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「あなたの動機を見られる神」*ルカ6章43〜46節

更新日:2023年1月27日


ルカ6章43〜45節より「心から溢れ出る言葉」と題してメッセージ


❶言動を見れば、その人の心が分かる


 43節「良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。」

イエス様は実の良し悪しはその木自身の持つ性質で決まると言われました。

 植物におけるルールを私たちの信仰生活に適応させてお語りになられたのです。

 心とそこから出る行いについて、それは直結しており、どんな心を持っているかが、そのまま行いに反映されてくると言われました。

 マタイ15章19節に「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出てくるからです。」とあります。


心は見えませんが、目に見えてくる「行い」によって知ることができるのです。

木が良ければ、良い実を結び、心が良ければ、それは良い行いとなって出てきます。

これは信仰にも適応でき「信仰には行いが必要である」ということがわかります。

いくら「キリスト教信仰がある」といっても行いに表れて来ないなら、それは死んでいるも同然であり、ヤコブ2章17節「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」の通りということになります。


先週配布されたGeorge Whitefield 牧師の15の質問の資料は、心責められる問いでもありますが、本当に自分には信仰があるのか吟味される良い機会であると思います。出来ていないと思うこともあると思いますが、しかし、これを持ち歩き、できない現実から「どうしたらこの質問に応える歩みができるのか、昨日も今日もいつまでも変わらないと言われるイエス様とどうしたら、いつも語り合い、どのようにしたらこの現状を克服できるのか」自問自答する中で、成長させられる信仰のあゆみとされたいです。


15のチェックリストを部屋に貼ったり、持ち歩けるようにと、早速素敵に作ってくださった方からのものをこちらに・・・・。


信仰生活を保つというのは戦いです。なぜなら、試練が伴うからです。

信仰と現実の狭間に問題があり、また、この世の価値観や経験に流されることが多々あり、どうやって、その中で神を信じる信仰者として生きるべきか、様々な誘惑・悩みがあるからです。信仰の先輩が投げかけてくださるこのような質問に真摯に向き合い、いかに主に喜ばれる歩みができるように成長させられていくか。


ガラテヤには信仰の実についての聖句があります。

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」

この実は、年数が経てば自然と実るかというと、答えはNoです。

いくら礼拝や祈祷会に出席し、さらには奉仕をしていても、実を実らせる木自体の本質が変えられなければ、そこに省察・悔い改めによる気付き、主を仰ぐ歩みがなければ、一向に豊かな実は実らないのです。


44節に、「木はそれぞれの実によって分かります。」とあります。

信仰によって出てくる行いにより、あなたの信仰の良い、悪いが判断されるというのです。

洗礼を受ければそれで良い、信仰に良し悪しなどない、信じてるだけで十分。とそこにとどまるのでなく、一日一日を、少しずつでも前に一歩前進してゆくこと。そうやって神に近づき、日々主に似たものと変えられて行くことを主が願っておられるのです。

「信仰の創始者であるイエスから目を離さないでいなさい。」


「人を見分けるためには、その行いを調べれば良い。信仰の態度がそのままその人を表している」では、信仰生活の中心は何でしょうか?


「信仰生活」の中心は、「教会生活」に置き換えることができます。

神様がこの天地創造の7日目を安息日とされ、クリスチャンが安息日を日曜日と定めて、この日は主の日として聖別され、主を礼拝するために設けられています。日曜日のゴールデンタイムになぜ礼拝があるのか。生活の中心に主を見上げ、主に心を向けることは私たちにとって大きな意味があります。


日曜日をどのように捉えるか、それは、その人の信仰、その人の心の表れなのです。

神が私のために、大切なひとり子イエス様を犠牲にしてくださった。

それが分かったら、私の都合や用事、予定が大事と言えるか。

ほどほどの信仰生活、いい加減な生活では、洗礼を受けたといっても誰がそこに信仰を見出すことができるか、信仰は内側でとどまっておくものでなく、ダイナマイトのような力で表に出てくるもの・・・。改めて考えさせられたことでした。


❷日々神さまを賛美するものとされよう


45節「良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。人の口は心に満ちていることを話すからです」


心から「行い」が出るように、「言葉」も心の産物であり、その人を見極める手がかりとなります。言葉は偽りやすいものであり、でまかせが出ることもあり、必ずしも、その人の言葉が心を表しているとは言えませんが、それでも、その人の口から出る言葉の所々に、本音が出てくるというのも事実です。


キリスト教信仰はいつも「心」を問題にしています。私たちの信仰は心の奥深くに及び、その心を完全に新しくしようとするものです。キリスト教信仰はただ行いが変化し、言葉が改まるといった表面的な変化でなく、私たちが内面を問われ、それが行動に出てくる、つまり、私たちの真の動機は何であるかを考えさせるようになることです。


私は、何のために生き、何を目的としているのか。何が動機で今の生き方をしているのか。その答えを持っているのは、私の造り主であられる神様だけであり、その神様に問いかけ、悟らせていただこうとする。


ある先生が、「神様に私の成すことを受け入れていただくには動機が大切である」といわれたそうです。救われたことへの感謝として行った行為、神様はその行為の背後にある動機に目を留め、受け入れてくださるということ。


カインとアベルを思い出します。神様はカインの捧げ物には目をとめず、アベルの捧げ物を受け取られました。


神様は、この二人の礼拝の動機をみられたのです。「人はうわべを見るが、神は心を見る」のみことばのように、本当に礼拝のためにきたのか。あるいはそれは、義理であり責任であり、習慣であるからなのか。

ある人の礼拝は受け入れられ、ある人の礼拝は受け入れられない。ということも起こるということなのです。


どうしたら、神の求められる礼拝を私たちは捧げることができるのでしょうか。

第二コリント5章17節に、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」とあります。


教会は救われた人に、主の権威のもとに洗礼を授けます。多くが浸礼、全身を水に沈める方法を取りますが、これは洗礼の意味をよく表しています。洗礼槽の水は生死の境を表し、水の中に沈められ、起こされるというのは、古い自分に死んで、新しい自分によみがえるということの象徴です。


もしも救われたのに自分のうちに新しくされた思いや経験がないならば、まず、それを主に求めて行くことが必要であり、それを経験することは自分の行いを吟味する行為につながっていきます。自分の行為を吟味することができるようになれば、日々偽りのない歩みをすることができ、その結果、私たちの口から、救いを与えてくださった神様への賛美と感謝が溢れ出るようになるのです。


主に心からの礼拝と賛美感謝を捧げてゆく、信仰の歩みを強められていきたいです。


「わたしを尊ぶものを、わたしは尊ぶ。」第一サムエル記2章30節

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