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永遠のものさし📏*第一サムエル記14章24節〜52節


暑い1日でした。お天気のなか、百合の花が溢れる教会です☺️

さて今日の礼拝は「愚かな誓い」と題して第一サムエル記14章よりメッセージでした。


❶サウル王の愚かさ

 ヨナタンの信仰により、神様はイスラエルに勝利を与えられました。しかし、神の御心を求めることなく、常に目先のこと、また自分の栄光のことばかり考えているサウル王は神の望まれることを行うことはできず、自分勝手な方法・命令で民を苦しめます。


 戦いにおいて、すっかり疲れ果てた兵士たちは限界を感じ、彼らには鋭気を養うための十分な休息と食料が必要でした。ところが、サウル王の勝手な判断と誓いのために、兵士たちは断食を強いられ、戦いに勝利したというのに「イスラエル人は、ひどく苦しんでいた。」とありますから、驚きます。


 私たちを愛する神様は憐れみ深い方で、私たち人間には限界があることをよくご存知で、「負うべき労苦はその日その日で十分である。」と休息を与えてくださる主です。

もっともっと!と、チャンスだ!と自らの欲のために民を動かすサウル王の姿は私たちの目にも愚かであります。


サウル王は兵たちをケアすべきだったのにそれをしなかった。それは「主が勝利を与えてくださった。」というところに立てないでいたからだと、そのように語られました。

 そのような中、サウルが出した命令を知らずにいた、この逆転劇の立役者ヨナタンが、蜂蜜を口に入れたことが記されています。(27節)


すっかり疲れ果てていた身体にその蜂蜜は甘く、「彼の目が輝いた」(27節)とあります。

ヨナタンは父の出した愚かな命令を、食べた後に聞かされ、驚きました。

イスラエルの民を束縛し、ペリシテ人を負かす主の働きを妨げている・・・と。


聖書の中には、たとえ指導者が神を知らない者であっても、その人を立てたのは神であるから従いなさい。と書かれています。しかし、もし指導者が神の御心に反しているならば、私たちは主の側に立つべきことを教えているのです。


 ヨナタンは父の愚かさを嘆きました。

聖書には「真理はあなたがたを自由にします。」というみことばがあります。

この真理というのは「イエス様」のことであり、私たちは神に喜ばれることが何であるかを求め、それを知ったら行っていく自由があり、イエス様から自由を与えられた私たちは、常にイエス様に聞き、教えられ、その道に進む恵みにあるということ・・・。


❷見せかけの祭壇に意味はない。

 35節において「サウルは主のために祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇であった。」とあります。


 祭壇というものは、たとえばアブラハムが挙げられましたが、彼はモリヤの山において、「イサクを献げなさい。」と主に言われました。すると、アブラハムは大きな犠牲と信仰を持って、山に登り、祭壇を作り、主に信頼して「最高のもの」を主にお献げしたのです。

すると、主は、彼の行動とその信仰・心を見られて、「お前の心がよくわかった。」とアブラハムの手を止められ、イサクの命を守られました。「主の山に備えあり。」主は、そこに雄羊をちゃんと用意しておられていました。

 主の御心を想像します・・。


主は形ではなく、真心を求められ、私たちの内側をじっと見ておられるということ。

取り繕ったり、言い訳したり、形だけのものを退けられるということ。

信仰について、考えさせられます。


愚かなサウルの祭壇は意味がなく、主の前に虚しいものでした・・・。


❸神は私たちの霊的な状態を気にかけておられる。

サウル王は、ペリシテ人を追い続けようとしますが、祭司が、主の御心をまず伺うことを提案し、サウルは聞くことにします。

しかし、主は、ご自分に従わないサウルには何の応答もなさらない。


これに対して、サウルは自分の罪を認めず、犯人探しを始め、誓いを破ったヨナタンを責めます。自分の権威を守るためには、息子ヨナタンでさえも、見せしめとして死刑に処すと言い放つのです。


神のお言葉に従うことなく、自分の思い、基準で行動しようとするサウル。

そんなサウルに「この戦いに勝利をもたらしたのはヨナタンであるのに、死刑とはおかしい。」とイスラエルの人々はもっともな命乞いをします。こうしてヨナタンの命は守られ、一方、民によって自分の意見を変えることになったサウルは気力も消え失せ戦いをやめて引き上げてゆきました。


目の前のこと、周りのこと、それらのことよりも、まず「私と神様の関係」を見なければならなかった。それを選ばなかったサウルの人生。信仰と行いについて考えさせられました。


❹神が共におられる人生を求めていきましょう。

47節〜52節には、サウル王の華々しい功績が書かれています。「信仰のない行い」しか見えてこないサウル王なのにと驚きますが、これは、人生には2つの見方があるのだと語られました。


一つは、人間的に見る歴史の見方。そしてもう一つは神の目から見たその人の歴史。


 人間的な目から見て、高く評価され、あなたは素晴らしいとたとえ世界中の人に評価されたとしても、もし、神の目から見て、そうでないなら虚しいことです。

 どんなに素晴らしい人でも、この地上においての評価はそう長くは続かない。その名もいつかは忘れ去られてしまうものです。しかし、神の前に評価されるということは、永遠に神の御前で続いてゆくことであり、私たちはどちらにかけているのか、なくなるもののためでなく、なくならないもののために、自分の賜物を用いてゆくことの大切さを示されます。


イエス様に香油を塗った女性のことが語られました。

この女性の行為についてイエス様は、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」と言われたのです。

(マルコ14章9節)

その場にいた者たち、弟子たちの中には、「こんなもったいないこと!」「こんなお金があったら他にできたのに」と憤慨したり、厳しく責めたりするものがありました。普通に考えるのなら、「無駄だ」と。


 しかし、主を思うゆえに、それを「もったいない」「無駄」と思わずに、喜んで主に差し出した彼女の「心」を主は本当に喜ばれて、祝福された。


私たちも、生活の中で、主に喜ばれることが何であるのかを求めつつ、

それを主に差し出し、「永遠のものさし」で自分の行動を選択していきたいと

願わされました。

私の名でなく、主の御名が、主の栄光が崇められますように。

祝祷で祈られたみことばにもハッとさせられ、今週はこのみことばを握り、主を仰ぎ見る時とされたいと思います。イザヤ書59章1ー2節



さて、CSは、第一サムエル記の10章からみことばが語られました。

「神に心を動かされた勇者たち」と「よこしまなものたち」2種類が出てきましたね。

暗唱聖句は


今日は「神奈川ジャンケンゲーム」をしたり、ブンブンごまを作ってブンブン回し😁

スペシャルゲストに大興奮‼️カブトムシブローチ!?も体験し、嬉しいのとドキドキで大騒ぎでした 💓。カブトムシくんもまんざらでもなく、じーっと見つめあう!?姿の微笑ましいこと。元気モリモリ楽しいCSでした‼️


「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。

むしろ、あなたの咎が、あなたがたと、あなた方の神との仕切りとなり、あなた方の罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」イザヤ59章1−2節 聖書








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