暖かな一日。今日は礼拝後大掃除をしました。小さいお友達も一生懸命お手伝い。草取りから教会の外壁、お部屋も隅々まで、心を込めてお掃除しました。クリスマスツリーも飾って準備もできて、皆でお菓子やシュトーレンを食べて帰宅。☺️
これからクリスマスまで、主の御降誕を待ち望むアドベントのひとときです。
礼拝は「冷たいか熱いか」と題して黙示録3章より。
これまでの教会に加えて最後の七つ目の教会となる「ラオディキア」の教会は現在のトルコにある町だそうです。フィラデルフィア教会よりも南東へ75kmほどのところにある町です。
ここは当時は交通の要所で、金融業や毛織物業が盛んであり、有名な医療の学校があり、目薬が特産品であったそうです。
そんなラオディキアにあった教会はどんな教会であったか。実はこの教会は先に出てきた六つの教会よりも最も霊的に危機的・破壊的な状況にあった教会だったと語られました。
他の教会はイエス様からまず褒め言葉があったりしますが、この教会においては、手紙の初めからイエス様は責められているのです。しかし責めるだけでなく、イエス様がこの教会を励まし、手紙を送っておられることに心を留めたいと思います。
❶ラオディキアの教会の問題
15・16節でイエス様はこの教会について「生ぬるい」と指摘されています。
そして「熱いか冷たいかであってほしい」と言われるのです。
このラオディキアの町の北にはヒエラポリスという有名な温泉の町がありました。
また東にはコロサイという町があり、ここは冷たい水が湧き出る水源がある町でありました。ラオディキアは水を得られるところがなかったので、この水資源の豊かな二つの町からのパイプラインで水を得ていたのですが、熱かったり冷たかったりする水も、ラオディキアの町に届く頃には生ぬるくなっていたとのことです。そのような町の状況をかけてイエス様は彼らの信仰を語られたのでした。
イエス様は熱くあってほしい、熱心であってほしいと願われました。私の信仰は冷たいか・熱いか、生ぬるいのか。イエス様はどっちつかずの曖昧な信仰でいるラオディキアの教会の人々に、イエス様との関係において熱く親しい関係にあるように、そこにとどまるようにと願われたのです。
ラオディキアの教会の人々の状態はどんなものだったのか。
確かに彼らは毎週教会へ通っていました。しかし、彼らは「イエス様の満足」を思うのでなく「自分の満足」🟰自己満足で信仰生活を生きていたのです。
17節には「あなたは自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っている」とあります。そんな一見豊かで生活にも大満足、【自己満足】の姿の彼らは、実はイエス様の目には「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸」(17節後半)であったのです。
ラオディキアの町はAD60年に大きな地震がありました。ローマ皇帝は他の町に人的・物質・経済的支援を命じましたが、ラオディキアの町はそれを断り、自分たちは他の町とは違って財源も力もあるから自分たちだけで立ち直ると、町を建て直していったのです。彼らには自信がありました。
そのような豊かな、ほしいものはなんでも手に入る、力のある人々・生活の中で、いつしかプライドが町や教会を覆っていたというのです。
イエス様はそのような教会の人々を「吐き出したい」と言われました。
「良い教会」。それは、他の人や自分たちが良いと評価し、満足する教会ではありません。
自分たちのしたいこと、価値観に合わせて教会を作ろうとするなら、それをイエス様は「吐き出したい」と言われるのです。ならばイエス様が望まれる教会とは何か。
私たちが一番評価を求めるべきお方がイエス様であることを意識し、このお方のくださるお言葉に真剣に耳を開き、聞き従う教会なのです。
❷神の御前に豊かになるために
14節でイエス様はご自分を「アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方」と紹介されています。
「アーメン」とは「その通り」という意味です。そして「確かで真実な証人」この言葉は1章5節に対応していると語られました。
イエス様の語られる言葉は真実で、信頼できる言葉であり、そのイエス様のお言葉にしっかりと耳を傾けなさいと言われているのです。人を恐れず、神を恐れ、互いに罪を言い表す、真実な交わりをイエス様は願っておられるのです。
イエス様は「吐き出したい」と非常に厳しい言葉を使われました。マイルドな言葉で言っていては気づきがない私たちに対して厳しく語られているのです。
私たちはいつしかイエス様に対して「あなたはありのままでいいんだよ」といつも言ってくださると自分に都合よくあまいイメージだけを作り上げてしまいます。しかし「神による創造の源である方」(14節)が言われるのです。
「わたしはあなたに忠告する」と。
豊かな者になるために三つのものを買いなさいと言われています。イエス様はそれを「わたしから買いなさい」と言われました。自分は豊かであると自負していた彼らに、イエス様は、本当に価値のあるもの真実なものはわたししか与えることができないのだと、次のように例えて教えられたのです。
1️⃣金ー金融業が盛んであったこの町です。イエス様は、混じり気のない純金、本当の豊かさはイエス様から受けなさいと言われました。
2️⃣衣ー毛織物が盛んで良い着物を着ていると誇っている町でした。イエス様は、裁きの日に罪と恥があらわにされないために、白い衣ーイエス様の義ーをくださるのだと言われました。
3️⃣目薬ーこの町の特産品でした。自分たちの本当の姿が全く見えていない霊的に盲目であった彼らに対して、見えるようになるために、気づくことができるように、霊的視力回復のためにイエス様から求めなさいと言われました。
CSでもドアをノックするイエス様の絵を皆で見ましたが、イエス様は、このように、イエス様を締め出してしまっているような聖徒の心の外に立ってドアをノックし続けておられるのだと語られました。私たちが気づくまで、トントン・・・・とノックし続けるお方なのです。
❸勝利を得る者とされましょう。
21節には「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが、勝利を得て、わたしの父とともに、父の御座に着いたのと同じである。」とイエス様は語られました。
イエス様と共に生きる者を、イエス様は「あなたもこの座に座る」と言われました。
「王座🟰休む」ではなく、天国を相続し、共に治めてゆくということ、イエス様と同じ心で仕え治める者となる、ということだと語られました。
イエス様は「タラントのたとえ」の話の中で、与えられたものをもって忠実に仕えた者をさらに祝福されています。
「天国に行く」ということが目的なのでなく、「天国に入れられてイエス様と共に働き、その光栄に預かることを目指すこと」そのために「イエス様から信頼を受ける者となってゆく必要がある」ということ。それは「この世で私たちが一体どのように歩んだかということにかかってくる」ということが語られ考えさせられました。
「勝利を得る者」。今週も日々主の御声を求め聞き従う歩みとされますように。。
「わたしは愛する者をみな、叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。ヨハネの黙示録3章19節 聖書」
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