礼拝は「戦いは長引いたが」と題して第二サムエル記よりメッセージです。
長年サウルによって苦しめられてきたダビデですが、そのサウルが死に、次のイスラエルの王位は誰のものになるのか。ダビデが取った行動とは・・・・
❶神を知る者の余裕
日本の歴史においても本能寺の変で織田信長の死の知らせを聞いてすぐに秀吉がどうしたかが語られました。彼は全てをおいて、すぐに本能寺へと向かって行きました。このサウルの死後もすぐに王座を狙う者がいたのです。居ても立っても居られないとすぐさまダビデは秀吉のように向かったでしょうか。いいえ。彼がまずしたことは「神に聴く」こと。祈ることでした。
「ダビデは主に伺った」と1節にあります。当時は「ウリムとトンミム」というものを用いて神様の御心を伺ったことが語られました。それは「イエス」か「ノー」の答えのみであったため何度も伺わなくてはならなかったり面倒な手段でもありました。しかし、ダビデは自分の判断ですぐに動こうとせず、まず主の前にひれ伏して主の声を聴くことに心を注いだのでした。
「次の王はダビデである」ということを知っているのはごく限られた人々でした。一般の人々には隠されていたことでした。ダビデはそれを知っていました。そして何より、それを決められたのが「人」でも「自分」でもなく「神」であるということをダビデ自身がよく理解していたのです。
「主が導かれるなら、主は最善しか行われない」という確信がダビデにはあったのでした。
そして、神の御心がすぐに示されないということにも大切な意味があるのだと語られました。
私たちは何でもすぐに、神の御心が開かれ、知れたらいいなと思う。しかし、すぐにそれがなされないときに、神の御心はなんだろうかということに自分を置き、また自分の無力さを思い知らされ、ただ神様がなされることに心を向けるように整えられてゆくのです。
神様がダビデに対して「向かえ」と言われた場所は「ヘブロン」でした。(1節)ヘブロンは地図を見るとユダ部族の中にあって中心にあることがわかります。
そこにはイスラエル民族の父祖アブラハムの墓がありました。
ダビデは神様の言われるがままにヘブロンに上ります。そしてそこで、ユダ部族の王として任命されました。ダビデはイスラエルの王として神に召されたはずなのにここではまだ一部族の王になっただけなのです。このときダビデは既に30歳になっていたといいます。初めに神様がダビデをイスラエルの次期王とするとサムエルによって油を注いでから10数年の年月が経っていました。そしてこの2度目の油注ぎからダビデが全イスラエルの王となるまでにも7年半もの年月がかかるのです。この年月はダビデにとっても長く感じたに違いありません。しかしこの年月こそ彼がイスラエルの有能な王として整えられるに必要な神様のご計画でありました。
私たちはこのことを通しても神様の約束が少しずつ前進してゆくことを見せられます。時に神の約束はすぐに成就することもあるが、長い時間を要するということがあるのだと語られました。
ヘブル10章36節には「あなたがたが神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」というみことばがあります。祈っても祈っても与えられないというときに私たちの前には二つの選択肢がある。諦めて祈ることをやめるか。あるいは、神が与えるというものがすぐに与えられないからといってヘソを曲げずに忍耐して与えられるように祈っていくか、です。信仰の父アブラハムも神の約束を待ち続け待ち続け、しかし、忍耐の限界を感じ、諦めて人間の肉の力を用いて動いてしまいました。しかし主はそのアブラハムになお待つように言われ、彼が祈り続ける中でその信仰が練り直され、主の約束が成就したのでした。
8節においてこのダビデとは対照的なアブネルというサウル軍の長の姿をみます。彼は、サウルの家の唯一残った子であるイシュ・ボシェテを連れてマハナイムというところに行き、彼を全イスラエルの王としたと9節に記されています。人の考え・計画で着々とことを進めていったのです。
「ダビデ」の姿は、救い主イエス様の予表である、と語られました。イエス様は父なる神様から救い主、王としてこの世界に遣わされました。しかし、当時イエス様を王としてお迎えした人々は一体どれくらいいたか。イスラエルのほとんどの民は認めず、ローマもヘロデもユダヤ人の宗教指導者たちもイエス様を否定し、弟子たちを含めほんの一握りの人々だけがイエス様に従いました。そのような中でイエス様は父なる神様に従順に従われ、神様のご計画を成し遂げられたのです。
ローマ書5章3〜5節にはこのようなみことばがあります。
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出します。この希望は決して失望に終わることがありません。」
ダビデは多くの苦難・患難の末に品性を整えられ、希望を持ってこのイスラエルを正しく治め、神様に喜ばれる王として成長していったのでした。
❷なぜ神の御心を求めることが大切なのか。
12節からこのアブネルという将軍とダビデの側の家来であったヨアブとのやりとりから始まった戦争について語られています。アブネルとヨアブはギブオンの池というところで出会いますが、
そこでアブネルが「決闘して勝敗を決めよう」と言い出し、ヨアブはその申し出を受けて戦ってしまったのです。
アブネルは人の血を流すことを軽く考えていたのでしょう。そしてヨアブもダビデに仕えていたのに安易に戦いに乗ってしまったのです。
戦いは激しさを極め(17節)多くの血が流されますが、ダビデの家来たちが勝利します。
ところが、ダビデの軍のアサエルという若者が逃げるアブネルの後を追い始めたのです。(19節)彼の足は野のかもしかのように速かったと記されています。
このアサエルは制止に聞く耳も持たず、執拗に追いかけ最後は刺されて死んでしまいます。ここに自分を過信する者の悲劇があると語られました。
詩篇20篇7節にはこのようなみことばがあります。
「あるものは戦車を、ある者は馬を求める。
しかし私たちは、私たちの神 主の御名を呼び求める。」
ガラテヤ書6章14節にはこのようにあります。
「私には私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」
私たちが誇るべきはキリストの十字架のみであるということ。私たちが何を成すべきなのか、この十字架を私たちの真ん中に据えるときに、主が用いようと成さっているから、とそこに立つことができるのです。「恥は我がもの、栄光は主のもの」と。
私たちの人生は神が良し、とされなければ、何一つ動かない、そのような人生です。
私たちに起こってくる全てのものはただ神により、私たちが何かをするというこがあるならそれは神の御許しがあっての中のことであること。私たちは神の御手の中に動かされている存在であることを思うのです。
私たちに与えられている仕事の一つ一つも、それを成すことを許し、またそれを達成させてくださる力を与えてくださる神様がおられるからであるということ。そういう気づきを与えられるということの大切さを思います。
このアブネルとヨアブの戦いは休戦となりますが、初めからこのようなことがわかっていたら戦うこともなく、アサエルも死ぬこともなかったのです。
ローマ書12章2節には
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあります。
もし私たちが歩みの中で、神の御心を求めず、そこに従わないならば、自分の心に従い、その歩みは神の御心でなく、自分が良いと思う方に流れていきます。
ダビデは戦いを多くした戦士でした。しかし、実は平和的な人だったのではないか、と語られました。自分のいのちを襲ってくるサウルを2度に渡り、助けました。肉の力によって王いを奪うのでなく、ひたすら、神の御心がなることを求め続けた人生だったのです。
力づくでなく、自分の良いと思う最善策でもなく、神の御心を尋ね求める。そのことに心を砕いてゆきたいと思います。
「人の歩みは主によって定められる。人はどうして自分の道を悟ることができるだろう。箴言20章24節 聖書」
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