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鈍い心*マルコ8章14〜21節(小幡塁師)


本日の礼拝は、今年度の私たちの教会と姉妹教会である菅キリスト教会との講壇交換で、小幡塁先生がご奉仕くださいました。「まだ悟らないのですか」と題してマルコ8章14〜21節よりメッセージをいただきました。


私たち人間は、皆、鈍感な部分を持っています。人間である以上仕方のないことであります。しかし致命的なものは、霊的な盲目、霊的な鈍感さです。神様が示してくださる真偽について気づかない、いや自分が気づいていないということにすら気づかない。そのような鈍さについてイエス様は今日の箇所で厳しく言及されています。


前の節の13節を見ると「イエスは彼らから離れ、再び舟に乗って向こう岸へ行かれた。」とあります。弟子たちとガリラヤ湖を舟で渡り、旅をされたイエス様。その中で、弟子たちに警告・注意をされたということがわかります。

イエス様は15節で、当時の宗教指導者の最大派閥であるパリサイ人たちや、ガリラヤ地方の領主でもあったヘロデ王について、彼らのパン種には気をつけよと「命じ」られました。

ただ語ったのではない、命じられたという言葉に、イエス様の強い危惧を、思いを、知らされるのです。


パリサイ人たちは、イエス様をメシヤとして信じ受け入れることなく、頑なな心を持って、イエス様に常に向かっていきました。直前の箇所(11節)でも、イエス様を試して、しるしを見せよとイエス様を挑発している姿があります。

その彼らに対して、イエス様は挑発にのらず、心の中で深いため息をつかれ、彼らの頑なさ・霊的盲目な様子にうんざりして、そして弟子たちに、この霊的鈍感さがパン種のように伝染しないようにと注意を促されたのでした。


私たちは、このように聞く時に、イエス様についてきた弟子たちはパリサイ人たちとは全く違うのでは?それなのに?と考えます。しかし、忘れてならないのは、ここにはやがてイエス様を裏切り売ったイスカリオテのユダもいたということです。

イエス様に近いからと言って、パリサイ人のような盲目さは伝染しないとは限らない。そのことを肝に銘じねばとイエス様は命じられたのでした。


そしてそのイエス様の懸念は当たっていました。

イエス様に注意された弟子たちは、イエス様が言われたのは、「舟にパンを一つしか持ってきていない」からだと、お互いに議論し始めたのです。(16節)

この12人の弟子たちの様子は、なんだかコミカルだったかも。。。と小幡先生。「お前がパンを持ってこないからだろう。」「お前だろう」とそんな言い合いだったのでしょうか。

そして、このような勘違いは、彼らの霊的な盲目さを露呈してしまいました。


イエス様は、彼らに対して、畳み掛けるように疑問文で問いかけられてゆくのです。

「なぜパンを持っていないことについて議論しているのですか。

まだ、わからないのですか。

悟らないのですか。

心を頑なにしているのですか。

目があっても見ないのですか。

あなたがたは覚えていないのですか。

5千人の給食の時に幾つのかごがいっぱいになりましたか。

4千人の給食の時には幾つのかごがいっぱいになりましたか。」


矢継ぎ早に質問されるイエス様を改めて想像しました。胸がいっぱいになりました。

ずっと弟子たちと一緒に行動されていたイエス様。いくつもの奇跡を弟子たちの前でも行われました。

イエス様は、この時彼らに「なぜ信じないのか?」とは言われなかったのです。

奇跡を沢山見て、経験して、弟子たちは「イエスが神の子である」という客観的なエビデンス・証拠を十分に目にし、それを悟るだけの材料に満ちていたのに、

目の前にパンがあるのかないのかそんなことで議論して・・・。

「わたしがいるのに、なんでパンがないと議論するのか?」イエス様は彼らの霊的な頑なさを嘆いて指摘されたのでした。


5千人の人々、あるいは4千人の人々。彼らをほんのわずかなパンと魚で満たし、満腹してさらに余りあるほどのものを与えられたイエス様。イエス様はパンもそうですが、全てのものを創造された神様ご自身であり、それを霊的な盲目さで悟ることができなかった弟子たちに対して、彼らはパリサイ人のように敵対心は持っていないが、心の頑なさが、悟ることを邪魔しているということをイエス様は厳しく指摘されたのでした。


弟子たちと同じように、私たちも深刻な霊的盲目さを持っているということ。

日曜日に主を礼拝し、水曜日には祈祷会で祈り、さらに日々のデボーションで養いを受けて、弟子たちのように主の近くにいるかもしれない。

しかし、イエス様の近くにいるからといって、盲目でないとは限らないということ。

イエス様はそのことを危惧されるのだということ。

イエス様の価値観でないものが私たちを支配し、イエス様ご自身の方に目を向けるのでなく、目の前のものにとらわれてしまうならば、それは悟るということから程遠い状態であるということ。


このイエス様の言葉の後の22節に、イエス様が目の見えない人を癒された事が記されています。イエス様は、この目の見えない人の両目に唾をつけて、その上に両手を当てて癒されました。しかし、一度では完全に癒されず、イエス様が再び両手を彼の両目に当てることによって癒されていきました。これは非常に珍しいですねと小幡先生が言われました。イエス様の癒しの記事を読みますと大抵は一発で癒されている。しかし、ここでは段階を経てイエス様が丁寧に癒しを行なわれているのです。

まるで、これは私たちの頑な心に対して、霊的な盲目に対してされるかのように。。。

本当に頑なな心。イエス様の前にあっても、こびりついたような固い鈍いどうしようもないような心。

このことに関して厳粛に私たちは受け取り、主の前にでて示され、癒しを頂いていかねばならないことを、示されました。


29節で、イエス様が弟子たちに対して「あなたがたは、わたしを誰だといいますか。」と聞かれます。ここでペテロが答えます。「あなたはキリストです。」と。

心の頑なさゆえに、鈍さゆえにイエス様を悲しませ、うんざりさせたような弟子たちとペテロ。しかし、ここでペテロの霊の目が開かれ、このような主を喜ばせる信仰告白へと導かれています。これは私たちの希望であり、霊的盲目にある私達も、主を呼び求め、主に求めるときに、主は霊の目を開いてくださり、癒しを頂いていけるのだと、そのように語られました。


新たに与えられる今週一週間。この霊の目を主が開き、主が喜ばれる歩みを成してゆくことができるように助けてくださいますように。尊いみことばのご奉仕に心から感謝します!


子ども日曜学校は、「種まきのたとえ」よりお話。工作はマツボックリでハリネズミを作りました。😁来週はマツボックリでお家を製作します!お楽しみに!


「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主はあなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか。ミカ書6章8節」聖書

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