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「じっくりゆっくり黙示録4講解説教」✴︎ヨハネの黙示録1章9〜21節



銀杏や落ち葉を見つけますます秋を感じる今日この頃です。パッションフルーツの実も少しずつ大きく成長し・・・「実を結ぶ人生」。植物からも教えられる今日この頃です。☺️

日曜学校でもまき先生からお話を聞きました。「水戸黄門」が出てきたり🤭、皆で笑いながらも礼拝での黙示録のお話がより理解できるようにと、わかりやすいお話でした。

午後は子どもお楽しみ映画会。ポップコーンを食べながら、スーパーアニメブックを大画像で観ました。ちょうど黙示録に関係するダニエルさんのお話で、ネブカデネザル王の見た夢がわかりやすく描かれていて大人にも勉強になりました。

さて礼拝の御言葉は「右の手に七つの星を持つ方」と題して黙示録より。


先週までの三週にわたり「黙示録1章1〜8節」より、黙示録の序論を学びました。

今日からいよいよ本論に入っていきますが、ヨハネは今置かれている状況と場所を記すところからスタートしています。

ヨハネがこの手紙を書いたのはパトモス島です。どんなリゾートかと思いますが、とんでもない。この島はとても住めるようなところではなく、流刑地ですから、環境は最悪であったことが予想できます。ヨハネはなぜ自分がここに置かれているかを説明しています。


迫害にあい島流しにあったこと。それは神の言葉を証したゆえである、と。

当時は第11代皇帝ドミティアヌスの治世でした。彼は自らを「主にして神」と人々に呼ばせ、皇帝礼拝を民衆に強いた暴君でした。キリスト者は人に向かって神などと決して言いません。したがってこの皇帝の命令に背く彼らは断罪され、教会の指導者・使徒の一人としてその信仰を証したヨハネは迫害の標的となり捕えられパトモス島へと送られたのでした。


9節において、ヨハネは自分自身を「あなた方の兄弟」と記しています。自分を指導者とか牧師とか言わずに、迫害下にあって殉教の死を遂げるキリスト者も多くいた中、全てのキリスト者に対して、私はあなた方と同じ神を信じ、それゆえにパトモスにいてあなた方と同じ苦しみの中にいるのだ、と綴るのです。自分だけ安全ゾーンに隠れているのでなく、真実なる神の御手に委ねての今、私なのだと。そしてイエスキリストが見せてくださった幻を語り始めるのです。


❶苦難と御国と忍耐は1セットであるということ。

この元々の言葉を見ると、この三つの言葉は一つの冠詞の元に並べられているのだと語られました。この御国と訳される言葉は6節で出てきた王国という言葉と同じだということです。

イエス様を信じるものは、この王国に入れられ国民の一員とされるということ。喜びと期待が与えられます。しかし、同時にそのような私たちには、苦難と忍耐が日常に起こってくるというのです。

この事実はヨハネが初めてここで明かすことではなく、イエス様もパウロも語りました。

「最後まで耐え忍ぶ人は救われる」イエス様はそう言われました。現実には苦難が訪れ、忍耐が必要となるということ。

 人は自分の益になると思うなら、それを切に求めます。ところが一転して自分に不利益なことが起こるなら、それを避けて通りたいと切望するのです。ご利益宗教はそんな人間に「あなたが信じて沢山献げるなら、あなたにとっていいことが起こりますよ!」と働きかけます。ご利益。その本質は自分本位なものです。自分が得をするなら・・とあくまでも自分が主体です。

 しかしキリスト教信仰は「私」でなく「神」が主体なのです。

聖書は、創世記において神がまずおられ、この神が世界の全てのものを造られたと教えます。神様は神様の栄光を表すために全てのものを造られたのです。

 私たち本位ではなく、「神」が中心であり、神の御心がこの世界にあって行われてゆくのだということ。

 「神様の御心と自分の思いが合致するとき」に、それは喜びとなり、幸福感を味わいます。しかし「神様の御心と自分の思いが違う時」は忍耐が求められるのです。

 時の権力者ドミティアヌスが「私を礼拝しろ」と命じた時に、当時のキリスト者たちはそれに抵抗したため、迫害を受け大きな苦しみに遭いました。なぜか。それは神を知り、信じたゆえです。自分のため、ではなく、神のために生きているか。ヨハネはまさにその筆頭としてこの時を生かされていたのでした。


