牧師コラム
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2021年11月28日(日)

 神様が事を行われたいタイミングと私たちが事を行いたいタイミングというのは、必ずしも同じではありません。いやむしろ、私たちにとってなぜこのタイミングなのかと思う時に、神様は事を行われることがしばしばです。
 イエス様の生みの母となったマリアもそうでした。御使いは、マリアがヨセフと結婚して一緒に住み始める時ではなく、まだ、婚約中で一緒には生活をしていない時に、マリアの前に現れ、マリアの胎に子どもが宿ることを告げていくのです。
 なぜこうも一方的なのか。そう思われる方もおられるかもしれませんが、私たちはこの場面を通して、神様と私たち人間の関係を教えられるのではないでしょうか。
すなわち、私たちは神様に対して服従することが求められているということです。私たちは自分の都合を優先にして、神様に従うか、従わないかということを判断します。
 しかし、自分の都合を優先にしている間は、神様の御業を経験するということも難しいように思うのです。なぜなら、自分を中心にしてしまっているからです。むしろ、自分では受け止めがたいと思う時に、私たちは始めて神様に問いかけ、神様のみことばを聴こうとするのではないでしょうか。
 奉仕を依頼されて断る方がいます。自分は今その奉仕を受ける余裕もなければ、余裕もない。確かにそうかもしれません。しかし、そう言うことによって、神様がその機会を導かれ、その人が御業に触れられる機会を自ら失ってしまっていると考えることはできないでしょうか。
私たちにとって一番難しいと感じる瞬間こそ、神様が私たちを最も用いやすい瞬間なのかもしれません。

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2021年10月24日(日)

 ロシアの文豪トルストイは、60歳過ぎまでイエス様を知らずに過ごしていました。彼は大変な金持ちでした。莫大な遺産を譲り受け、貧しさを全く知りませんでした。しかし、そうした多くの財産にもかかわらず、彼は人生の意味や目的を見いだすことかできず、ただ虚しく生きていました。しかしそんなとき森の中を歩いていると、自分を不幸から救ってくださる方はイエス・キリスト以外にはないということを悟ったのです。
 キリストを信じてからの彼の文学は、ものすごい霊感と恵みに満ちたものです。また、それまでに成し遂げたどんな仕事よりも、もっと多くの作品を書くことができました。彼は82歳で亡くなりましたが、残りの20年という短い人生が、それ以前のむなしい60年よりも、さらに価値ある人生になったのです。
 私は、彼が書いた「人間にはどれくらいの土地が必要か」という童話が好きです。一人の農夫が1日のうちで歩き回った分の土地をあげようと言われます。一生懸命に歩き、一旦は広大な土地を得ます。しかし、その後で無理がたたり、命を失うことになり、最終的に彼が手に入れた土地の広さは、彼の遺体を埋める分の広さの土地だけであったという話です。
 トルストイの人生を知る時に、この童話そのものが彼の信仰の証しなのではないかと思えてくるのは私だけでしょうか。私たちも、無くなるもののためではなく、無くならないもののためにいのちをかけていくべきではないでしょうか。

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2021年10月10日(日)

 神様のみことばには人を救う力があります。いや、神様のみことばによるのでなければ人は救われません。皆さんは、このことに同意されるでしょうか。
 あるアメリカ人の婦人は、思わぬ病気で1年近く入院をなさいました。この方は以前から伝道にも熱心な方で、この入院生活の中で、どうやって福音を宣べ伝えようかと思案したそうです。そして1つのアイデアが思い浮かび、それを実践したのです。それは、まずアルバイトの大学生を雇うことから始まりました。老婦人は、時給を払い、アルバイト学生に一日3時間から4時間聖書を読んでもらったのです。マタイの福音書から始めて、マルコ、ルカ、ヨハネと読み進めてもらう中で、重要なみことばが出てきます。たとえば、ヨハネ3:16になると、わざと聞こえないふりをして、「ちょっと学生さん、よく聞こえないわね。そのところもう一度読んでくれるかしら」とかと言って、もう一度読んでもらうということをしたそうです。
 初めのうちは何も起こらなかったのですが、これが2,3回ち続くうちに、その大学生はみことばを読んで感動し、聖霊の促しによって悔い改めへと導かれ、イエス様を信じるようになったというのです。この老婦人はこの方法によって、一年間に10人以上もの学生を救いに導いたと言います。
 この証し1つをとっても、神様のみことばには人を救う力があるということが実証されているのではないでしょうか。私たちが言葉の人ではなかったとしても、神様のみことばの力を信頼し、伝えていくならば、そこに救いの御業が必ず起こるのです。みことばを宣べ伝える者とされましょう。

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2021年10月3日(日)

 教会に成長という言葉が用いられると、途端に拒絶反応のようなものが起こることがあります。教会が成長することイコール教会を大きくすることだという理解をしてしまうからです。
けれども、私たちの願いと言うよりも、聖書を学ぶ時に教会の成長は、神様も願っておられることだということが分かってきます。ただ、その場合の成長というのは人数が増えて大きくなれば良いということではありません。
 神様が願う成長というのは、まず、教会を構成する信仰者一人一人の成長です。私たちはこの点について、他人と比べてしまう傾向がありますが、それはあまり意味のあることではありません。神様は、急に成長して、一定程度で成長が止ってしまうことよりも、生涯に渡って成長し続けて行くことを願っているのです。
 そして、一人一人が成長をし続けていくならば、結果としてその一人一人が集っている教会全体が成長していくことになるのです。
 私は、会社を辞め、神学校に行く前に日本教会成長研修所という所で働き、当時の教会成長に関する資料を読んだり、研修会にスタッフとして参加しました。研修の終わりに、研修を受けられた先生方が計画を発表し、それが卒業証書のようなものになるのです。
 どの計画も素晴らしいものです。しかし、私が在籍した時に研修を受けられた先生方で、計画通りに結果を残せた先生はほとんどおられませんでした。なぜでしょうか。それは、その素晴らしい計画を担う信徒たちの成長が計画を実行するまでには達していなかったからではないかと思うのです。私たちの教会も将来の計画を立てていく必要を覚えますが、それと同時に教会を建て上げる私たち自身の成長ということにも心を留めていきたいと思うのです。

