
先週ははっきり大きな虹がかかりました。約束の虹を思いしばらく見入ったことでした❣️
今朝は第一礼拝の中で献児式がありました。かわいい赤ちゃん。今まで一番小さかった子も赤ちゃんのかわいい顔を覗きに行ってすっかりお姉ちゃんのお顔です。ニコニコ笑ったりお話ししたりの赤ちゃん。教会で神と人とに愛されてすくすく成長して行きますように。ご家族の上にも主の豊かな導きと守りがありますようにお祈りします❣️

CSでは新聞紙を折ったり、破ったり、音楽に合わせてそれで身体を動かしたり、楽しかったですね。工作はポップアップカードを作りました。お話は、先週の礼拝のマリアさんのところから。神様がくださる導きは、とても難しいと感じたとしても、信仰を持って従い歩み出すときに素晴らしい祝福へと導かれていくのだと先生の真剣なお話に皆よく聞き入っていました。大人も励まされました。
さて礼拝のメッセージは「その名はイエス」と題して語られました。
❶イエスという名について
結婚する前であったマリアに、31節で御使いは「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と言います。
救い主イエス様の誕生が、人の方法ではなく、神の方法で生まれたということをここで改めて教えられます。全地全能の神が、お考えになり、成就された方法。とても人間には理解できないようなことです。人間は、神が成されることをただ受け止めるだけしかできない受け身の存在であることを思わされます。
そして、救い主の誕生とは、預言者たちを通して数千年告げられていたことであり、それがここで成就したのでした。この救い主赤ちゃんには、神から与えられた、神が決められた特別な名が天使によって告げられていました。「イエス」。驚くことに、これは当時では、ありふれた名前であり、旧約にでてくるヘブル語「ヨシュア」からのギリシャ語「イエス」であったのです。

私たちは、偉大な人がいたら、その名にあやかって名付けたりしますが、ヨシュアのように生きてほしいという願いを込めて、子どもにその名をつける人が当時も多くいました。「イエス」という名には救いという意味がありますが、救い主にしては、ありきたりな名前と言っても過言ではなく、ギネスブックにのるような独特な名前ではなかった。
このように名を告げられた「救い主赤ちゃん」をマリアは胎に宿したのでした。
❷大いなる者であり、いと高き方の子であるということ
15節を見ると、ヨハネについて「その子は主の御前に大いなる者となる」とあります。
しかし32節には、イエス様について「その子は大いなるものとなり、いと高き方の子と呼ばれる。」と告げられているのです。
つまり、イエス様は生まれた時から大いなる方であり、天の神様と同じ性質を持っておられる方であるということを聖書は教え、マリアに対して、生まれてくる子が「神の子」であるということを教えていることがわかるのです。人の目から見たら母から生まれた肉の子であるが、しかし、この方は他の子と違うのだと、神そのものなのだと聖書が繰り返し語っていることに気づきます。
ここにおいても、また先週のメッセージを通しても当時のユダヤの社会の中で、このような状況に置かれるマリアのリスクはいかばかりかと想像させられたことですが、今日は、この神であられる大いなる方救い主キリストが一体全体どうして、この様なリスクを負ってマリアの子として、胎に宿らねばならなかったのだろうと、そこに焦点が当てられました。
ちょうど今日はかわいい赤ちゃんの献児式でしたから、私たちは赤ちゃんが全ての意味で受身であり、人に依存して生きるしかない弱く頼りない存在であることを改めて思った訳ですが、神であられる方が救い主として世にくるならば、青年として世にきても良かった訳です。さらには王家の子として、クレオパトラの子として生まれても良かった訳です。私たち人間はそう考えます。
しかし、イエス様は全てにおいて受け身という形を取られ、他者のいのちの中で育まれなければならないという環境に身を置いてくださった。「わたしは在りて在るもの」と言われる自主自立のお方が、人に依存して生まれる形をなぜとってくださったのか。それも貧しいマリアの子として。
ここで、神であられるイエス様が、人間の弱さを分かってくださる、分かろうとして下さる救い主であり、そこまで低く降りてきてくださったことを覚えるのです。このお方が私たちのために世に来て、共に住み、慰め、励まし、いつも一番弱い者のところに近づいてくださった。そして最後には十字架にかかり、死んで、よみがえってくださった。そのことを覚えるのです。
❸素晴らしい王
33節で「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」とあります。「治める」「支配する」とは王について使われる言葉ですが、救い主イエス様が、人を圧迫するような支配をされないこと、王は人に仕えさせるが、イエス様は人のために仕える王であったことを思います。
師であり、仕えられて当たり前のお方が、12弟子の汚れた足を黙って洗われたそのお姿を思います。どうしてここまでへりくだることができるのか。「神の謙遜」という言葉が語られました。
人は往々にして、力・権力・強さを欲し、他者を圧迫して支配することを求めます。
それは家庭や職場、教会においても見られることがあり、力を持って立場を強くし自分の意見を通そうと、立場を強くとする。しかし、神であり王であられるイエス様は力ではなく、愛で、強さではなく弱さで、威圧するのではなく謙遜さで私たちを治めてくださったのでした。
ヤコブの家と33節にありますが、これは民族としてのユダヤ人ではなく、聖書が教える救いを受け入れた人々「残りの民」であること。
ある先生の言葉が紹介されました。「クリスマスになると人々は大騒ぎをして町は賑わう。しかし、クリスマスにすべきことは、自分は本当に『残りの民』とされているのかを吟味するのがこの期間なのだ」
創世記の原始福音に始まり、エデンの園で人に罪が入ってから、この罪の支配下に置かれてしまった人間に対して、神様は預言者を次々と送り、やがて救い主が来ると語られました。
時が過ぎる中で、救い主は来ないではないか・・とそう思っていた約2000年前に
キリストがこの世に来てくださったのです。それで、人々は大喜びでキリストを迎えたかというとヨハネ1章11節にはこう書かれています。
「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」
その時ベツレヘムは、住民登録をする人々でごった返していました。しかしヨセフとマリアが泊まる宿はなく、イエス様はベツレヘムの片隅の馬小屋のようなところで、ひっそりと生まれてくださったのです。
数千年も預言されていたのに、知らされたのは、野原にいた羊飼いたちだけ。御使いからよき知らせを聞いた彼らがベツレヘムのイエス様を探して礼拝に来たのでした。
このクリスマスを祝い続けて2000年もの年月が経ちました。
しかし、人々がイエス様を受けていれているかというと、今も拒み続けている。
私たちは自分が「残りの民」とされているかということをよく吟味し、よき知らせを伝えつつ、さらに神のみ前に静まり、もたらされた救いを喜ぶ時とされたいと願わされます。
「今は恵みの時。今は救いの日です。」第二コリント6章2節 聖書
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