​牧師コラム

2021年1月17日(日)

砂の上に建物を建てることは愚かなことだ。ということは誰にも分かることです。けれども、内灘聖書教会で牧師をなされていた横山先生がある時に、うちの教会は砂の上に建っているのですよ。と言われているのを聞いて驚きましたが、それは本当に特殊な事だと思います。
イエス様は特殊な例を話されているのではなく、聞き手が比較しやすいように、岩の上に建つ家と土地の上に立つ家の話をされています。イエス様がこのたとえを通して教えておられるのは、信仰者の生き方なのです。
岩の上に建てられた家も地面にそのまま建てられた家も、外見からは分からないように、信仰者も外見だけではその信仰の面について計り知ることはできないのです。
けれども、岩の上に建てられた家と地面に建てられた家の違いはずっと分からないままかというとそうではありません。災いが襲って来ると分かるようになるのです。そして、このことは信仰者においても同じです。真の信仰を持っている人とそうでない人は、その時に明らかにされるのです。
イエス様が指摘されている「土台が無い」と言われる状態は、みことばを聞いてもそれを聞くということで終わらせてしまっている状態のことです。ですから反対に、土台があるというのはみことばを受け止め、それを行いに移すことなのです。
だからこそ、イエス様は弟子たちに繰り返し「聞き方に注意しなさい」と語られたのです。
 私たちはみことばをどのように聞いているでしょうか。みことばを聞き、それを行うということが土台となっているでしょうか。

2021年1月10日(日)

悪い木からは悪い実が実り、良い木からは良い実が実る。木の善し悪しは実を見れば分かる。とイエス様は言われました。これは至極当たり前のことですが、このことが私たちについて語られたことであるということを考える時に、その意味については考えさせられます。
長野県で牧会をしていた時に、初めて干し柿を作りました。柿には甘柿と渋柿がありますが、干し柿は渋柿を使うということをその時初めて知りました。干し柿を作りたい人はわざわざ渋柿の木を庭に植えていました。
けれども、私のように外から見ている者には、家に植えられている木が甘柿の木なのか渋柿の木なのかということは、なかなか見分けることはできませんでした。けれども、どんなにたくさんの実を付けたとしても渋柿の木には渋柿しかなりませんし、それは甘柿の木でも同じことなのです。
木の本質は、目に見える実によって判断される。まさに、これが私たちに適用されるというのは、私たちの本質というものは言動になって表に現われてくるものですあるということを教えているのです。
もしも目に見えている事柄の中で悪いという部分があるならば、その部分だけというよりも、その人の内面が問われるということになるのです。
どんなに取り繕ったとしても、心が変わらない限り、ほろこびは表に出てきてしまうものではないでしょうか。イエス様がくださる救いは、私たちの心に大きな変革をもたらし、私たちに良いものを生み出させる力を与えてくれるものなのです。あなたはその力を経験されているでしょうか。

 

2021年1月3日(日)

一年の計は元旦にあり。という言葉があるように、今年1年間をどのように歩むかということについて考えることは大切なことであると思います。
神学校時代に、教師であって一人の先生がご自分の生涯に渡る人生設計を立てておられ、ほぼその通りに歩まれてきていたのを知って、尊敬の思いが生まれました。
 計画を立てるということについては、それに縛られてしまうのでしたくないという方や私たちは神様のご計画の中に生かされているのだから、自分で計画を立てることは神様のみこころに反すると考える人もいます。
 確かにそうかもしれません。けれども、私たちが計画を立ててもそれが誤ったものであれば神様はいつでも修正することができると考えるならば、自分の人生計画を立てるということは決して悪いことではないと私は考えるのです。
 むしろ、計画を立てようとしてもなかなか立てることができなかったり、せっかく進み出した計画を途中で投げ出してしまったりする自分の意志の弱さにがっかりさせられます。
 千里の道も一歩からとありますが、祈りつつ自分の人生の計画を立て、祈りつつその計画を進めていくならば、私たちの歩みはより充実したものとされるのではないでしょうか。
 新型コロナウイルスの感染が拡がる中、私たちの行動も制限せざるを得ない状況にありますが、こんな時こそ与えられた時間を用いながら、残されたこの地上の歩みをどう生きるかということに深く思いを向け、祈りつつ、神様の導きを求めることができるのではないでしょうか。共に主のみこころを求めていきましょう。

2020年12月27日(日)

2020年も今日が最後の礼拝となりました。今年は言うまでもなく、新型コロナウイルスの感染に世界中が振り回された1年でした。

あるテレビコメンテーターが今年を「望」という文字で表わしていました。この文字の前に「失う」という文字を置けば「失望」になり、希という文字を置けば「希望」になって、正反対の意味を持つ文字が生まれるのです。
大型クルーズ船で新型コロナウイルスの感染者が見つかった日以来、ニュースでは何人の人が新型ウイルスに感染したかが報じられ、その数が徐々に増える度に、人々の心にはいつ自分が感染するかもしれないという恐怖と共に「失望」が広がってきているように思います。
ただ、その失望はいつまでも続くものではありません。希望に代わる瞬間も用意されているのです。世の人は、それをワクチンが開発される時だと言ったりします。しかしそれが希望なのかどうかは定かではありません。やはり本当の希望は人からではなく、神様から来るものだと私は思うのです。
未だに「ウイルスに勝とう」という言葉を口にされる方がいます。しかし、今の世界の現状を見る時に、私たちはウイルスに勝つだけの力を持っていないということを認めざるを得ないのです。そして、そのような私たちには失望を希望に変える力を持ち合わせてはいないのです。
私たちにそれが「いつ」になるかは分かりません。でも、神様はいたずらにその時を長引かせるお方でもありません。私たちは今の状況を憂いながらも、神様が真の希望をもたらしてくださることを信じて、心を合わせて祈っていきたいと思うのです。

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