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2021年9月5日(日)

 先日ある委員会のzoomミーティングで、出席されたひとりの先生から大分の教会で起こった新型コロナウイルスのクラスターの事が話題に上げられました。
 その先生は事件そのものというよりは、それを報道するネットニュースの書き込みを見て、非常に心を痛められたというのです。確かに、コメントを見ると心ない書き込みもありました。しかし同時に、私は教会が非難されても仕方が無いことをしていたという事実を教会は真摯に受け止めるべきだと思いました。
 神学校時代のことです。食堂の入り口に大きなドアがあったのですが、出入りする時に気をつけないと、大きな音が鳴っていました。80人ぐらいの大所帯ですから、常に人の出入りがある中で、ある時舎監の先生からドアの開け閉めを注意されたことがありました。
 そしてその時に示されたのがⅠコリント13:5の「愛は礼儀に反することをせず」というみことばでした。音を出す以上に、私たちの行為の背後にキリストの愛はあるのか。と問われたのです。
 新型コロナウイルスの感染拡大によって、私たちの国も我慢が続いています。教会活動にも様々な制限があって、正直うんざりというのが本音ではないかと思うのですが、しかしその一方で、気を緩め、無防備と思えるような行動をすることが、どんな結果をもたらすのか。ということを考えるならば、そこにキリストの愛があるのだとしたら、私たちはそれでも同じ事をするだろうかと考える必要があるのではないでしょうか。
 誰も自由を制限されることを喜べる人はいないでしょう。しかし、愛のゆえに自由を制限することを選ぶこともできるのです。イエス様は、そのことを私たちに示してくださった方ではないでしょうか。だとすれば、私たちもイエス様の姿に倣っていくべきではないでしょうか。クラスターが起きた。その結果として非難を受ける。という構造ではなく、愛のゆえに非難を受けるような行為は避ける。それが私たちキリスト者の歩みではないでしょうか。

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2021年8月29日(日)

 ある集会でアメリカ人の宣教師が自分の救いの証しをしてくれました。彼は、「皆さんは、私がアメリカに生まれたということだけで、信仰を持ったと思ってはおられないでしょうか。」と語りだし、その後自分がどのように信仰を持つに至ったかを話してくれました。
 私は、彼の証しを聞きながら今朝のパウロの言葉を思い出しました。パウロはユダヤ人に生まれたからといって、それだけで救われる訳ではなく、たとえ神の民であるユダヤ人でもイエス様を救い主として信じる信仰が求められることを語っているのです。
 そして、そのことに関連して同じユダヤ人であっても、ある人は救われ、ある人は救われないということに神様の選びがあることを語るのです。
 私たちも、神様はすべての人が救われることを望んでおられるというみことばを読む時に、救われない人がいるという現実に矛盾を感じることはないでしょうか。
 ここに「すべての人」と言われている言葉の意味を考える必要が出て来るように思います。ここで言われているすべての人というのは、人間として生まれた人すべての人を指すのか。それとも、神様が救おうとあらかじめ計画されていた人を指すのか。ということです。
 この議論は、今でもキリスト教界の中で続いているもので、簡単には答えを出すことはできません。また、私たちには誰が神様のご計画にある人かということは分からないということを考えるならば、結局はすべての人にイエス様を宣べ伝えるという姿勢は変わらないようにも思うのです。
もしも、自分にとって大切な人が神様の救いのご計画の中にいなかったら、そんな否定的な考えに立つのではなく、私を救ってくださった神様は、きっと、私の大切な人たちをも計画の中に入れていてくださっているはずである。そう期待をしながら、イエス様の福音を分かち合う私たちでありたいと思うのです。

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2021年8月15日(日)

 ペリシテ人の代表戦士ゴリアテと戦うイスラエルの代表戦士ダビデの姿は実に対照的です。
 ゴリアテは重装備で戦場に出て来ますが、一方のダビデは鎧も着なければ、武器も持たすに、石投げだけを手にして戦場に出て来るのです。百戦錬磨のゴリアテにして見れば、このダビデの姿を見た時に自分の勝利を確信したのではないでしょうか。
 しかし、聖書にはこの戦いの勝利者はダビデであったと書いています。なぜ、ダビデが勝利したのでしょうか。ゴリアテが油断したからでしょうか。いいえ、そうではありません。
聖書は、ダビデの勝利は彼の信仰によってもたらされたものであることを教えているのです。
 人間の目は物理的な物を捕らえることはできますが、霊的なものを見ることはできません。ゴリアテはダビデの外見を認識することはできても、その背後にはたらいておられる神様を見ることはできませんでした。まさに、ゴリアテの敗北はここにあったということなのです。
 信仰の目という言葉を耳にすることがあります。果たして私たちは、物事をどちらの目で見ているでしょうか。身体の目と信仰の目では、見え方が違ってくることもしばしばです。そして、身体の目だけで見るならばせっかく神様が用意してくださった機会を生かすこともできないのです。
 イエス様は、これから起こる霊的な祝福を教えるために、弟子たちに「目を上げて畑を見なさい。」と言われました。私たちは信仰の目を上げて、物事を見ているでしょうか。

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2021年7月25日(日)

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2021年7月18日(日)

