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「約束に誠実な神」*第二サムエル記10章1〜19節

更新日:2023年9月3日



残暑厳しい日々です。みことばは「主の御目にかなうことを」と題して第二サムエル記よりメッセージ。

9章において、ダビデがメフィボシェテに恵みを施したことが記されていますが、この10章においてはアンモン人の王ナハシュの息子に「真実を尽くそう」としたことが書かれています。ここで「ヘセド」というヘブル語が用いられていると語られました。このヘセドという言葉の意味は「恵み」「真実」であり、ダビデがヘセドを尽くそうとした、ということです。


❶恵みを恵みとして受け止められる者になりましょう。


第一サムエル記の11章を見ると「ナハシュ」の名が出てきます。彼はイスラエル人に対して好意的ではなく、敵として攻め上ってきました。ところが初めは優勢であったものの、前王のサウルが信仰を持って奮い立ったがために彼らは撤退し、この戦いの後、アンモン人たちはイスラエルの支配下に置かれていたのではないかと語られました。

ナハシュの死後、ダビデが「真実を尽くそう」としたのは、王が変わったとしても、イスラエルとアンモン人の友好関係を続けてゆくことを示したかったゆえです。


ところが、このナハシュ王の息子ハヌンは、ダビデが使者を送ってきたにもかかわらず、首長たちの「この使者はスパイではないか」という言葉を真に受け、ダビデの使者たちの髭を半分に剃り、さらには尻の辺りまで服を切って彼らを辱めて返してきたのです。


ハヌンという人物が非常に懐疑的でダビデを信用することができなかったことが見てとれます。

8章において、ダビデがアンモン人を攻め、分捕り物を奪ったことが記されています。ハヌンにしてみれば「ああ。そういえばダビデがあの時分捕り物をとったな!今更何をいうのだろう!」そのような思いもあったのかもしれません。

このようなハヌンの姿「良いものを受け止められない人」というのは、神の恵みを拒んでいる人の心理でもあるのだと語られました。


私たちは「神の恵み」に生かされています。神の救いの方法・福音は、受ける私たちにとって非常に都合が良すぎるものです。「神が何をしてくださったのか」この世の常識では、私たちは罪を犯したら裁かれ、それ相応の刑罰を受けます。しかし神の下さった福音は、その罪を犯した者が本来責任を負わなければならないのに、身代わりとしてご自分の一人子、かけがえのないイエスさまを刑罰に合わせて、死を負わせられました。このイエスさまの「贖い」を自分のため、と信じるだけで、自分の罪の責任を負わなくても良い。そのように神様は決められたのです。


どんな生き方をしてきたとしても、その人の罪のために、御子の命に代えて、その人の罪を赦してくださる。この「神の愛」は私たちから出たのではなく、一方的に神の恵みとして神様の方から提供してくださった。


この神の恵みの福音を受け止められない人は、神と敵対しているのであり、自分自身の選択ゆえに、燃えるゲヘナへと滅ぼされるのです。(からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。マタイ10章28節)


神様の救い。どうしてそこまでして下さるのか。どうしてこんな者を、あるいはあんな人を赦してくださるのか。そのように思うほどに神の愛は大きく、深い。そして神様の愛は自分の視野・価値観に収まらず、私が入れ込もうとしている器より、もっともっと大きいものであるのだと語られました。神の恵みをもっと、もっと受け取り、受け入れる者でありたい。そのように願わされるのです。


ダビデの使者たちは、辱められ、ダビデの元に帰ってくるのも憚るほどでした。ダビデはそんな彼らを思いやり「髭が伸びるまでエリコに留まり、それから帰ってきなさい」と配慮したのです。彼らの心身ともに傷ついたことをよく理解し、彼らが回復するまで待ったダビデの姿から、神様もまた私たちが苦しみ辱めを負ったときに、私たちの名誉を回復する道を用意してくださる方であるということを覚えます。私たちは、神様の非常に深い思いやりと配慮の中に、その守りと愛ゆえに歩まさせていただいているのだということを知るのです。


