
第三アドベントの週です。教会もクリスマス一色。CSも元気よく始まりました。お話は先週の礼拝の箇所から。「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず(ピリピ2章6節)」この世界に人となって生まれて来てくださいました。クリスマスをそのイエス様を見上げ感謝のひとときとして迎えたいとお話を聞きました。子どもクリスマス会もいよいよ来週。たくさんのかわいいお人形さんとお待ちしています!
さて、礼拝はルカ書1章より「あなたのおことばどおり」と題してメッセージ。
❶マリアの信仰について
34節に「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。」というマリアの言葉があります。
これが、「なぜ?」ではなく、「どのように」という訳があることが語られました。
元々の言葉は「フォース」という言葉であり、ほとんどの日本語訳の聖書が「どうして」と記す中で「どのように」という訳を思う時に、それは疑いから発せられた言葉でなく、そこにマリアの信仰を見るのだと。
私たちが神を知り、神と共に歩む時に、内側に聖霊が住んでくださり、その深い交わりによって、私たちの口から出る言葉にも変化が与えられます。天に国籍を持つ者として、日々新たにつくりかえられキリストに似た者としてかえられて行きます。

聖霊を通して、心・言葉・思想を神に近づけてくださる。
マリアが「なんで、そのようなことが起こるのか?」でなく「どのようにそのようなことが起こるのですか?」と御使いに答えたように、信仰による歩みの中でその発する言葉が聖められてゆく成長が与えられたいです。
❷神の御心に歩みましょう。
御使いはマリアに「しるし」を与えました。36節の言葉にあります。親戚エリサベツが老齢で子を宿した事を示したのです。
マリアは、この「しるし」を示されなくても、御使いの言葉を受け入れたに違いない。では、なぜその必要があったのか。
それは、これからマリアが経験する試練に対して「励ますため」であったのではと語られました。
祭司ザカリヤは神殿で御使いに告知されたときに、聞いた言葉が本当かどうか「しるしを見せてください」と御使いに答えて、その結果、口がきけなくなりました。
一方「それはどのようにして成るのですか」と答えたマリアに対して、御使いは励ましとしてエリサベツのことを示しました。
神様は、私たちが信仰の歩みをする時、導きにより勇気を出して一歩踏み出すその時、「大丈夫。わたしがあなたと共にいる。」と励ましをくださる方です。
私の理解を超えることにチャレンジせねばならない時にも、本当に不思議なように具体的に助けを与えて下さる方。生きて働かれ一人一人の人生に深く関わってくださる方であられるということ。
日々の生活の中で、全知全能の神は、あらゆるものを用いてご自身を見させてくださる。お声をかけられた時に「はい。主よ。力の無い私ですがどうか用いてください。」と一歩前に進む私たちの姿を喜んでくださる。
このマリアへの「しるし」は、神のマリアへの力付けであったのでした。
❸応答を待たれる神
37節の「神にとって不可能なことは一つもありません。」という言葉は、元々の言葉「レーマ」というギリシャ語が訳されていないということです。
これは「語る」という言葉から派生した言葉であり、訳すと「語られたこと。」つまり、
「神が語られた言葉は全て不可能ではない。」となります。
これは、イザヤ55章11節のみことばを私たちに思い起こさせると語られました。
「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」とあります。
神が語られた言葉は全て可能なのだということ。
38節においてマリアは、「私は主のはしためです。」と答えます。
はしためとは、「奴隷」「しもべ」であり、ガラテヤ1章10節において、主人である神を喜ばせることに、しもべは集中せねばならないと書かれています。
マリアにとって神様を喜ばせることは、「わかりました。」と答えること。「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えることでした。
ややもすると、私たちは、自分を喜ばせることに一生の命をかけてしまう。
「私」を楽しませ、喜ばせることを、「神」よりも優先してしまうことがある。
しかし、神に出会ったなら、神のために、神を喜ばせるために生きる。
そのように方向転換させられてゆくときに、本当の平安が幸せが心に満たされていくことを知るのです。
38節の後半の「すると」という言葉に注目しました。
御使いにとって、このマリアの応答を聞くまで任務が終わっていなかった。マリアが「従います。」というのかそれとも「嫌です、従いません。」というのか、そこまで聞く。
マリアの応答を聞いてやっとこの御使いの任務が完了したのです。そして去ったのでした。
これは、みことばを聞いた私たちにも同じことであり、語られたみことばに対して、私は「はい。」というのか「いいえ」というのか、応答が求められており、私が神に応答するまで、礼拝は終わりでは無いこと。みことばをただ聞き流すのでなく、神が語られたことに対して、応えてゆくべき義務があるということ。
礼拝において神様の私への言葉を聞き、それを受け取り「私は・・・・します。」と告白して会堂を去っていくということの大切さ。神は私たちに応答することを求めておられ、応答しないままそこを去ることは神にとって失礼なことであること。
多くのことを示されたことでした。

最後にモーセを通して、神の選びは決して能力がある人のみではないと語られました。
神様が燃える柴の中から、モーセをエジプトの王パロの元に送ると言われたところです。
モーセはイスラエル人でありながら、パロの子として王室で育てられました。しかし王宮にいたときにイスラエルの民の解放のために用いられたのではありませんでした。
王室から逃げ、四十年間という間、家畜飼いとしてもう人生も終わるのだとそう思っていたモーセを主は呼ばれ、解放者として任命しパロの元に送られたのです。
私たちも神が声をかけてくださったときに、たとえ人間的にみれば不足があっても、難しさを感じても、神様の呼びかけに応えてゆく者とされたいです。
私のために考えもつかない大きなことをしてくださり、その愛ゆえに大切な一人子さえも惜しまず、十字架にかけ、与えてくださった神様。それを受け取ったならば、私たちはどう応答してゆくのか。
今週も毎日この主の御声に聞き、また応答する日々の積み重ねとなりますように。
「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」ルカ1章38節
聖書
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