 聖書の学びをしていて経験上感じることは、従うという項目になると学ぶ人の反応が鈍るということです。なぜでしょうか。私はまさにそこに人間の罪の現実を見るからではないかと思います。
善悪を知る知識の木からの実を食べてはならない。と命じられていたにもかかわらず、その実を食べた人間は、その時から神様の御声を聞くことができなくなりました。すなわち、それは従えなくなったということでもあるのです。
 ですから、イエス様を信じて、神様との関係が回復したならば、当然、神様に従うという行為も回復するはずなのですが、生まれながらにそれをしてこなかった私たちは、信じてもなお、古い罪の性質を引きずる中で、従わないという姿を露呈することになるのです。
サウルは、アマレク人との戦いにおいて、聖絶せよという神様の命令を聞きましたが、従いませんでした。それは、戦利品に彼の目が向いていたからです。そして、それをサムエルから指摘された時に、尤もな理由を挙げて、その指摘から逃れようとしたのです。
 目に見える行動が必ずしもその人の心を反映しているとは限りません。人はいかようにも偽ることができるからです。しかし、心をご覧になられる神様にとって、心を伴わないご自身への奉仕は悲しみでしかないのです。
 私たちの信仰行為は、神様に従いますという思いから出発しているでしょうか。人の目を気にしたり、惰性的になっていることはないでしょうか。みことばは、主を自らの喜びとせよ。(詩篇37:4)と教えます。主が私の喜びとなる時に、自ずと従うという行動が生まれてくるのではないでしょうか。主を喜ぶ者となりましょう。

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2021年7月4日(日)

 大橋秀夫という先生が書かれた「ヤベツ・悲しみの中の祝福」という書籍の中に一人の婦人のことが記されています。この婦人は、長らく教会学校の働きをなされていたようですが、ある時に癌になられ、それでも最期まで奉仕を続けられた方でした。
 ある時、大橋先生が痛みをこらえながら奉仕をしているこの婦人に「少し休んだら」と声をかけた時に、その婦人から以前に先生が話された「もしあなたが明日死ぬと宣告されたときにも、今日まで生きて来たのと同じように生きて行く、それこそがキリスト者らしい生き方です。」という言葉が返され、ですから私はそのようにしているのです。と言われ、身が引き締まる思いをした。ということが記されていました。
 皆さんは明日死を迎えるとしたら、果たしてどんな気持ちでその時を迎えるでしょうか。実際にその時にならなければ分からないかもしれません。しかし、その時は誰にでも訪れるのですから、その時のための備えは今からでもできるのです。
 「今日まで生きて来たのと同じように生きて行く。」言葉で言うのは簡単ですが、実際にこのように生きることはそう簡単ではありません。しかし、この婦人はまさにこの生き方を貫いて、最期には「本当に充実した良い人生だったと感謝しています。」という言葉を遺し、60歳を前に天国に凱旋されたそうです。
 信仰のレースを走り抜いた人の言葉ではないでしょうか。私たちも、この地上での信仰のレースを終える時に、「充実した良い人生だった。」そう言える歩みをしたいものです。そして、マラソンランナーが42.195kmを完走した時に見せるあのやりきったという満面の笑みと同じ笑みを持って、私たちも天の御国へと凱旋したいと願わされるのです。

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2021年6月27日(日)

 イスラエルの王とされたサウロがわずか数年で主なる神様の御前から退けられてしまうというのは、記事を読んでいる私たちの胸にも迫ってくるものがあります。
 なぜ、それほどまでに神の怒りを買ってしまったのでしょうか。そこには単に失敗をしてしまったということ以上にサウルという人の信仰の姿勢に対する神様の怒りがあったように思うのです。
 サウルは、語られた神様のみことばに従いませんでした。しかし、それが露呈した時に悔い改めることがありませんでした。彼はむしろ自分が成したことについて言い訳をし、仕方が無かったということで済ませようとしたのです。
 仕方が無い。私たちも信仰生活を送る中でこの言葉を使っていることはないでしょうか。
聖書が教えるように、信仰は目に見えない事柄を保証するものです。そこには期待があります。けれども、仕方が無いという言葉を口にする時に、そのような信仰による期待は消え去り、現実に対する悲壮感が漂うようになるのです。
 サウルは、サムエルが来なかったから、いけにえを献げたことは仕方が無かったと言いました。そこには、サウロの置かれた厳しい状況から抜け出したいというサウルの切羽詰まった思いもあったようです。
 けれども、正確なことを言えば、サムエルは遅れた訳ではありませんでした。約束の時間にサウルのもとに来ているのです。だから、これは明らかにサウルの問題であり、サウルはそのことを悔い改め、信仰の回復を願うべきであったのです。しかし、それができないところにサウルが神様に退けられた大きな原因があったのです。
 仕方が無いは、私たちの側の言い訳でしかありません。仕方が無いと言って、言い逃れをするのではなく、神様、あなたを信じられない時にも、信仰を与え信じられる者にしてください。と祈る者とされたいと思うのです。

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2021年6月13日(日)

 何かを成し遂げる人は、人とは違うものを持っている人だ。と言われます。確かに、人には持って生まれた才能があり、それを用いて活躍している人を見る時にそのように思わされます。
 しかし、そういうことになると世界は選ばれたほんの一部の人たちだけでまわり、そうでない人たちの存在は軽視されることになってしまわないでしょうか。聖書は、すべての人は神様のご計画のもとに生まれ、神様の栄光のために生きると教えます。
神様はある一部の人だけを召されたのではなくて、すべての人を召しておられるのです。だから、私たちは自分には特別な能力などない。何のために生きているのか分からない。などと言ってはいけないのです。
 イスラエルの最初の王とされたサウルも、王として召されるまでは農耕を行う一人の青年でした。ですから、彼がイスラエルの会衆の前で選ばれた時も、必ずしも皆がサウルを認めたわけではありませんでした。
けれども、時が来て神様の召しがはっきりと示されると、人々はサウルを王として認め、彼に従っていきました。彼が特別努力をして人々の信頼を勝ち取ったというよりは、神様の霊が彼に特別に臨んだことが大きな要因でした。
 神様はみこころのままに、人を召され、その働きを成すために十分な力を与えてくださるお方であるということを、私たちはサウルの姿から教えられるのではないでしょうか。サウルを用いられた神様は、私たちも用いてくださいますし、用いたいと思っておられます。特別な何かがなくても、神様が力を与えてくださいます。ならば、私たちに求められるのは、主よ。みこころのままに私をお用いくださいと祈ることなのです。