ヨハネとヨハネの言葉を通して、神を信じ迫害と苦しみの中にある人々に神様は何を備えてくださっているか。どこに導いてくださるのか。それが幻という形で語られていくのです。

ヨハネは10節で、声を聞いた時に、ラッパのような大きな声を聞いた、と記しています。

それは15節でイエス様の声であることがわかります。

信仰を持ち、苦難の中にあるときに、大変だけれども、たとえ、苦しみゆえに神様を見失ったと思ったとしても、神様はそれをひっくるめて全部ご存じで、不思議なことに苦しみの時にこそ、神様を見ることができ、慰め励ましの神をより近く感じることができるのです。

ヨハネがそうであったように・・・。


❷私たちは恐れることはない。

12〜16節において、ヨハネが振り返った時に見た光景について書かれています。

ヨハネがまず見たのは七つの燭台でした。これは「教会の存在」であると語られました。

なぜ燭台かというと、燭台は光を灯すために用いられます。「教会がキリストの光・福音の光を放つため」あるということ。この暗い時代にこそ教会はキリストの光を照らすのです。


そして、その七つの燭台の真ん中にイエス様がおられました。「人の子のような方」と13節に書かれています。これはイエス様が人間と同じということではありません。ダニエル書7章13節に「人の子のような方が天の雲とともに来られた」とありましたが、この人間の歴史の中で、次々と誇り高ぶる王がおこり神様の前に裁かれ滅んだ後に、イエス様がついに来られ、永遠の国において主権と栄誉をもって治める王であると書かれているのです。


ここで、記されるイエス様のお姿は、祭司を思わせるお姿です。13節「その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた」とあります。聖く美しく高い位にあられるイエス様のお姿です。

14節には「その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く」とあります。

白は聖さの象徴であり、年を経たこと(弱々しさはなく)で白髪を表し、知恵や威厳を表していると語られました。

「目は燃える炎のようであった」とは、眼光が鋭く、全てを見通す目。罪や汚れを焼き尽くす火の象徴です。

15節の「その足は炉で精錬された、光り輝く真鍮のようであった」の真鍮は当時は武器によく使われていた硬い材料であり、足は力強いこと、同時に美しく、聖いことを表しているのだと語られました。

「その声は大水のとどろきのよう」と書かれています。

はじめに出てきたラッパのような大きな声、です。パトモス島に打ちつける大波のとどろきを超えるような力強い声であったのでしょう。

16節には「右手に七つの星を持ち」とあります。この星とは20節から「七つの教会の御使いたち」であることがわかります。2章1節を読むと、「教会の御使いに書き送れ」と書かれています。

これから書かれることは七つの教会とそれぞれの教会の御使いに書き送れと言われているのです。


これはどういうことか。これはおそらく、教会を守り、教会を助ける「天的な存在」のことを語っていると思われると語られました。地上の教会は天との繋がりがあり、天的な神の助けで成り立っているのだ、と。

イエス様は地上のみでなく、天を支配されている方であるということ。

16節には続けて「口から鋭い両刃の剣が出ていて」とあります。

口から両刃の剣とは、一瞬戸惑いますが、これは言葉の強さ、剣のような言葉という意味だと語られました。ヘブル4章12節にはこのようにあります。

「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます」

 私たちは御言葉を読むときに、励まし慰めを受けると同時に、刺されるのです。神様は私たちを見透かしておられ、不誠実な歩みをしているときに、御言葉を通してそれを示してくださるのです。子育てについても同じですねと語られました。よく褒めて育てることの重要性を聞きます。しかし褒められてばかりいる子は人からの非難に弱いということも否めません。自分は良い子だけれども、悪い面もある。そういうことを親から指導されながらきづいてゆくことが必要です。褒められつつも的確に修正される、ということは成長にとって非常に大事なことなのです。

 これから2章を学んでいきますが、イエス様は、教会をほめる一方で「初めの愛から離れてしまった。初めの愛に戻れ」と叱られるのです。この声に聞き従うときに、本当の意味での成長があります。

 最後に「顔は強く照り輝く太陽のようであった」とあります。

イエス様が十字架にかかられる前に、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登られたこと(マタイ17章1〜9節)が語られました。ここでは「弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった・・・・」と書かれていますが栄光に輝くイエス様のお姿を見た時「弟子たちはひれ伏した。そして非常に恐れた」のです。

