​牧師コラム

2021年4月18日(日)

「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」幼子サムエルが神様に対して語った有名な言葉です。
 神様は自分勝手に生きているイスラエルの民に対しては沈黙を守られました。それは、民にみことばを語っても民がそれを拒絶したり、反抗したりすることが分かっておられたからです。
イエス様は、山上の説教の中で「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。」と言われましたけれども、神様はご自身をみことばに対して反抗的な態度を取る者には、沈黙を守られるのです。
 しかし、ずっとその状態を続けられるかというとそうではありません。神様はご自身の民に語りたいと願っておられますし、民がそのみことばに生きることによってご自身のもたらす祝福を受け取って欲しいと思っておられるからです。
サムエルの言葉には、私たちが神様の祝福を受けるための秘訣が示されています。それは聞く耳と心を持つということです。
 私たちはみことばを前にする時に「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」という心になっているでしょうか。この心無くして神様のおことばを理解したり、受け止めたりすることは難しいのです。
 聖書は難しいという声をしばしば耳にしますが、それは聖書そのものというよりも、みことばに触れる私たちの問題はないかと一度振り返って考えて見るべきではないでしょうか。
 しもべの心で主なる神様の御声に耳を傾けさせていただき、用意されている祝福にあずからせていただきたいと思うのです。

2021年4月11日(日)

 子どもに信仰の継承ができない時に、信仰を持つ親は悩み、自分を責めるのではないでしょうか。
 子どもは親とは別人格で、信仰を持つのは本人の問題であるということを聞けば少しは気が楽になるかも知れません。けれども、神様が信じる者の家系を祝されるということを知れば、子にも祝福が受け継がれていくことを願うのは親として当然のことではないでしょうか。
 今朝の箇所には、祭司エリの2人の息子のことが出て来ます。この2人の息子ホフニとピネハスは、エリの心を痛ませるような歩みをしていました。彼らはエリからその行動を注意されても改めることをしませんでした。
 何が問題なのでしょうか。勿論、エリの子どもたちへの甘やかしが生んだ悲劇とも理解することができますが、聖書には「彼らを殺すことが主のみこころだった」とあるのです。
なぜ、エリの子どもたちが父親の忠告を聞き入れなかったのか。ではなく、聞き入れられないようにと神様がなさったというのです。
 神様のみこころは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。しかし、神様の働きを拒み続ける時に、神様はそのような人をその欲望のままに歩むようにと引き渡され、神様の救いにあずかれないようにとされてしまうのです。
 恐ろしいことです。どうしたら、この恐ろしい結末を免れることができるでしょうか。その秘訣は、罪を放置するのではなく、示された罪があるならば、それをすぐに神様の御前に持って行き、悔い改めるということなのです。
 あなたは、神様から悔い改めを求められた時に、それに応じる素直な心を持っておられるでしょうか。

2021年4月4日(日)

 主イエス・キリストの復活を覚えて、主の御名を賛美します。今日主はよみがえられました。

 イエス様の復活。皆さんはこの出来事をどのように捕らえているでしょうか。本当に起こった出来事として捕らえておられるでしょうか。この問いは、イエス様のよみがえりを実際に経験した使徒たちには愚問でした。しかし、時間が経過する中で、弟子たちの中でも起こってきた問いでした。

 死んだ人がよみがえる。そのような出来事は、私たちの日常では到底考えられないことだからです。イエス様の弟子たちでさえ、最初はそうでした。けれども、イエス様が疑い深い弟子たちのもとに繰り返しご自身を現わされる中で、弟子たちも確信を持つようになったのです。

 イエス様は、懐疑心の塊であった弟子のトマスに、「見ないで信じる人たちは幸いです。」と言われました。

 見ないで信じる。まさにここに信仰が求められるということではないでしょうか。私たちは見える世界を大切にします。しかし、見えるものだけがすべてではありません。この世界には見えないものもたくさんあり、それを見えるようにするためには特殊なものが必要になってきます。

 イエス様を見るためにも必要なものがあります。それが信仰なのです。信仰は盲目になることではありません。事実で無いことを、事実であると自分に信じ込ませることではありません。

 求めていく時に心に与えられるものです。聖書に、信仰がなくては神様に喜ばれることはできません。とあります。私たちは神様に喜んでいただけるような信仰を持っているでしょうか。その信仰によって、今朝、神様の御前に出ているでしょうか。