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2021年6月6日(日)

 空港で海外から入国してきた人々の所持品を検査する税関の職員の方が、本物と偽物をどのようにして見分けるのかということを話しておられたことがあります。それは本物だけを見続けるということだそうです。常に本物を見ていると、偽物の違う部分にすぐに気がつくというのです。
なるほどと思うと同時に、これは信仰においても同じ事だと思わされました。信仰は告白を持って明らかにされます。しかし、しばしば起こって来ることは告白とその人の言動が違うということが見受けられることも多いのです。
 信仰の告白は、形式的なものであっては意味はありません。実質を伴ってこそ意味あるものです。
私たちはイスラエルの最初の王とされたサウルに目を留めます。彼に対する記述は、一見すると彼が信仰者であったかのような書き方がなされます。しかし、彼についての記述を追っていく時に、彼の信仰というものは形式的なものであったということが晒されていくことになるのです。
途中から信じなくなったということではなく、はじめから彼は救いを受けていなかったと結論づけられてしまうのです。
 彼の信仰が本物か偽物かを見分ける大きなポイントは、罪に対する悔い改めにありました。これはダビデの姿と比較するとすぐに分かります。
サウルは罪を犯しても真に悔い改めることがありませんでした。それは彼が、主なる神様を本当の意味で知らなかったという所から出て来る姿勢でした。
 あなたはいかがでしょうか。罪を指摘された時に、それを隠したり、ごまかしたりするばかりで、悔い改めがないなら、それることができないとするなら、本当の意味で主なる神様を知っているでしょうか。悔い改めこそ、真に主なる神様を知る者の大切なしるしなのです。

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2021年5月30日(日)

 第一サムエル記の9章には、イスラエルの最初の王とされたサウルと預言者サムエルの出会いの場面が描かれています。
 サウルは、父の命令に従っていなくなった雌ロバ数頭を探しに出かけます。ところが、捜せど捜せど雌ロバを見つけることができずに途方に暮れるのです。もう諦めかけたその時に、共に雌ロバを捜していた若者の言葉によって、サウルは預言者サムエルを尋ねることになるのです。
 この訪問がきっかけとなって、サウルはイスラエルの王とされていくのです。サウルにとってそれは思ってもいなかったことでしょう。しかし、サムエルはすでに神様からサウルが自分のもとを訪れること、そしてその彼を神様が選んでおられたことを事前に知らされていたのです。
 神様の人への働きかけというのは、それを受ける人には突然であっても、神様のご計画の中にあっては必然の事としてなされるものだということを、私たちはこのサウルが王として召されるという出来事を通して教えられます。
 そもそもこの出来事は、雌ロバがいなくなるという日常の生活の中でごくごく自然に起こる出来事がきっかけでした。ここから神様のご計画が始まっているのです。
 神様は私たちの日常生活の中にも介入されます。私たちにとって何気ない日常生活であったとしても、神様はそれを用いてご自身のご計画に私たちを導くということもなされるお方なのです。
 私たちはこのことを知る時に、あまり心に留めなかった日常の歩みにも関心が向くのではないでしょうか。今は隠されていたとしても神様のご計画が私にも皆さんにも用意されています。そしてそれがふとしたことをきっかけにして明らかにされるのです。ワクワクしないでしょうか。そんなワクワク感を持って、新しい1週間の歩みを始めていきましょう。

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2021年5月23日(日)

 宣教団体に勤める妻の友人が、一人の青年の話をしてくれました。この青年は、趣味は伝道することと言い、実際に救われてから間もないのに、100人の人を教会に導いたと言うことです。
私たちは伝道の猛者の話を聞くと、励まされるよりも落ち込むことがあります。原因は、私にはとてもそのようになれない。と思ってしまうからです。
 確かに賜物の違いはあるかも知れません。けれども、伝道の賜物が無ければ家族や友人を信仰に導くことができないかというとそうでもありません。恐らく、この青年も自分には賜物があるからということで伝道を始めた訳ではないと思います。
 先週の祈祷会では、使徒の働きの2章を学びました。ちょうどペンテコステの出来事が記されていましたが、それに続く初代教会の姿を見る時に、主の弟子たちとされた人たちが専念したことは、主の教えを聞き、それに従い、祈りと交わりを持つということでした。
 そしてそのことに取り組む群れに、神様は毎日救われるべき魂を送ってくださったと書かれているのです。
 上手く聖書の教理を語れるという事だけででは、福音は伝わりません。伝道を趣味とする青年が多くの人を導ける秘訣は、まさに、神様を心から愛する姿勢にあるのではないか。私はそのように思うのです。
 私たちの教会の中にもしばしば「伝道」という言葉が出て来ますが、伝道に携わっている一人一人がどのような歩みをしているかということがまず問われなければ、その働きに実を見ることもないのではないでしょうか。礼拝、祈祷会、奉仕、交わりの点で、私たちは主に喜ばれる歩みをしているでしょうか。確かな土台の上に立って、主を証ししているでしょうか。

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2021年5月16日(日)