❷神様は信仰を働かせる者とともにおられます。


アンモン人は連合軍を率いてイスラエルを攻め上ってやってきました。

ダビデは彼らを迎え撃つため、ヨアブを将軍に任命し遣わします。

イスラエルは二手に分かれて彼らに対抗することになりました。

北からのアラム軍。そして南からのアンモン軍。挟み撃ちして向かってくる両敵軍に対しての戦いです。

ヨアブは言いました。

「強くあれ。我々の民のため、我々の神の町々のために、奮い立とう。主が御目にかなうことをされるのだ。」と。

これは信仰がなければ出てこない言葉です。「これから始まる戦いは信仰の戦いである」と。「神は御心にかなうことをなされるのだ、戦いの結果は主に委ねるべし!」と。


私たちは生活の中で、ついつい「結果」を求めます。しかし、その「過程」において信仰を働かせたのかどうか。それが問われているということを忘れてはならないのです。

「自分たちの力でやったのだ!」ではない。「神様が力を与えてくださり全ての必要を満たしてくださったのだ。私たちはその神に従ったのだ」と。私たちが自分の力を誇示するためでなく、御名が崇められるために立ち上がるときに神様が大いなる御業をなしてくださるのです。


ヨアブは13〜14節において、大勝利を収めます。しかもここで一人も死者が出ていないということに驚きます。ヨアブとて、戦うことは命を奪われることであり、犠牲者が出ることも予想していたでしょう。しかし、エリコの町が陥落したときに、一人の犠牲者も出ることなくイスラエルの民がその地を与えられたように、ここでも、主が完全な守りを与えられていることを見るのです。


神様が成すようにと命じられ、そこに従うときに、神様がすでにそこに働かれて、神様による勝利をご自身の栄光のために与えられるということを知るのです。


❸信仰によって歩みましょう。


この戦いの後に、アラム人たちが、名誉挽回!とさらに総力を結集して、イスラエルを攻めにやってきました。これに対してダビデは全軍結集してヨルダン川を渡り、ヘラムへと進み対決します。結果、アラム軍は敗北し、イスラエル軍の勝利となりました。


このアラム軍の長ショバクは死に、アラム人の王たちは連合軍の敗北を聞いて、イスラエルと戦うことをやめ、和平交渉に応じます。こうして、イスラエルは敵なしとなり、アラム人は再びアンモン人を助けることもありませんでした。


このことを通して教えられることが二つ挙げられました。

1️⃣神様が約束されたことを実現される真実な方である。

ダビデはこの戦いによって、領土をユーフラテス川の彼方にまで広げることとなりました。

創世記15章8節に「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。『あなたの子孫に私はこの地を与える。エジプトの川からあの大河ユーフラテス川まで』」とあります。ヨシュア記1章3〜4節には「わたしがモーセに約束した通り、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる」と記されています。


アブラハムから→モーセに語られ→そしてヨシュアが行動し、死を前にして神様が約束されたことが一つも違わず実現されたとヨシュアは告白したのです。

そしてダビデの時代になって、アブラハムとモーセを通してイスラエルに約束されたことが完全に実現したのでした。


私たち人間は平気で約束を破ります。しかし、神様は違う。神様はご自分で約束されたことは御名にかけて、必ず、守り、実現される真実な方であること。そして、このような方に信頼して歩める人生のなんと幸いなことかと覚えさせられるのです。


2️⃣ダビデの勝利は、ダビデの苦難の始まりでもあったこと。

ダビデはこの戦争によって絶頂期を迎えました。それによってダビデの人生で初めて「余裕」というものが生まれ、それが彼に何を引き起こしていったのかということをこれから見てゆくのです。

ダビデの家来たちが、命令に従ってアンモン人を打ち負かした時に、ダビデはエルサレムに留まっており、そこで家来ウリヤの妻バテシェバと不適切な関係になり、罪を犯してしまうのです。

私たちは苦しい時は「神様助けてください」と心謙り祈るのです。しかし、そこから一転して恵みの中に余裕が生まれる時に、誇り、高慢になり、慢心ゆえに罪を犯してしまいやすくなるのです。


何もない時に、また試練の時には、必死に祈った。しかし、ひとたび名声や富を手に入れたら「神様、私はこれでやっていきます」となってはいないだろうか。

神の恵みに期待しつつ、謙り、私たちを通して栄光が表されるように祈り続けること。

逆境の時には、そこにおいても神が共におられることを信じ助けを仰ぎ、

いつも「謙遜」な心で主に従う者となれますように。


「主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。詩篇105篇8節 聖書」

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