2021年3月28日(日)

人はどのような時に慰めを受けるでしょうか。ある人は、自分と同じような仲間を見つけた時だと言います。確かにそうかもしれません。時々、教職者の集いで講師をお招きすることがありますが、その時に、成功話を聞かされてもあまり心には響いてきませんが、失敗談を聞くとそれによって慰められるということがよくあります。

今朝の箇所には、イエス様の弟子の中でリーダー的な存在であったペテロが、イエス様との関係を否定した場面です。イエス様が捕らえられる前は、ペテロはイエス様と一緒に死ぬことも厭わないと、威勢良く公言しました。しかし、実際にイエス様が捕らえられると、その威勢はどこかに飛んでいってしまい、ついにはイエス様との関係までも否定してしまったのです。

情けない。と思うかも知れません、しかし、私たちは自分に置き換えて考える時に自分も同じような失敗をしたにちがいないと思う時に、むしろペテロの姿に慰めを得るかも知れません。

しかし、ヨハネはペテロの姿を描きながら、信仰者はそれで良いのだというメッセージを伝えようとしている訳ではありません。私たちがペテロの姿と自分自身の姿を重ね合わせながら、その一方でイエス様はどうであったのか。イエス様がペテロをどのようなまなざしで見ておられたのか。ということに目を向けさせようとしているように思うのです。

なぜなら、そこにこそ本当の慰めを見出すことができるからです。小さな子どもが自分に愛の眼差しを向ける親を見上げて安心するように、私たちも私たちを見守ってくださるイエス様を見上げて歩むならば、その心には慰めや安心が与えられるのです。

2021年3月21日(日)

 時代を超えて読み続けられるべき良書が何冊もあります。私はその中の一冊として、J.I.パッカーという神学者が書かれた「神について」という本を挙げたいと思います。
 何回かの改訂を経て、今は「神を知ること」というタイトルで売られていますが、非常に深い洞察と示唆に富んだ本です。神様を知るということは、私たちが一生涯かけて行うことで、本で学ぶことはできない。という人もおられます。
 確かに言われていることは正しいのです。けれども神様を知るということに私たちはどれだけ積極的に向き合っているでしょうか。まさにJ.I.パッカーはその点についても著書を通して読者である信仰者に投げかけているのです。
 神様というお方を認めながらも、しかし、その神様の存在そのものを小さくしてしまっている現状はないだろうか。そう問われる時に、私たちは単なる知識としての神様理解ではなく、生きた神様との交わり、日常における体験というものを問われるのです。
 勿論行き過ぎた体験主義は、神秘主義を招くことになるので注意は必要ですが、しかし、知識の蓄積だけでは学問になってしまいます。学びつつ、その学んだ事が実際の信仰生活で確認されて行く時に、私たちの信仰の確信はより深まっていくのです。
 米国のサドルバック教会のリックウォーレン牧師が、私たちのこの地上の人生の大切な目的の1つが神様と知ることだと言っておられますが、私たちはどのように神様を知っているでしょうか。知識によってでしょうか。それとも経験によってでしょうか。そのどちらもが大切です。私たちが生ける神を告白することができますようにと願います。
まだ、読まれたことのない方は、是非、この機会にお読みください。お勧めいたします。

2021年3月7日(日)

 今日からサムエル記の講解が始まります。サムエル記は士師記の流れにありますが、その時代は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」という言葉で表現されています。
 王がなくとありますが、王はおられました。それは主なる神様です。けれども人々は、その主なる神様を見ようとしなかったし、民に神様を指し示すことのできる指導者もいなかったということでしょう。それゆえ、人は自分の価値基準に立って好き勝手に生きていたということなのです。
個人個人の思う所に立って、良しとするように行動するというのは、何とも今の時代に似ているように思わないでしょうか。