 イスラエルの地に自力で戻ってきた契約の箱でした。しかし、本来祝福をもたらすはずの契約の箱は、ベテ・シュメシュの人々の不用意な取り扱いによって、人々に恐れられる存在になってしまうのです。
 しかし、ベテ・シュメシュの人々から依頼を受けたキリヤテ・エアリムの人々は契約の箱を自分たちの地に迎え入れるのです。キリヤテ・エアリムの人々は怖くはなかったのでしょうか。いいえ、怖かったと思います。
 けれども、彼らは契約の箱が野ざらしにされてしまうことを考えた時に、誰かが契約の箱を見守る役を引き受けなければならないという強い使命感を持っていたのではないかと思うのです。そして、このキリヤテ・エアリムの人々の決断が、やがてイスラエル全体の信仰復興(リバイバル)のきっかけになっていったのではないかと思うのです。
 人々が誰も手をつけたくないと思う事柄が沢山あります。そのような事柄の中には、見て見ぬふりをして見過ごしてしまえば終わってしまうということもあれば、その反対に誰かが取りかからなければ解決しないということもあります。
 人が敬遠することをなんでもかんでも引き受けるということがキリスト者の使命とは思いませんが、しかし、現実にキリスト者が信仰を持って踏み出した一歩が世を変えた例というのは多くあることも私たちは心に留めるべきではないでしょうか。
 私たちの神様は、みこころのままに働いて、私たちに志を立てさせ、事を行わせてくださる方であり、信仰に基づいた行動を祝福してくださる方であることを覚えたいと思うのです。

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2021年5月9日(日)

 神様を親しく感じることは大切なことですが、一方で、神様を畏れることも大切なことです。
親しき仲にも礼儀ありという言葉があります。親しくなると、自然と態度や言葉使いなどが、緩くなりがちですが、しかし、節度を超えた対応は考えものです。そしてこれは人に対してだけではなく、神様に対しても同じ事です。
 最近キリスト教の中に神様に対する馴れ馴れしい語り口の祈り方やセンチメンタルな賛美が増えて来てはいないかと苦言を何度か耳にしたことがあります。私もそう感じることがあります。
神様を親しい存在として感じられることは幸いなことです。しかしその一方で、神様を私たちと同じレベルにまで引き下げてしまうことは、間違った考え方です。なぜなら、神様は私たちの救い主であり、王なるお方であることは変わりないからです。
 私の会社員時代に、職場に大蔵大臣が来られたことがあります。何時間も前からSPが来て、会場の安全を確認しておられました。時間が来て、大臣が会社の玄関に着いた時に、同僚が車のドアを開けようとした瞬間、SPが飛んできて、その同僚を突き飛ばしました。びっくりしましたが、これは当たり前のことなのです。一般人が大臣にそうそう近づくことはできないのです。ならば、神様はなおさらのことです。
 けれども、私たちの神様はご自分のひとり子を通して、私たちに近づくことを許してくださっているお方なのです。まさにそれはあわれみによるものなのです。だとすれば、私たちはそのあわれみに感謝を持って、神様の招きに応じていくべきなのです。そこには、喜びと共に畏れが常にあることを忘れないようにしたいと思うのです。

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2021年4月18日(日)

「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」幼子サムエルが神様に対して語った有名な言葉です。
 神様は自分勝手に生きているイスラエルの民に対しては沈黙を守られました。それは、民にみことばを語っても民がそれを拒絶したり、反抗したりすることが分かっておられたからです。
イエス様は、山上の説教の中で「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。」と言われましたけれども、神様はご自身をみことばに対して反抗的な態度を取る者には、沈黙を守られるのです。
 しかし、ずっとその状態を続けられるかというとそうではありません。神様はご自身の民に語りたいと願っておられますし、民がそのみことばに生きることによってご自身のもたらす祝福を受け取って欲しいと思っておられるからです。
サムエルの言葉には、私たちが神様の祝福を受けるための秘訣が示されています。それは聞く耳と心を持つということです。
 私たちはみことばを前にする時に「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」という心になっているでしょうか。この心無くして神様のおことばを理解したり、受け止めたりすることは難しいのです。
 聖書は難しいという声をしばしば耳にしますが、それは聖書そのものというよりも、みことばに触れる私たちの問題はないかと一度振り返って考えて見るべきではないでしょうか。
 しもべの心で主なる神様の御声に耳を傾けさせていただき、用意されている祝福にあずからせていただきたいと思うのです。

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2021年4月11日(日)

 子どもに信仰の継承ができない時に、信仰を持つ親は悩み、自分を責めるのではないでしょうか。
 子どもは親とは別人格で、信仰を持つのは本人の問題であるということを聞けば少しは気が楽になるかも知れません。けれども、神様が信じる者の家系を祝されるということを知れば、子にも祝福が受け継がれていくことを願うのは親として当然のことではないでしょうか。
 今朝の箇所には、祭司エリの2人の息子のことが出て来ます。この2人の息子ホフニとピネハスは、エリの心を痛ませるような歩みをしていました。彼らはエリからその行動を注意されても改めることをしませんでした。
 何が問題なのでしょうか。勿論、エリの子どもたちへの甘やかしが生んだ悲劇とも理解することができますが、聖書には「彼らを殺すことが主のみこころだった」とあるのです。
なぜ、エリの子どもたちが父親の忠告を聞き入れなかったのか。ではなく、聞き入れられないようにと神様がなさったというのです。
 神様のみこころは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。しかし、神様の働きを拒み続ける時に、神様はそのような人をその欲望のままに歩むようにと引き渡され、神様の救いにあずかれないようにとされてしまうのです。
 恐ろしいことです。どうしたら、この恐ろしい結末を免れることができるでしょうか。その秘訣は、罪を放置するのではなく、示された罪があるならば、それをすぐに神様の御前に持って行き、悔い改めるということなのです。
 あなたは、神様から悔い改めを求められた時に、それに応じる素直な心を持っておられるでしょうか。

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2021年4月4日(日)

 主イエス・キリストの復活を覚えて、主の御名を賛美します。今日主はよみがえられました。

 イエス様の復活。皆さんはこの出来事をどのように捕らえているでしょうか。本当に起こった出来事として捕らえておられるでしょうか。この問いは、イエス様のよみがえりを実際に経験した使徒たちには愚問でした。しかし、時間が経過する中で、弟子たちの中でも起こってきた問いでした。

 死んだ人がよみがえる。そのような出来事は、私たちの日常では到底考えられないことだからです。イエス様の弟子たちでさえ、最初はそうでした。けれども、イエス様が疑い深い弟子たちのもとに繰り返しご自身を現わされる中で、弟子たちも確信を持つようになったのです。

