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「その機会に」*第一サムエル記28章

更新日:6月29日


ブラックベリーの実がつき始めてきました。去年の向日葵のこぼれ種からぐんぐん伸び続けている向日葵は、次々と花を咲かせ、見上げる毎に生命力の強さを感じさせられます。お花を育てるのが上手な姉妹が、牧師がお渡しした種からホリホックというピンクのお花を見事に咲かせて講壇のお花に飾ってくださいました。テッポウユリも紫陽花も同じお庭からのお花です。梅雨の時期ではありますが、生き生きと咲く花の姿に主を見上げるひとときです。


礼拝は「袋小路のサウル」と題して第一サムエル記28章より


先週は神から選ばれた人ダビデが、不安・恐れによって、敵地に逃げ込み神様の御心とは違う方向へ行ってしまった、しかし、そのダビデを見捨てず神様は共にいてくださったことを学びました。ところが、この章でサウルはどうであったか。ダビデとは違い神様から見捨てられてしまった姿を見るのです。


❶霊媒の女に頼ったサウル


1〜2節において、ダビデが、アキシュの元で信頼を得ようと、自分たちが襲ったアマレク人の村々の戦利品をアキシュに持っていき、それがイスラエルの村であると偽りながら窮地を切り抜けてきた結果、今度はイスラエルとの戦いへアキシュの護衛として任じられて出陣せねばならないという最大の窮地に陥ったことが記されています。


しかし、ダビデを愛され選ばれた主は、このピンチからダビデを救ってくださるのです。

それに反して、のサウルです。

「この戦いは主の戦いである!」と勇敢にペリシテ人ゴリヤテに立ち向かっていった戦士ダビデは、敵軍ペリシテについてしまいました。そのような頼もしい兵士はもはやイスラエルの兵士の中には見つからず、5節において「サウルの心は激しく震えた」と聖書は記しています。


そしてサウルなりに、神様に伺ったのです。いけにえを献げ一生懸命祈ったでしょう。しかし神様は

「夢によっても、ウリムによっても、預言者によってもお答えにならなかった。」と書かれています。


詩篇23篇で、ダビデはサウルに追われ、大変な窮地に追いやられる中でも「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主が共にいてくださるから・・」と恐れなく告白することができました。しかし、サウルはどうであったか。彼は「主は私の羊飼い」と告白することができなかった。

私たちも、苦しみ悩みの時に、「主は私の羊飼い」と告白することができるか。そう問いかけられました。


サウルがどんなに必死に祈っても、御心を尋ねても、神様は沈黙されるのです。↑映し出されたサウルの背中も空しく悲しく思えてきました。

聖書には「神は侮られるお方ではない」とあります。どれだけ日々の歩みの中で、神様と親しく交わりを持っているか、神様がその中で語ってくださっているか。そのことに重きを置いた生活を送っているかが非常に大切であること。

いつもは神様に対して、失礼で無関心で中途半端な態度をとっているのに、困った時にだけ、急に神様、神様と祈る姿を神様は喜ばれないということを知るのです。


サウルは長年神様が何を願っておられるのか知っていてもそれに聞かず、自分の考えを押し通してきて、突然ご利益のように「神さま!」と叫びます。私たちの主は憐れみ深い主です。しかし、自ら主とのパイプを断ち切っておいて、突然パイプをつなげてください、「助けて!」と叫ぶ姿はご都合主義そのものであり、私たちが求められている姿は「神様の御心が聞けるように日々神との関係を構築する」ことであり、それは積み木を一つ一つ大切に積み上げてゆくようなものであるのだと語られました。

そこに信仰の成長がある、と。


神様に応えてもらえないとわかったサウルは、なんと、霊媒師の元へ行ったとあります。(8節)

霊媒とは死者の霊を呼び出し、未来や物事の吉凶を語らせることです。聖書ではこれを神様が固く禁じており、申命記18章10節においても厳しく語られています。サウルはその戒めの通りに、自分自身で霊媒や口寄せと言われる人々を国内から追放していました。(3節)

それなのに、ここにきて自ら霊媒師を探させ、会うために変装して赴いていったのです。


ここで、沈黙の神について少し語られました。

神様との関係の中で、私たちは時に「沈黙を守られる神」を体験します。

聖書においても、例えばアブラハムは星空のように多くの子孫をあなたに与えると神様から約束されましたが、その約束から約25年・・・それが果たされる兆しもなく、年月ばかりが経ってどんどん歳をとり老人となり可能性から遠のいてゆく自分達夫婦を嘆き葛藤し、末にアブラハムとサラは自分達から行動を起こし悲劇も起こりました。


