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「みことばをください」✴︎ルカ11章33〜36節



お天気の良い一日。今日は午後「君もお餅を食べる会?」を開催しました。子どもたちとつきたてのお餅を食べ、福笑いやゲーム、賛美、聖書のお話を聞き、楽しいひとときでしたね。おもちはあんこより、意外にお醤油やきなこが人気でした😁大人は大根おろしが好評?!また来年も楽しみです❤️


礼拝のメッセージはルカ書の講解説教で「あなたの中にある光」と題して語られました。

❶明かりに例えられている物は何か?



マタイの福音書にある山上の説教でイエス様は「あなたがたは世の光です。」と言われました。この時イエス様は、ご自分のみことばを聞く人々に対して光だと言われましたが、このルカ書のみことばは、イエスさまご自身が光であると言われているのだと語られました。


ヨハネ5章36節にはこのようにあります。

「わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証しているのです。」

イエス様が行われたわざとは、このルカ書を学ぶ中で見てきましたが、悪霊を追い出されたり、病の人を癒されたり。。イエス様はそのようなわざを通して、ご自身を証されて来たのでした。それを密かに、知られないようにして行われたのでなく、多くの場面で、大勢の人々がいる前で御わざを成されたのです。


イエス様はそのようなしるしを行われ、みことばを語ってくださりながら、聴衆に向かい「これ以上の天のしるしがあるだろうか」と問われているのです。

「イエスとは何者なのか?」「メシヤなのか?偽物なのか?」多くの人々が疑い見る中で、イエス様はみわざを行われたわけですが、理解することができないなら、光であられるイエス様にではなく、その「光」を見ている者の「目」に原因があることになるのです。


34〜36節において、イエス様は「体の明かりは目👁️です。」と言われました。

どんな意味があるか。それは目が持っている機能を指しているのではと語られました。

目は光を認識する器官であり、目が悪くなると光をしっかりと捕らえることができずに、見え方が悪くなって行くのです。イエス様はここで肉体の目について言われているのではなく、心の目について語っておられるのです。

イエス様を見る目。イエス様の御わざを見る目。目が健やかであれば、イエス様のなされるわざを見る時に、イエス様が救い主であられることを理解することができるのです。

イエスさまは、邪悪な悪い目でイエスさまを見るのではなく、健やかな目、つまり、物事に対してその真実を真っ直ぐ見る目をもって、イエス様を見なさいと言われているのです。

疑い深い批判的な目ではなく、偉大な御わざを真っ直ぐに見なさい、と。


11章29節でイエス様は「この時代は悪い時代です。」と言われました。2000年前に言われたのです。その中にこの現在の時代も入っており、ますます悪くなってゆくと聖書は預言します。

この「悪い時代」の中で私たちが「健やかな目」を与えられたということはなんと幸いなことか。かつては「悪い目」でした。私たちの目には覆いがかけられていて、イエスさまを知ろうとしても覆いがあって、見ることができなかったのです。

しかし、神様によってその覆いが取り除かれてイエス様を知ることができた。救いの選びに入れられて、健やかな目を与えられたことは何と感謝なことでしょうか。


❷健全な目を守りなさい。


35節でイエス様はこのように言われました。

「自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。」と。

これは命令形で書かれています。自分の心を、目を凝らして見張りなさい、と。

外敵がやってきたら取り除くことができるように、私たちは注意深く心を見張っているでしょうか。

この時代、スマホの中にも悪い情報が、見たくなくても目に入ってきます。耳から、目から入ってくる悪を放置しては、心を健やかに保つことはできません。

世界中で人気となった子ども向けの映画があります。あらゆる魔法が出てきて子どもたちや大人までも釘付けにするようなストーリーが展開されて行くのですが、ある先生が、その映画のシリーズの中に「暴力を振るっていい」というメッセージがサブリミナル効果として含まれているのだと指摘されたことが語られました。私たちは、外から入ってくる情報をすべて無意識うちに受け入れてしまいやすい。しかし、そのように入ってきてしまうものをどうやって精査し、浄化してゆくのか。無防備にならずに、心を守るにはどうしたら良いのか。

その基準は「神のみことば」なのだと語られました。


ヘブル4章12節にはこのようにあります。

「神のみことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」


神のみことばは生きていて、死んでないのです。

神の御言葉は力がないのでなく、力があるのです。

魂と霊、関節と骨髄を分けるように、心の思いやはかりごとをシャキーン✨と教えてくださる。

私の良心や価値観がこう思うのだからいいではないかという思いが出てきてしまう、そのような私たちの心を守るのは「みことばを蓄える」この一事に向けられるのだと。


御言葉にある「光」が私たちのうちにある「光」を点検してくださるということ。


イエス様は「医者を必要とするのは病人です」と言われました。

私たちは身体のどこかが悪くなると、治りたいゆえに医者を探します。

しかし、自分の身体が悪くないと思い健康だと思えば、医者を必要とはしません。

同じように、神のみ言葉が自分に必要だと感じている人は、神様のみことばを求め、

神様のみことばは必要ないと思う人は、たとえ神様のみことばが語られたとしても、それを聞こうとはせず、関心を持つことはできないのです。


また、イエス様のみことばに関心を持たないのは、まだ救われていない人に限らず、キリスト者であっても、信仰者であっても、そのような姿勢でいるということがあるのです。だから、私たちは自分の心を見張る必要があります。

「主よ。御言葉をください」と願い続けるのです。求め続けるのです。


肉である私たちは、以前は、神の言葉を求めることに積極的ではなかった。しかし、イエス様が心に入って下さり、聖霊様が生きてくださるようになり「神様の御言葉をもっと聞きたい」と願うように変えられたのです。


聖霊に満たされるとはどのようなことでしょうか。

それは「神様のみことばなくしては生きていけませんから、私に御言葉をお語り下さい」と神様に求めることです。

かつて大衆伝道者として世界中を宣教されたビリーグラハム師は、家に来る客人にこう言ったと言います。

「兄弟、私にみことばを下さい。」

素晴らしい説教者であるビリーグラハム師にそのような言葉をかけられた客人たちは、驚きつつも、自分に与えられたみことばを分かち合いました。ビリーグラハム師はそのみことばと証をニコニコしながら聞き入り喜んでいたそうです。


神のみことばに飢え乾き、常にみことばが欲しいと、みことばを読むこと。それは結果的に、私たちの心、目をすこやかに保ってゆくことになるのです。


御言葉と共に歩む一日一日でありますように。


「私はあなたの御言葉を心に蓄えます。

あなたの前に罪ある者とならないために。詩篇119篇11節   聖書」



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