 イエス様は、懐疑心の塊であった弟子のトマスに、「見ないで信じる人たちは幸いです。」と言われました。

 見ないで信じる。まさにここに信仰が求められるということではないでしょうか。私たちは見える世界を大切にします。しかし、見えるものだけがすべてではありません。この世界には見えないものもたくさんあり、それを見えるようにするためには特殊なものが必要になってきます。

 イエス様を見るためにも必要なものがあります。それが信仰なのです。信仰は盲目になることではありません。事実で無いことを、事実であると自分に信じ込ませることではありません。

 求めていく時に心に与えられるものです。聖書に、信仰がなくては神様に喜ばれることはできません。とあります。私たちは神様に喜んでいただけるような信仰を持っているでしょうか。その信仰によって、今朝、神様の御前に出ているでしょうか。

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2021年3月28日(日)

人はどのような時に慰めを受けるでしょうか。ある人は、自分と同じような仲間を見つけた時だと言います。確かにそうかもしれません。時々、教職者の集いで講師をお招きすることがありますが、その時に、成功話を聞かされてもあまり心には響いてきませんが、失敗談を聞くとそれによって慰められるということがよくあります。

今朝の箇所には、イエス様の弟子の中でリーダー的な存在であったペテロが、イエス様との関係を否定した場面です。イエス様が捕らえられる前は、ペテロはイエス様と一緒に死ぬことも厭わないと、威勢良く公言しました。しかし、実際にイエス様が捕らえられると、その威勢はどこかに飛んでいってしまい、ついにはイエス様との関係までも否定してしまったのです。

情けない。と思うかも知れません、しかし、私たちは自分に置き換えて考える時に自分も同じような失敗をしたにちがいないと思う時に、むしろペテロの姿に慰めを得るかも知れません。

しかし、ヨハネはペテロの姿を描きながら、信仰者はそれで良いのだというメッセージを伝えようとしている訳ではありません。私たちがペテロの姿と自分自身の姿を重ね合わせながら、その一方でイエス様はどうであったのか。イエス様がペテロをどのようなまなざしで見ておられたのか。ということに目を向けさせようとしているように思うのです。

なぜなら、そこにこそ本当の慰めを見出すことができるからです。小さな子どもが自分に愛の眼差しを向ける親を見上げて安心するように、私たちも私たちを見守ってくださるイエス様を見上げて歩むならば、その心には慰めや安心が与えられるのです。

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2021年3月21日(日)

 時代を超えて読み続けられるべき良書が何冊もあります。私はその中の一冊として、J.I.パッカーという神学者が書かれた「神について」という本を挙げたいと思います。
 何回かの改訂を経て、今は「神を知ること」というタイトルで売られていますが、非常に深い洞察と示唆に富んだ本です。神様を知るということは、私たちが一生涯かけて行うことで、本で学ぶことはできない。という人もおられます。
 確かに言われていることは正しいのです。けれども神様を知るということに私たちはどれだけ積極的に向き合っているでしょうか。まさにJ.I.パッカーはその点についても著書を通して読者である信仰者に投げかけているのです。
 神様というお方を認めながらも、しかし、その神様の存在そのものを小さくしてしまっている現状はないだろうか。そう問われる時に、私たちは単なる知識としての神様理解ではなく、生きた神様との交わり、日常における体験というものを問われるのです。
 勿論行き過ぎた体験主義は、神秘主義を招くことになるので注意は必要ですが、しかし、知識の蓄積だけでは学問になってしまいます。学びつつ、その学んだ事が実際の信仰生活で確認されて行く時に、私たちの信仰の確信はより深まっていくのです。
 米国のサドルバック教会のリックウォーレン牧師が、私たちのこの地上の人生の大切な目的の1つが神様と知ることだと言っておられますが、私たちはどのように神様を知っているでしょうか。知識によってでしょうか。それとも経験によってでしょうか。そのどちらもが大切です。私たちが生ける神を告白することができますようにと願います。
まだ、読まれたことのない方は、是非、この機会にお読みください。お勧めいたします。

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2021年3月7日(日)

 今日からサムエル記の講解が始まります。サムエル記は士師記の流れにありますが、その時代は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」という言葉で表現されています。
 王がなくとありますが、王はおられました。それは主なる神様です。けれども人々は、その主なる神様を見ようとしなかったし、民に神様を指し示すことのできる指導者もいなかったということでしょう。それゆえ、人は自分の価値基準に立って好き勝手に生きていたということなのです。
個人個人の思う所に立って、良しとするように行動するというのは、何とも今の時代に似ているように思わないでしょうか。

 物や事に対する考え方が相対化してしまい、絶対的な基準がなくなってしまう。だから大切なのはその人がどう考えるのか。ということに重点が置かれるのです。
しかし、人間とは絶対的に正しい判断ができるかと言えばそうではありません。いや常に間違いを犯し続ける。そういう存在です。ですから、そのような人間が各々の基準、価値観に従って歩もうとする時に、間違った方向に舵が切られるということが頻繁に起こるようになるのではないでしょうか。
 サムエル記は、人々が「自分の目に良いと見えることを行っていた」時代をそのまま引き継ぐのではなく、そのことを良しとされない神様によって、方向転換がなされていく、その様が描かれている書物だと言うことができます。
 私たちは、この書に登場する人々の姿を通して、人には絶対的な神様という存在が必要なのだ。ということを教えられるのです。個人主義の時代にあって、私たちもそのことを改めて確認させていただきたいと思うのです。

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2021年2月28日(日)

