつまであなたは、サウルのことで悲しんでいるのか。」と。そして「角に油を満たせ」と言われたのです。サウルが神に従わず、神の御心を損なって退けられたことにサムエルは心を痛め、悲しみでいっぱいでした。サムエルはサウルを軽視したことはなく、むしろ彼が御心に戻れるようにと祈っていたからです。

そんなサムエルに神様は、「私の心に合う新しい王に油を注ぎ即位させよ。あなたは、預言者としての働きをしなさい」と語られたのです。
偶像に仕える預言者たちとの対決で大勝利したエリヤが、アハブ王の妻イゼベルから「明日の今頃までにお前の命をとる」というようなことを言われ恐ろしくなり、山奥に逃げた記事が第一列王記19章に記されています。ここで、疲れ切って死を願うエリヤに神様は臨在を表し、食を与え励まして、もう一度「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と声をかけ、
新しい使命を与えられました。
エリヤは主のおことばに力を得て、新しい働きへと遣わされていきました。
神様の前に私たちも、無用な人、不要な人は一人もいないということをもう一度覚えます。
若い時のように、元気な時のように奉仕もできない。できないことが増える中で、自分はもう不要なのではないか、迷惑をかけてしまう存在なのではないか・・・。そのように思い
落ち込んでしまうこともあるでしょう。
しかし、主は、すべての奉仕の中で一番大切な奉仕「祈り」を与えてくださっている。
また、その敬虔な姿を通して周りの聖徒に祝福ある歩みを証する使命をも与えてくださっている、ということ。
神様は、常にそのように私たちを励まし、支え、新たな使命に立たせて遣わしてくださる。そのような恵みをあらためて示されました。
2節において、サムエルが恐れたことが書かれています。現役の王サウルがいる中で、サムエルが新しい王を任命などと言ったら、サムエルは怒るサウルに殺されてしまうのではないか・・・と。神様はサムエルに、「主にいけにえを捧げに行くといいなさい。」と言われました。一見それは「偽り」ではないのですか?と首を傾げてしまう箇所です。
しかし、これは、すべてを話さずとも良いということ。余計なことを言って言葉で失敗するということが多い中、聞かれてもいないのに話したことにより墓穴を掘る、そんな危険に身を置かず、余計なことは言わない、そして語るべきことは僅かであるということも知るのです。
❷神の主権による選び
サウルは主の命令に従い、ベツレヘムに向かってそこで、エッサイを祝宴に招きます。
エッサイは七人の息子を預言者サムエルの前に立たせました。
サムエルは長男エリアブを見たときに、「きっと主の前にいるこの者が主に油を注がれる者だ」と思ったと書かれています。(6節)
これまでサウルが選ばれた過程を思い返すとこれは当然のことだなあとメッセージを聞きながら思いました。
サウルは家柄もよく、背も人の肩より上高く、そして美しい青年でした。そのように王が選ばれていった流れから、サムエルが、この容姿が素晴らしい長男がまさに次の王なのだと思ったことは自然なことであったように思えました。
しかし、主が言われたのです。
「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(7節)
そのようにして、これぞと人が思うような次男も、三男も・・・すべて七人のエッサイの子どもは退けられていったのです。
おかしいな・・とサムエルは思ったことでしょう。「エッサイを祝宴に招け。わたしがあなたのなすべきことを教えよう。あなたはわたしのために、わたしがいう人に油を注げ。」神様がそう言われたのです。
そこで、このことばです。「子どもたちは、これで全部ですか?」
エッサイの家に置いて、ダビデはこのような位置だったに違いありません。あるお母さんと先週お話しをしていて「みそっかす」という言葉を聞きましたが、きっとダビデも、そんなふうに思われる立場だったのかなと思います。
「シンデレラのお話のようですね」とメッセージでも語られましたが、次々とサムエルの前に息子たちが呼ばれていった。しかし、八人目のダビデは、父親のエッサイから、お前は兄さんたちの代わりに羊の番をして待っていなさいと、その場に呼ばれることもなかった。
人から追いやられたダビデが、次の王に選ばれていた器であったこと。
「なぜ、ダビデが選ばれたのか?」
それは「神が心を見られたから。」
神は「心」を見られる方。
神様は私たちの心の状態をよく見られて、それを喜ばれたり、悲しまれたりする。
私たちの神は「心」をご覧になられる神なのです。
それでは、ダビデの心は綺麗だったのかというと、彼も罪を持っていたこと、王となってから主の前に罪を犯したことも書かれています。しかし、神様は彼の「神様に対する心」をご覧になっていたということ。
神様がこの心をとても大切に見られる方であることは聖書の中に多く書かれています。
そのうちの幾つか、あげられました。
山上の説教では、「心の貧しいものは幸いである。」
また詩篇の51篇17節には「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ。あなたはそれを蔑まれません。」
ミカ書6章8節には「人よ。何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのか。それはただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか。」
「心」がどこに向けられており、どんな状態なのか。深く関心を持ち、じっとご覧になる方が、ダビデを御心にかなうと選ばれたこと。
この「選び」は救いについても言える事であり、私たち一人一人の聖徒は、立派だから真面目だから、誠実だから、と主に選ばれたのではない。この心を見られる神様の一方的な憐みによって一人一人が主の救いに導かれていることを、主の恵みをもう一度思わされました。

パウロは自分のことを「罪人のかしら」と言いました。この第一コリントの1章26節から28節までの主の恵みは、一言で言うと、「憐み」と語られました。
救ってくださった神。愛し、慈しみ、尊んで、選んでくださった神の愛を覚えます。
❸神の御力によって
13節で、「主の霊がその日以来激しくダビデに下った」と書かれています。
私たちは自分の能力を見ますが、神様は、よくその限界をご存知で、「ならば、わたしに頼れ。」と言ってくださるお方。私たちは恐れず、落胆する必要もなく「神の霊に満たしてください」と主に近づき、祈っていくことが許され、また求められていると言うこと。
今週も憐み深い主に頼り、主の霊に満たされる日々でありますように。
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」ゼカリヤ書4章6節 聖書
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