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「聞き方」*ルカ8章16〜18節

更新日:6月29日


寒い朝でした。主の守りのうちに礼拝を守ることができ感謝です。

礼拝の中の子どもタイム。大人にとっても非常に大切な学びとなっています❣️

メッセージはルカ8章より「どう聞くか」と題して。


❶しっかり見つめなさい。

16節は「あかり」について書かれています。あかりを寝台の下に置く人などいない、入ってきた人たちに光が見えるように暗闇を照らすために燭台の上に置く、と。ここで言われている「あかり」とは「神のみことば」のことであると語られました。本来は隠されるものでなく、人々の前に表されていくものであるが今は隠され、秘められている「神のみことば」。これはやがて誰にでもわかるように明らかにされていくのだ、と。ですから、あなたがたは聞き方に注意しなさい。(18節)と続くのです。


この「注意しなさい」とは何についてか。「今の現実をあなたがたはしっかりと見ていなさい。」そして「このみことばの真理を開いてくださるのは神ご自身であることをよく知っておきなさい。」ということです。


また、「みことばを聞くこと」について、もし人に責任があるならばそれは能力によって、聞く力によってしまう。神の言葉は誰もが聞いて受け入れられるように神様は配慮してくださり、神のお言葉を通して受け入れる者に救いを与えようとされていること。


キリストの誕生はまさに「神様のみことばの成就」でありました。神のお約束通りにこの世に生まれてきてくださり、神のお言葉は必ず実現するということをこのことからも私たちは知ることができます。

イザヤ書55章10〜11節には

「雨や雪は天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも私のところに、空しく帰ってくることはない。それはわたしが望むことを成し遂げ、わたしがいい送ったことを成功させる。」とあります。


神の御言葉は私たちの現実に起こってきている。しかしだからと言って、その全てが明らかにされているかというと、神の言葉は今、隠され覆われている部分がある。その中にあって、神に信頼してなおもみことばを聞くことが求められているのだということ。イエス様は全て分かっているのだ、そのみことばを守っているのだと言い張るパリサイ人たちに対して、「本当にわかっているのか」と問われ続けた。私たちは説教者を通して神が明らかに開いてくださったみことばを理解し、さらにまだ隠されていることに期待していくことを求められているのだということ。


今日の子どもタイムで「神の力、神には不可能なことは一つもない。」と学びました。

私たちはみことばに対して、主の前に「はいそのようになります。」と応答しているだろうか。

神の言葉に信頼してみことばを聞いているだろうか。問われたことであります。


❷神の力に信頼する聞き方とは

ある先生が「みことばを聞く時に私たちはしばしば誤った聞き方をしてしまうことがある。」と言われたそうです。

「間違った意味でそのみことばを捉えてしまうこと、そのみことばを自分がどう受け止め、どう自分の生き方に活かして良い成果をあげ得ることができるのか、そのような姿勢できく聞き方は間違っているのだ。」と指摘されたのです。


つまり、「神のみことばを生かすのは、聞く人次第である」ということは誤っており、

私達の努力によって、みことばが成るのではなく、みことばを示したり、実現されるのは神ご自身であると言うことを決して忘れてはならないということ。

「あなたの聞き方を過信してはならない。」ということなのですよ、と語られました。

 15節には自分の力で種を実らせて立派な人間になるのだと書かれているわけではない。


語られた神のお言葉の種がある。それを実際に実現してくださる神の力を信じ、頼ることが求められており、そのみことばの種が実をならすことを忍耐してまつ。それが「良い地」なのだと。


そして一旦、主のみことばが与えられたならば、「神様。私にはできませんが、あなたにはできます。」と信仰を働かせて従ってゆく。自分の限界を越えると思うことにも「お言葉ですからやらせていただきます。」「神様が仰るなら用いてください。」と自分を差し出し、神のお言葉の力に立ち信頼していくこと、そのようにみことばを聞く姿勢をもっていくこと。


❸持つものが取り上げられるもの

18節に「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」とあります。これを読むと、豊かな人はどんどん豊かになり、貧しいものはますます貧しくなるのか・・・。まるで現代の格差社会を投影しているように思いますが、そうではないこと。


「神のお言葉を聞くこと」について、起こる現象なのだということ。


持っているものとは、どう聞くべきかを正しく理解し、みことばを実現してくださる神に信頼し、神に対する期待・喜び・信仰がどんどん大きくなる。そしてその姿勢ゆえに、どんどん与えられる。

一方、持たない者とは、どう聞くべきかに注意せず、みことばを正しく聞く姿勢がない。神の力に信頼することができず、神でなく自分を信じ、どうやって、自分の価値・工夫・力によって神の言葉を実現させようかと考える者です。そのような人は、

「神のために」と言いつつ「自分の栄光のために」自分の考えを実行しているに過ぎない。

それは神のみわざは表されず、「神のみことば」を聞くことができない。つまり、みことばの飢饉であるというのです。


アモス書8章11節にはこのようなみことばがあります。

「見よ。その時代が来る。ー神である主のことばー

その時、わたしはこの地に飢饉を送る。

パンに飢えるのではない。

水に渇くのでもない。

実に、主の言葉を聞くことの飢饉である。」と。


自分の力、自分の主張、自分の考えを過信する者は、神を信頼せず、そこに歩むと決めているゆえに飢えと渇きが起こってくる。こういう考えでしかやれないという立ち位置に自分を置き続けることはまさにみことばの飢饉の只中に身を置くことであるということ。


私たちは、主よ。どうかご介入くださいと自分の身を低くして、主に呼び求め、この主に頼ることが、神の力に頼ることがどんなに素晴らしいかを教えていただかねばならないこと。


今週も、自分でなく、みことばを成して下さるこの主に頼る、主に期待して聞き方に注意し、歩む日々とされたいと思います。



今日のCS日曜学校。先週の小幡先生のお話からのメッセージでした。随分集中して聴けるようになり、素晴らしいです。松ぼっくりでお家を作ろう!かわいいおうちができました❣️


「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。ルカ8章17節。 」       聖書

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