 安心して行きなさい。イエス様が、自分の足に香油を塗ってくれた女性に言われた言葉です。イエス様に出会うまでの彼女の人生は、安心などありませんでした。「罪深い女」というレッテルを貼られ、常に人々の冷たい視線にさらされてきたことでしょう。
 しかし、その彼女がイエス様と出会い、信仰による救いを宣言を受けたのです。この宣言によって、人々の彼女への味方が変わったかどうかは分かりません。けれども、彼女の心には以前には考えられないような平安が与えられるのです。
 そして、この女性が経験した平安は、イエス様を信じるすべての者に与えられるものでもあるのです。
 私たちの平穏な日常は、薄氷の上にあると言っても良いでしょう。壊れやすいのです。何か1つでも歯車が違えば、途端に日常が非日常になってしまいます。そんな歩みのどこに私たちは平安を覚えることができるのでしょうか。
 残念ながら私自身の中にはそれを見出すことはできないのです。けれども、神様のひとり子であるイエス様にはそれができます。イエス様ご自身が「わたしの平安を与えます。」と言っておられるのです。
 私たちがこのイエス様のおことばを握る時に、この世のものによって得られる平安とは別の平安をいただくのです。
あなたは何によって平安を得ておられるでしょうか。安心して行きなさいと言ってくださるイエス様のおことばを握りつつ、今週の歩みをスタートさせていきましょう。

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2021年2月21日(日)

2020東京オリンピックの組織委員会の会長をされていた森氏が辞任されました。足かけ8年に渡って、先頭に立ってオリンピックの準備をなされてきたはずなのに、半年前に職を辞さなければならないというのは本当に悔やまれることだったのではないかと思います。
 しかし、その一方で、置かれている立場を自覚せずに、ふさわしくない言動をするならば、大きな代償を払うことになる。ということを教えられるのです。
 神の人モーセもそうでした。彼はエジプトを脱出してから38年にも渡りイスラエルの民を導いた指導者でした。ところが、カナンの地を目前にしながら、彼は自分の犯してしまった失敗のゆえに、カナンの地に入ることができずに死を迎えるのです。
 出エジプト記、民数記、申命記に記されているモーセの苦労を知る人は、神様は、なぜ、モーセを約束の地で死なせてやらなかったのか。あれほど貢献した人物であるのに。たった1回の失敗なのに、なぜ、それをそれほど問題視されるのか。そんな風に思うかも知れません。
 また、神様に対しては、なんと非情なお方なのだろうか。という思いが出て来ます。愛であるお方なのに、ひどすぎるのではないかと、モーセを擁護したくもなるのです。
 でも、私たちはモーセや失敗によって立場を追われてしまった人たちの姿から学ぶ必要もあるのです。なぜなら、口で失敗を犯さない人は一人もいないからです。
「口は災いの元」という言葉もありますが、私たちは神の子という身分をいただいているものとして、どのような言動をすることが最善なのか。ということをいつも頭の片隅に置きながら、実践していくという姿勢を持ちたいものです。もしも私たちがこの点で訓練され、整えられていくならば、言葉によっても、行いによっても、キリストの良き香りを放つ存在となるのです。

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2021年2月14日(日)

日本のキリスト教会が負うべき戦争責任と言われる時に、皆さんはどのようなことを想像するでしょうか。今回のJECA関東四地区2.11集会では、長年オランダのライデン大学で教鞭をとられた村岡宗光先生が、インターネットを通じて「戦後の日本のキリスト教会が負うべき戦争責任」という題でお語りくださいました。
 村岡先生ご自身も戦争を経験されたお一人です。しかし、それはまだ小学生の時のことで、戦時中に日本兵がどのようなことをしたのかということについては、オランダに行かれてからのことであったようです。
 知れば知るほど、先生は、日本の軍隊が行った行為に心を痛められたそうです。そして償いの思いから自分にできることをしたいということで、日本が植民地化したアジアの各地を訪れ、無償でご自分の専門を教えるという活動を今日まで続けて来られました。
 先生の講演は、数回の休憩を挟みながらではありましたが、非常に熱のこもったものでした。その熱は、ご自分が知り得たことを是非後代に伝えたいという思いから生まれたものであろうと思いますが、私もその先生の熱意に引き込まれた3時間でした。
 個人が学び、知り得たことが、分かち合われることは大きな益をもたらしてくれます。私もこれまで教会の戦争責任について少なからず関心を持ってきましたが、今回の講演によって新たに知り得たことを多くあると共に、戦後76年が過ぎたのにも関わらず教会という視点から考えても、私たちは悔い改めるべきことを悔い改めないまま、今日を迎えているということを教えられました。
 なかなか機会が無いと聞くことのできない骨太の講演内容だと思います。まだ聞くこともできますので、是非、多くの方々に聞いていただきたいと思います。

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2021年2月7日(日)

この世には富む者がいる一方で、貧しい者がいます。バプテスマのヨハネの弟子たちから、あなたは「おいでになるはずのお方ですか」と尋ねられた時に、ご自身がなされている御業を挙げ、ご自身が旧約聖書で約束された救い主であることを明らかにされました。
特にイエス様が御業を挙げられる中で、最後に「貧しい者たちに福音が伝えられている」ことを挙げられたのは、そこに福音の中心があったからだと言われます。
貧しい者のため。こういうことを聞くと「全てのクリスチャンは貧しく暮らすべきだ」と主張が起こってきます。これを貧困の神学と言います。この観点が強いクリスチャンはリッチな暮らしをするクリスチャンたちを極端に妬み嫌い、批判するのです。

 しかし、その一方で聖書は信仰者の繁栄についても語っています。ですから、そちらに目を留める人たちは、繁栄の神学というものを主張するのです。
聖書を極端に理解する時に、偏った捉え方をしてしまうのが私たちですが、聖書を注意深く読む時に、キリスト者たちの中にあえて貧しくなることを選んだ人たちもいれば、反対に多くの富を持ち、それを用いてイエス様の働きを助けた人たちがいたということに気づかされるのです。
 大切なことは、富むのか。貧しくなるのか。ではなく、その立場に神様が置かれたことの意味を悟り、その立場で主のために仕えようとするのか。どうかということにあるように思うのです。
 富んでいるか。貧しいのか。そういうことで、私たちが神様に、信仰に、躓くことがないようにしたいものです。どのような環境にあっても、神様は私たちの必要をご存じで、満たしてくださるお方なのですから、委ねながら、主に仕えていきましょう。