 つまり、ヨハネにとってこのような「栄光のイエス様のお姿」を見るのは2度目であったのです!黙示録の1章17節に戻ると、ヨハネはこの時「死んだ者のようにその足元に倒れ込んだ」と書かれています。イエス様のあまりの輝き、美しさ、きよさ。麗しさ、崇高さに圧倒されて耐えられず倒れたのでした。もう立っていることはできなかったのです。

 イエス様の臨在に触れるとはこういうことなのだと語られました。


 私たちのイメージでは、イエス様は優しくてどんな者も受け入れてくださる愛のお方。しかし、もしイエス様の、神様の臨在に触れられる時に、私たち人間はひたすらに自分自身の小ささ、罪深さを見せられ、心の中にある醜さを見せられるのです。

 イエス様の本当のお姿は、私たちが馴れ馴れしく呼びかけたり近づけるようなお方ではない、ということを知らなければなりません。だからこそ、イエス様自らが近づいて私たちのところに来てくださるのです。

 17節後半に、倒れてしまったヨハネに対して「その方は私の上に右手をおいて言われた。『恐れることはない。・・・』」とヨハネを励まされました。

 さらにイエス様は「わたしは初めであり、終わりであり、生きているものである」と言われました。アルファでありオメガであると言われた神様と同じ言葉であり、これは神様と等しいお方であり、全ての主権者であられるということを表されているのです。

 「死とよみの鍵を持っている」とイエス様は続けられました。

よみとは死者がいるところであり、鍵を持つとは、死とよみの間を自由に出入りする権威をお持ちであるということです。

 当時のキリスト者たちは厳しい迫害下にあって、困難と苦しみを覚え不安に押しつぶされそうになる日々でした。しかし、死や「よみ」が最終的な権威を持つのでなく、それよりはるかにまさる主権を持っているのはイエス様であることを知るならば、妥協することなく恐れる必要もなくなったのです。

 現代を生きる私たちにも様々な困難・課題・プレッシャー、ストレスと感じることがあります。しかし、この力強い主が共におられることを知るなら、このイエス様が、歴史を支配し、時を支配し、死もよみも支配しされる圧倒的な支配権を持っておられる方であることがわかれば、私たちは、そして教会はただ、この方を見上げ、信頼し、従ってゆけば良いのだということ。大きな励ましです。


 ❸教会の中心におられるイエス様

イエス様は19節でヨハネに「書き記せ」と命じられました。

ヨハネはイエス様が見せてくださったことをこの黙示録に丁寧に余すことなく記していきます。イエス様が七つの教会に送れと言われた、つまり七つの教会が表す全てのキリストにある教会、に語られた御言葉を私たちは読んでゆくのです。

  そして大切なことは、私たちが「栄光に輝くイエス様」を正しく仰いでいるかであると語られました。

 イエス様は一度目は、貧しい小さなお姿で生まれ、しもべの姿を持ってこの世界に来てくださいました。しかし、今。復活して天に昇り輝く栄光のお姿でおられます。ヨハネのように、そのようなイエス様を見たら、もう立っていることなどできず倒れ込んでしまうようなそのようなお方です。このイエス様を仰いでいきたいです。

 また、このイエス様こそが、今教会の真ん中に居られるということを覚えるべきだと語られました。

 七つの燭台🟰教会、のまんなかにイエス様は立っておられました。

 つまり、教会とは、キリストが真ん中にいてくださるところ、なのです。

 一見昔も今も教会は、それほど輝いていないように見えるかもしれない。しかしそのような地上的な目線でなく、天の視点で見るときに、礼拝を捧げるこの姿は神の目から非常に素晴らしい、天的な礼拝であるということ。

 イエス様は、この教会の真ん中におられるだけでなく導いて養ってくださるお方なのです。


キリストは祭司のようなお姿だと、ここまで見てきました。祭司の仕事は昔神殿で「燭台の光が消えないようにランプの芯を削り、整え、油を満たし、明かりが灯るように世話をする」ものでした。これから学ぶ黙示録2〜3章において、イエス様が七つの教会それぞれに、褒めたり、叱ったり、励ましてくださったり、警告されたりするのを見ます。

イエス様はいつもいつもそのようにして、教会を世話し、教会がこの世界にあっていつも光を放つことができるように整え、導いてくださるのです。


燭台の、つまり教会の真ん中にいてくださるイエス様。いつも私たちは天の視座をいただき、感謝し、このキリストを見上げ、悔い改め、成長させられたいです。


「みよ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。マタイ28章20節 聖書」

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