 物や事に対する考え方が相対化してしまい、絶対的な基準がなくなってしまう。だから大切なのはその人がどう考えるのか。ということに重点が置かれるのです。
しかし、人間とは絶対的に正しい判断ができるかと言えばそうではありません。いや常に間違いを犯し続ける。そういう存在です。ですから、そのような人間が各々の基準、価値観に従って歩もうとする時に、間違った方向に舵が切られるということが頻繁に起こるようになるのではないでしょうか。
 サムエル記は、人々が「自分の目に良いと見えることを行っていた」時代をそのまま引き継ぐのではなく、そのことを良しとされない神様によって、方向転換がなされていく、その様が描かれている書物だと言うことができます。
 私たちは、この書に登場する人々の姿を通して、人には絶対的な神様という存在が必要なのだ。ということを教えられるのです。個人主義の時代にあって、私たちもそのことを改めて確認させていただきたいと思うのです。

2021年2月28日(日)

 安心して行きなさい。イエス様が、自分の足に香油を塗ってくれた女性に言われた言葉です。イエス様に出会うまでの彼女の人生は、安心などありませんでした。「罪深い女」というレッテルを貼られ、常に人々の冷たい視線にさらされてきたことでしょう。
 しかし、その彼女がイエス様と出会い、信仰による救いを宣言を受けたのです。この宣言によって、人々の彼女への味方が変わったかどうかは分かりません。けれども、彼女の心には以前には考えられないような平安が与えられるのです。
 そして、この女性が経験した平安は、イエス様を信じるすべての者に与えられるものでもあるのです。
 私たちの平穏な日常は、薄氷の上にあると言っても良いでしょう。壊れやすいのです。何か1つでも歯車が違えば、途端に日常が非日常になってしまいます。そんな歩みのどこに私たちは平安を覚えることができるのでしょうか。
 残念ながら私自身の中にはそれを見出すことはできないのです。けれども、神様のひとり子であるイエス様にはそれができます。イエス様ご自身が「わたしの平安を与えます。」と言っておられるのです。
 私たちがこのイエス様のおことばを握る時に、この世のものによって得られる平安とは別の平安をいただくのです。
あなたは何によって平安を得ておられるでしょうか。安心して行きなさいと言ってくださるイエス様のおことばを握りつつ、今週の歩みをスタートさせていきましょう。

2021年2月21日(日)

2020東京オリンピックの組織委員会の会長をされていた森氏が辞任されました。足かけ8年に渡って、先頭に立ってオリンピックの準備をなされてきたはずなのに、半年前に職を辞さなければならないというのは本当に悔やまれることだったのではないかと思います。
 しかし、その一方で、置かれている立場を自覚せずに、ふさわしくない言動をするならば、大きな代償を払うことになる。ということを教えられるのです。
 神の人モーセもそうでした。彼はエジプトを脱出してから38年にも渡りイスラエルの民を導いた指導者でした。ところが、カナンの地を目前にしながら、彼は自分の犯してしまった失敗のゆえに、カナンの地に入ることができずに死を迎えるのです。
 出エジプト記、民数記、申命記に記されているモーセの苦労を知る人は、神様は、なぜ、モーセを約束の地で死なせてやらなかったのか。あれほど貢献した人物であるのに。たった1回の失敗なのに、なぜ、それをそれほど問題視されるのか。そんな風に思うかも知れません。
 また、神様に対しては、なんと非情なお方なのだろうか。という思いが出て来ます。愛であるお方なのに、ひどすぎるのではないかと、モーセを擁護したくもなるのです。
 でも、私たちはモーセや失敗によって立場を追われてしまった人たちの姿から学ぶ必要もあるのです。なぜなら、口で失敗を犯さない人は一人もいないからです。
「口は災いの元」という言葉もありますが、私たちは神の子という身分をいただいているものとして、どのような言動をすることが最善なのか。ということをいつも頭の片隅に置きながら、実践していくという姿勢を持ちたいものです。もしも私たちがこの点で訓練され、整えられていくならば、言葉によっても、行いによっても、キリストの良き香りを放つ存在となるのです。

2021年2月14日(日)