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2021年1月17日(日)

砂の上に建物を建てることは愚かなことだ。ということは誰にも分かることです。けれども、内灘聖書教会で牧師をなされていた横山先生がある時に、うちの教会は砂の上に建っているのですよ。と言われているのを聞いて驚きましたが、それは本当に特殊な事だと思います。
イエス様は特殊な例を話されているのではなく、聞き手が比較しやすいように、岩の上に建つ家と土地の上に立つ家の話をされています。イエス様がこのたとえを通して教えておられるのは、信仰者の生き方なのです。
岩の上に建てられた家も地面にそのまま建てられた家も、外見からは分からないように、信仰者も外見だけではその信仰の面について計り知ることはできないのです。
けれども、岩の上に建てられた家と地面に建てられた家の違いはずっと分からないままかというとそうではありません。災いが襲って来ると分かるようになるのです。そして、このことは信仰者においても同じです。真の信仰を持っている人とそうでない人は、その時に明らかにされるのです。
イエス様が指摘されている「土台が無い」と言われる状態は、みことばを聞いてもそれを聞くということで終わらせてしまっている状態のことです。ですから反対に、土台があるというのはみことばを受け止め、それを行いに移すことなのです。
だからこそ、イエス様は弟子たちに繰り返し「聞き方に注意しなさい」と語られたのです。
 私たちはみことばをどのように聞いているでしょうか。みことばを聞き、それを行うということが土台となっているでしょうか。

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2021年1月10日(日)

悪い木からは悪い実が実り、良い木からは良い実が実る。木の善し悪しは実を見れば分かる。とイエス様は言われました。これは至極当たり前のことですが、このことが私たちについて語られたことであるということを考える時に、その意味については考えさせられます。
長野県で牧会をしていた時に、初めて干し柿を作りました。柿には甘柿と渋柿がありますが、干し柿は渋柿を使うということをその時初めて知りました。干し柿を作りたい人はわざわざ渋柿の木を庭に植えていました。
けれども、私のように外から見ている者には、家に植えられている木が甘柿の木なのか渋柿の木なのかということは、なかなか見分けることはできませんでした。けれども、どんなにたくさんの実を付けたとしても渋柿の木には渋柿しかなりませんし、それは甘柿の木でも同じことなのです。
木の本質は、目に見える実によって判断される。まさに、これが私たちに適用されるというのは、私たちの本質というものは言動になって表に現われてくるものですあるということを教えているのです。
もしも目に見えている事柄の中で悪いという部分があるならば、その部分だけというよりも、その人の内面が問われるということになるのです。
どんなに取り繕ったとしても、心が変わらない限り、ほろこびは表に出てきてしまうものではないでしょうか。イエス様がくださる救いは、私たちの心に大きな変革をもたらし、私たちに良いものを生み出させる力を与えてくれるものなのです。あなたはその力を経験されているでしょうか。

 

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2021年1月3日(日)

一年の計は元旦にあり。という言葉があるように、今年1年間をどのように歩むかということについて考えることは大切なことであると思います。
神学校時代に、教師であって一人の先生がご自分の生涯に渡る人生設計を立てておられ、ほぼその通りに歩まれてきていたのを知って、尊敬の思いが生まれました。
 計画を立てるということについては、それに縛られてしまうのでしたくないという方や私たちは神様のご計画の中に生かされているのだから、自分で計画を立てることは神様のみこころに反すると考える人もいます。
 確かにそうかもしれません。けれども、私たちが計画を立ててもそれが誤ったものであれば神様はいつでも修正することができると考えるならば、自分の人生計画を立てるということは決して悪いことではないと私は考えるのです。
 むしろ、計画を立てようとしてもなかなか立てることができなかったり、せっかく進み出した計画を途中で投げ出してしまったりする自分の意志の弱さにがっかりさせられます。
 千里の道も一歩からとありますが、祈りつつ自分の人生の計画を立て、祈りつつその計画を進めていくならば、私たちの歩みはより充実したものとされるのではないでしょうか。
 新型コロナウイルスの感染が拡がる中、私たちの行動も制限せざるを得ない状況にありますが、こんな時こそ与えられた時間を用いながら、残されたこの地上の歩みをどう生きるかということに深く思いを向け、祈りつつ、神様の導きを求めることができるのではないでしょうか。共に主のみこころを求めていきましょう。

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2020年12月27日(日)

2020年も今日が最後の礼拝となりました。今年は言うまでもなく、新型コロナウイルスの感染に世界中が振り回された1年でした。

あるテレビコメンテーターが今年を「望」という文字で表わしていました。この文字の前に「失う」という文字を置けば「失望」になり、希という文字を置けば「希望」になって、正反対の意味を持つ文字が生まれるのです。
大型クルーズ船で新型コロナウイルスの感染者が見つかった日以来、ニュースでは何人の人が新型ウイルスに感染したかが報じられ、その数が徐々に増える度に、人々の心にはいつ自分が感染するかもしれないという恐怖と共に「失望」が広がってきているように思います。
ただ、その失望はいつまでも続くものではありません。希望に代わる瞬間も用意されているのです。世の人は、それをワクチンが開発される時だと言ったりします。しかしそれが希望なのかどうかは定かではありません。やはり本当の希望は人からではなく、神様から来るものだと私は思うのです。
未だに「ウイルスに勝とう」という言葉を口にされる方がいます。しかし、今の世界の現状を見る時に、私たちはウイルスに勝つだけの力を持っていないということを認めざるを得ないのです。そして、そのような私たちには失望を希望に変える力を持ち合わせてはいないのです。
私たちにそれが「いつ」になるかは分かりません。でも、神様はいたずらにその時を長引かせるお方でもありません。私たちは今の状況を憂いながらも、神様が真の希望をもたらしてくださることを信じて、心を合わせて祈っていきたいと思うのです。