神が沈黙される時ーそれは私たちにとっては非常に辛い期間です。この時にいつも神を信頼しきって固く平安で立っていられるかというとそうではない現実もあります。

しかし、この時こそ、実は神様がキリスト者たちの信仰を練りに練って訓練し、御心に沿う器へと造り変えておられる期間であることを思うのです。聖められている期間であるように思うのです。

「神様の御心は神様の時に必ず成就するから、待ちなさい」そのように語られる主の元でへりくだり、主に明け渡し、信頼することを主が願っておられるということ。弱さの中で、本当に信仰があるのか、どのように主に向き合っていくのか、じっと見つめられているということ・・・・。


サウルは主の御心を求めることもなく、よって、自分の考えで動き、目先にあるもの、思いつくもの何でも、藁をも掴む思いで、すがって行ってしまった。そんな愚かな姿を見るのです。


❷神の御声に聞き従わないという行為がもたらすもの。

サウルが変装して霊媒師の女に頼んだことは「サムエルを呼び出してほしい」という願いでした。霊媒師とはそもそも、悪霊が装った死者の霊を呼び出し、それを自分の身に移させて語るものですが、ここで大変なことが起こって、霊媒師は驚いてしまいました。

本物のサムエルが出てきたからです。サムエルが身に宿って出てきたのでなく、サムエル自身が来たのです。通常起こり得ないことです。そして、女はこの依頼者が変装したサウルだと気付きます。


驚きを隠せない霊媒師の女に、サウルは咎めないと断った上で、誰が見えるのかと尋ねると、それがサムエルだとわかり、地に平伏します。

そのサムエルはサウルにいうのです。「なぜ私を呼び出して、私を煩わすのか。」

生前はさんざん警告して来た自分の言葉に耳を傾けることもなく、死んでから自分を呼び出す訳だからサムエルにとっては迷惑な話です、と語られましたが、なるほどそういう状況なのだと思いつつ、情景を想像しました。

面倒くさいなと嫌な表情で立つサムエルに構わずサウルは、必死で、この窮地においてどうしたらいいのか、と聞くのです。


そのサウルにサムエルは助言でなく、「神はサウルから去られ、王位はダビデに与えられたのだ。」とサウルとその一族に、裁きの宣告を与えるのです。

神が語ることを真剣に受け止めず、なんでも適当に自分に都合よく受け止め「アマレク人を聖絶せよ。」と言われたのに、自分のものとし、他にも主を侮る行為を繰り返してきた。自分の思いばかり優先してきて神に従う姿勢など微塵も持っていなかった、その裁きが、明日成されると宣告したのです。


神の愛と義は表裏一体であると語られました。神の宣告を真剣に受け止めず「罪から来る報酬は死です」とみことばを聞き、わかっているのにも関わらず罪を続けてゆくならば、私たちもまた同じであることを教えられるのです。

神の言葉に対して自分はどう向き合っているのか、裁きに合うことがないように救い主キリストを与えてくださった神様の愛にしっかりと立ち、それることなく、神様の御怒りを招くことを避け、神に従う者として生かされること。。


❸神の御前に謙る者に・・・。

もし「明日、あなたは裁かれる」と言われたら、私たちは必死に主に聞き、悔い改めるのではないでしょうか。しかし、この28章を見ると、サウルは、ショックを受けて棒のようになり、その後霊媒師や家来たちに強く勧められて結構なご馳走を食べてから、どうしたのか。彼は「家に帰ってしまった・・・」のだと語られました。

つまりサウルは最後まで悔い改めなかった。

神様は悔い改める機会をいくらでも与えてくださっていたのに、です。


悔い改めと赦しについて十字架上のイエス様の隣にいた犯罪人について語られました。

イエス様の両隣に二人の強盗が十字架にかけられました。(ルカ23章39〜)

一人は、イエス様を罵り言います。「お前はキリストではないのか。自分と俺たちを救え」しかし、もう一人は罪の悔い改めをするのです。「お前は神を恐れないのか。俺たちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。イエス様。あなたが御国に入られる時には私を思い出してください。」と。

その彼にイエス様が何と言われたか。

「あなたは、わたしとともにパラダイスにいます。」


私たちは、神様が与えられている悔い改めの機会を用いて神の御心に生きるのか。ヘブル書にあるように「今日御声を聞くならば心を頑なにしてはならない」という神の御声に聞くのか、決断を与えられているのだと語られました。


神様に悔い改めを迫られたなら、心を強情にせず、柔らかくして、主の前に跪き悔い改める。主はそのような魂を喜んで受け入れ祝福してくださる。


悲しいサウルの姿から学ぶべきことが多くあります。日々、主に導かれ主をお喜ばせすることを求め、悔い改め、平安をいただくことができるようにと祈りつつ。。。


「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。ヘブル書4章7節」


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