日本のキリスト教会が負うべき戦争責任と言われる時に、皆さんはどのようなことを想像するでしょうか。今回のJECA関東四地区2.11集会では、長年オランダのライデン大学で教鞭をとられた村岡宗光先生が、インターネットを通じて「戦後の日本のキリスト教会が負うべき戦争責任」という題でお語りくださいました。
 村岡先生ご自身も戦争を経験されたお一人です。しかし、それはまだ小学生の時のことで、戦時中に日本兵がどのようなことをしたのかということについては、オランダに行かれてからのことであったようです。
 知れば知るほど、先生は、日本の軍隊が行った行為に心を痛められたそうです。そして償いの思いから自分にできることをしたいということで、日本が植民地化したアジアの各地を訪れ、無償でご自分の専門を教えるという活動を今日まで続けて来られました。
 先生の講演は、数回の休憩を挟みながらではありましたが、非常に熱のこもったものでした。その熱は、ご自分が知り得たことを是非後代に伝えたいという思いから生まれたものであろうと思いますが、私もその先生の熱意に引き込まれた3時間でした。
 個人が学び、知り得たことが、分かち合われることは大きな益をもたらしてくれます。私もこれまで教会の戦争責任について少なからず関心を持ってきましたが、今回の講演によって新たに知り得たことを多くあると共に、戦後76年が過ぎたのにも関わらず教会という視点から考えても、私たちは悔い改めるべきことを悔い改めないまま、今日を迎えているということを教えられました。
 なかなか機会が無いと聞くことのできない骨太の講演内容だと思います。まだ聞くこともできますので、是非、多くの方々に聞いていただきたいと思います。

2021年2月7日(日)

この世には富む者がいる一方で、貧しい者がいます。バプテスマのヨハネの弟子たちから、あなたは「おいでになるはずのお方ですか」と尋ねられた時に、ご自身がなされている御業を挙げ、ご自身が旧約聖書で約束された救い主であることを明らかにされました。
特にイエス様が御業を挙げられる中で、最後に「貧しい者たちに福音が伝えられている」ことを挙げられたのは、そこに福音の中心があったからだと言われます。
貧しい者のため。こういうことを聞くと「全てのクリスチャンは貧しく暮らすべきだ」と主張が起こってきます。これを貧困の神学と言います。この観点が強いクリスチャンはリッチな暮らしをするクリスチャンたちを極端に妬み嫌い、批判するのです。

 しかし、その一方で聖書は信仰者の繁栄についても語っています。ですから、そちらに目を留める人たちは、繁栄の神学というものを主張するのです。
聖書を極端に理解する時に、偏った捉え方をしてしまうのが私たちですが、聖書を注意深く読む時に、キリスト者たちの中にあえて貧しくなることを選んだ人たちもいれば、反対に多くの富を持ち、それを用いてイエス様の働きを助けた人たちがいたということに気づかされるのです。
 大切なことは、富むのか。貧しくなるのか。ではなく、その立場に神様が置かれたことの意味を悟り、その立場で主のために仕えようとするのか。どうかということにあるように思うのです。
 富んでいるか。貧しいのか。そういうことで、私たちが神様に、信仰に、躓くことがないようにしたいものです。どのような環境にあっても、神様は私たちの必要をご存じで、満たしてくださるお方なのですから、委ねながら、主に仕えていきましょう。

2021年1月17日(日)

砂の上に建物を建てることは愚かなことだ。ということは誰にも分かることです。けれども、内灘聖書教会で牧師をなされていた横山先生がある時に、うちの教会は砂の上に建っているのですよ。と言われているのを聞いて驚きましたが、それは本当に特殊な事だと思います。
イエス様は特殊な例を話されているのではなく、聞き手が比較しやすいように、岩の上に建つ家と土地の上に立つ家の話をされています。イエス様がこのたとえを通して教えておられるのは、信仰者の生き方なのです。
岩の上に建てられた家も地面にそのまま建てられた家も、外見からは分からないように、信仰者も外見だけではその信仰の面について計り知ることはできないのです。
けれども、岩の上に建てられた家と地面に建てられた家の違いはずっと分からないままかというとそうではありません。災いが襲って来ると分かるようになるのです。そして、このことは信仰者においても同じです。真の信仰を持っている人とそうでない人は、その時に明らかにされるのです。
イエス様が指摘されている「土台が無い」と言われる状態は、みことばを聞いてもそれを聞くということで終わらせてしまっている状態のことです。ですから反対に、土台があるというのはみことばを受け止め、それを行いに移すことなのです。
だからこそ、イエス様は弟子たちに繰り返し「聞き方に注意しなさい」と語られたのです。
 私たちはみことばをどのように聞いているでしょうか。みことばを聞き、それを行うということが土台となっているでしょうか。

2021年1月10日(日)

