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神様というお方*ローマ書11章33〜36節


歩いていると、あちこちにみかんの木を見つけます。可愛いです。我が家ではプランターで育てた檸檬が幾つかなり嬉しいです。実りとは良いものです・・・。

さて、今日の礼拝は「栄光神にあれ」と題してローマ書より講解メッセージです。


パウロはこのローマ人への手紙をしたためながら、同胞への求道の願いと異邦人への伝道、救い・神の義について語ってきましたが、そのような中で、神様の約束「わたしはイスラエルを捨て置かず、残された民がいるのだ」という神様の言葉を受け取りながら確信が与えられ、ただただ神様の偉大さを仰ぎ見、込み上げてくる賛美を持ってこの章を終えています。

❶神の偉大さを知る者になろう

33節に「ああ、神の知恵と知識の富はなんと深いことでしょう。神の裁きはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」とあります。


神の知恵と知識は、底知れず深く、無尽蔵のものであることをパウロはここで語り賛美しています。第一コリント1章には神の知恵という言葉がたくさん出てきます。30節には「キリストは、私たちにとって神からの知恵」とあります。

この神の知恵「十字架による赦し」を受けるときに、私たちに求められているのは知恵深さではない。またそれは求めたから与えられるのでもない。与えようと神様が決められているから、私たちは知ることができた。この深い神のご配慮とご計画にただただ驚き畏れ、そして私たちは受けるだけのものであるということを知るのです。

 神様は「時を支配される」お方。一方

 私たちは「時に支配される」存在。

 こうしている間にも、刻一刻と天国の門に近づいているのです。

この「時」を支配されている方に、全てを委ねてゆくこと。私たちのことを全てご存知であられる神様は「聖書」を通してご自身を表されるお方でありその神の前には隠されていることも全て見通され、隠されているものもいつか明らかにされるということ・・・。

神様の偉大さについて深く考えさせられました。

神様というお方は、主権者であられて、誰に相談することもされずご自分の意思によって決断・実行される方であり、この神様を理解することなど困難であること。パウロは「神の道はなんと極めがたいことでしょう」と言っています。


私たちは長く生きれても100年。100年のことしか心に留められないのです。しかし神は永遠のお方であり、時の初めから終わりまでをずっとご覧になられるのです。

聖書を読む中でも、神が成すと言われたら、私たち人間はただそれを受け止めるだけの存在であることが分かります。そして高ぶった思いを神が折ってくださらねば、私たちは神のことを知ることができない。神様は私たちの心を取り扱ってくださり、分かる様にご自身を現そうと常に働きかけてくださっている。なんと感謝なことだろうと改めて思わされました。


詩篇37篇5節

「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

この意思を持って豊かに実行なさる神に、私たちの人生を委ねるということの恵みを覚えます。


❷みことばによる裏付け

 34〜35節を順に追っていきました。

 ①「だれが主の心を知っているのですか。」

 いいえ。だれも知ることはできない。

 神が成すと言われたら、それが困難に思えても成る、御心ならば成るということ。

 だから「神様からお言葉を頂いた。」と言ったなら、その通りになっていかねばそれは本当に神のお言葉とは言えないのであり、また不可能だと思える状況でも、自分の思ったような形でなくても実現されるのは神であり、思い通りにいかない時こそそこに神様のお心を知るのだということ。

 ②だれが主の助言者になったのですか。

 いいえ。だれもいない。神様にアドバイスするなど。アドバイザーになるなど。。全知全能の神様は被造物に依存することなどされず、全てを計画される方。これはヨブ記41章11節からのパウロの引用であります。

 ヨブ記を見ると、ヨブは神の前にも人の前にも立派な信仰者でした。多くを失い、苦難が襲った時も神に対して汚し事を言うことがありませんでした。彼は「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章21節)というのです。私たちはちょっと試練があると、「何ですか!神様、これは!」と言ってしまう。そんな弱い私たちにとって、このヨブは信仰の模範ではないか。そのようにとれます。


しかし、ヨブ記は3章で終わっていないのです。ヨブに対して、こんな不幸に見舞われたのはあなたの罪のせいに違いないと責め立てる友人たちとの対話の中で、ヨブの心の中に変化が起こっていきます。ヨブは「神は不公平なお方なのか。不正をされるお方なのか」と、神の知恵を疑ったのです。


そのヨブに対してヨブ記38章〜41章。それまで沈黙を守られていた神様が口を開き、ヨブを責められます。ご自身を疑ったヨブにご自分の知恵を語られていくのです。このヨブ記のクライマックスです。そして42章6節。ヨブはどうしたか。ヨブは「私は自分を蔑み悔いています。」と神に悔い改めるのです。ヨブ記の主題はまさにここだと語られました。

 つまり、ヨブの信仰の模範は、1章21節でなく、こちらであった。そして彼は全幅の信頼を持って神を信じますと神に告白したのです。


 ③だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。

 神様という方は、私たちが貸しを与えるような方ではありません。全知全能、全てを支配され、有しているお方が、私たちに全てを与えてくださっているのです。

 第一歴代誌29;14

「このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。全てはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたすぎません。」

 私たちが献げるのは、「人が」創り出した偶像にではなく、「人を」創ってくださった神様にであり、私たちの救いのために深い知恵による十字架の救いをなしてくださった神様に最高のものをお返ししたいからです。私たちが持っているものは、全て神様の憐れみのゆえであることを覚えつつ、主に心からお捧げして行きたいです。


❸真の礼拝を捧げましょう

ジョンストットという神学者・講解説教者の言葉が紹介されました。


ローマ書1章から、パウロは、罪について、神について、神の義について、救いについてずっと語ってきました。そして11章の終わりに至って神様の素晴らしい救いを覚え神様を賛美せずにはおれなくなったのです。この偉大な神に栄光があるように・・と。

そしてその栄光の一つが私たちが毎週日曜日捧げる礼拝なのだと語られました。毎週の礼拝が真の礼拝となっているか。今日私たちが捧げる礼拝は真の礼拝か。神にとっての真の礼拝となっているか。もう一度主の前に鎮まり、そしてよく自問自答したい。


神様の栄光がどんなに素晴らしいか。主を見上げ心からの礼拝を捧げる礼拝者として成長して行きたいと思わされたことでした。


「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さは 測り知ることもできません。

代は代へと あなたのみわざをほめ歌い あなたの大能の業を告げ知らせます。

私は あなたの主権の栄光の輝き あなたの奇しいみわざを語り伝えます。

人々は あなたの恐ろしいみわざの力を告げ 私はあなたの偉大さを語ります。

人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を あふれるばかりに語り

あなたの義を 高らかに歌います。  詩篇145篇3−7節   聖書」



 

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