悪い木からは悪い実が実り、良い木からは良い実が実る。木の善し悪しは実を見れば分かる。とイエス様は言われました。これは至極当たり前のことですが、このことが私たちについて語られたことであるということを考える時に、その意味については考えさせられます。
長野県で牧会をしていた時に、初めて干し柿を作りました。柿には甘柿と渋柿がありますが、干し柿は渋柿を使うということをその時初めて知りました。干し柿を作りたい人はわざわざ渋柿の木を庭に植えていました。
けれども、私のように外から見ている者には、家に植えられている木が甘柿の木なのか渋柿の木なのかということは、なかなか見分けることはできませんでした。けれども、どんなにたくさんの実を付けたとしても渋柿の木には渋柿しかなりませんし、それは甘柿の木でも同じことなのです。
木の本質は、目に見える実によって判断される。まさに、これが私たちに適用されるというのは、私たちの本質というものは言動になって表に現われてくるものですあるということを教えているのです。
もしも目に見えている事柄の中で悪いという部分があるならば、その部分だけというよりも、その人の内面が問われるということになるのです。
どんなに取り繕ったとしても、心が変わらない限り、ほろこびは表に出てきてしまうものではないでしょうか。イエス様がくださる救いは、私たちの心に大きな変革をもたらし、私たちに良いものを生み出させる力を与えてくれるものなのです。あなたはその力を経験されているでしょうか。

 

2021年1月3日(日)

一年の計は元旦にあり。という言葉があるように、今年1年間をどのように歩むかということについて考えることは大切なことであると思います。
神学校時代に、教師であって一人の先生がご自分の生涯に渡る人生設計を立てておられ、ほぼその通りに歩まれてきていたのを知って、尊敬の思いが生まれました。
 計画を立てるということについては、それに縛られてしまうのでしたくないという方や私たちは神様のご計画の中に生かされているのだから、自分で計画を立てることは神様のみこころに反すると考える人もいます。
 確かにそうかもしれません。けれども、私たちが計画を立ててもそれが誤ったものであれば神様はいつでも修正することができると考えるならば、自分の人生計画を立てるということは決して悪いことではないと私は考えるのです。
 むしろ、計画を立てようとしてもなかなか立てることができなかったり、せっかく進み出した計画を途中で投げ出してしまったりする自分の意志の弱さにがっかりさせられます。
 千里の道も一歩からとありますが、祈りつつ自分の人生の計画を立て、祈りつつその計画を進めていくならば、私たちの歩みはより充実したものとされるのではないでしょうか。
 新型コロナウイルスの感染が拡がる中、私たちの行動も制限せざるを得ない状況にありますが、こんな時こそ与えられた時間を用いながら、残されたこの地上の歩みをどう生きるかということに深く思いを向け、祈りつつ、神様の導きを求めることができるのではないでしょうか。共に主のみこころを求めていきましょう。

2020年12月27日(日)

2020年も今日が最後の礼拝となりました。今年は言うまでもなく、新型コロナウイルスの感染に世界中が振り回された1年でした。

あるテレビコメンテーターが今年を「望」という文字で表わしていました。この文字の前に「失う」という文字を置けば「失望」になり、希という文字を置けば「希望」になって、正反対の意味を持つ文字が生まれるのです。
大型クルーズ船で新型コロナウイルスの感染者が見つかった日以来、ニュースでは何人の人が新型ウイルスに感染したかが報じられ、その数が徐々に増える度に、人々の心にはいつ自分が感染するかもしれないという恐怖と共に「失望」が広がってきているように思います。
ただ、その失望はいつまでも続くものではありません。希望に代わる瞬間も用意されているのです。世の人は、それをワクチンが開発される時だと言ったりします。しかしそれが希望なのかどうかは定かではありません。やはり本当の希望は人からではなく、神様から来るものだと私は思うのです。
未だに「ウイルスに勝とう」という言葉を口にされる方がいます。しかし、今の世界の現状を見る時に、私たちはウイルスに勝つだけの力を持っていないということを認めざるを得ないのです。そして、そのような私たちには失望を希望に変える力を持ち合わせてはいないのです。
私たちにそれが「いつ」になるかは分かりません。でも、神様はいたずらにその時を長引かせるお方でもありません。私たちは今の状況を憂いながらも、神様が真の希望をもたらしてくださることを信じて、心を合わせて祈っていきたいと思うのです。

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