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神の憐み*第一サムエル記9章(礼拝)



美しい海の写真を・・・。二宮に来てから4年目になります。こんなに海の近くに住むのは初めてで、海の美しさに圧倒されつつも震災などいろんなことが頭によぎったものですが、ほぼ毎日海を見る日々、この果てしなく広い海を前にすると、心励まされ、偉大な神様の前に自分の、人のなんとちっぽけなことよと、心洗わられる気がします。爽やかな風が心地良い海辺です・・・・。

さて、今日の礼拝は「神と人との出会い」と題して第一サムエル記9章よりメッセージ。


❶神に召されたサウル

 1節よりサウルの家系や風貌についての記述があります。

サウルは少し前の理想の3高(k)をすべて兼ね揃えているような人物でした。素晴らしい家系に生まれ育ち、普通の人々よりも肩から上だけ高いと書いてありますから、かなりの高身長、さらに、美しい者、今風に言えばイケメンであったということです。


 当時の人々に羨ましがられるような人が王として選ばれたわけです。

 このように見ますと、あら、神様の基準も人と同じなのかな・・・そうやって最初の王が選ばれたのかな・・と一瞬思えますが、はてさて

 二番目に神様から選ばれたダビデ王の選びを見るときに、16章に記されている通り、

彼の容貌ではなく神様が選びを進めて行かれたことを見ます。


 つまり、このサウルが選ばれたのは、8章で神さまが民にサムエルを通して示された王についての神の裁きによる選びであり、人々の理想・あこがれ・思いをすべてわかっておられる神さまが、人々の理想に応えていかれたように思えます。


ダビデが選ばれたときに神様が言われた言葉「人はうわべを見るが主は心を見る。」(第一サムエル記16章7節)の通り、

神様は家柄・学歴・容姿を見られませんが、人々は、どうかというと王となるには自分たちが理想とするような人でなければならないと望んだ。主はその人々を見て、

そこに合う人を立てられたのではないかと語られました。


この先を読み進めていきますと、サウルは容貌や家柄だけでなく、人柄も良かったことがわかります。3節で、父親にいなくなった雌ロバを探しにいってくれと頼まれると、面倒くさがらずにどこにいるかわからない雌ロバを探しにいき、父の言葉に従順に行動している姿を見ます。

さらに、見つからないのでもう帰ろうとしたときに、若いしもべ(目下の人)のアドバイスを聞く謙遜さを見ることができます。

さらに、サムエルを訪問するということになった時も、手ぶらで行くことは失礼だという「礼儀」をわきまえている人であることもみるのです。

また、サムエルからあなたが王に相応しいのでは?と言われたときに、謙遜な態度と言葉をもって返答している姿から、彼が決して野心家ではなかったということも見てとれます。


20節において、彼が謙虚にサムエルに返事しているのをみるときに、

まさに神に召されていくということはこういうことであると知ります。


「我こそは相応しい」と自分を誇り、神の前に出ていく人ではなく、「私は決してそのように相応しい者ではない」と謙虚に自分を保つ者に御心を示しそのような人を整えていってくださる。

奉仕についても、仕事についても、家庭においても、自分が召しを感じることは素晴らしいが、自分の思いではなくまず神の御心をと願う姿勢。心の在り方を求められていることを示されました。


❷神の計画による対面

この章を読み進めてゆくと細かいところにまで主の配慮がなされていることを知ることができます。

 サウルがサムエルに会うために、一つでも噛み合わなかったら、それは実現しなかったからです。

 雌ロバが見つかっていたらどうでしょう。サウルはサムエルに会えませんでした。

 若者の声に従っていなかったら、そのアドバイスがなかったら、会えませんでした。

 さらに、若者が銀四分の一シェケルを持ち合わせていなかったら・・

 水汲みの娘たちがそこにいて、「今行きなさい」と勧めてくれなかったら・・・

 

この章を読んでいくと、一つ一つの私たちが「たまたま・・・」とか「偶然」とか言いがちな成り行きの中に、神様のご計画と導きがあることをみるのです。


サウルは「我こそは王に!」と意気込んで心を決めてサムエルに会いにいったのではないのです。父が命じたことにいつもの通り従い・・という日常生活の先にこの一コマが用意されていたのでした。


14節と18節はつなげて読むことができます。

15節から17節の3節分は抜いて読むことができもします。この3節分に何が書いてあるのか。

それは、神さまがサムエルに、サウルが来ることを前もって告げておられる予言でした。



そして18節でその通りのことが成されていきます。

私たち人間には、一秒でも先のことは分かりません。しかし神様はこれから私たちがどのようになるかをご存知であられるということ。


当たり前、普通の出来事の中に、神がご自分の働きのため介在してくださるということ。

「キリスト者に偶然はない。すべては必然なのだ。」という言葉が改めて心に残りました。

私たちの思いを超えて働いてくださる神様の配剤の中で、生かされていることの素晴らしさ神様に感謝です。


❸神の計画の中にある私たち

16節で神様は「なぜサウルを王としたか」その理由を述べられています。

神様が民の叫びを聞かれたということ。

8章において神様が王政に肯定的であられなかったのに、9章においてサウルを王として選び進められていく流れに、なぜだろうと疑問の念も出てきます。


しかし、創世記や申命記を読むと神様がイスラエルに王を与え、王によって祝福するという御心を持たれ、ご計画をもっておいでだったことを知ります。

 ではなぜ8章において神様がそれを良く思われなかったのか。それは民が王を求める動機に問題があったからであると語られました。


民の中には、神様に対する信頼や期待がなく、周りの国を見て、「自分たちには王がいない、だから王をください」と訴えるのみ。そこに神様を求め、祈り願う姿はなく、

民はダビデを待っていれば良かったのに、それを待つことができなかった。


そんな民であるのに、神様はサウルという王をたて、民に与えてくださった。

それはただひたすらに、神の民への憐みのゆえであること。


私たちはこのようなことをみるときに、神様が憐み深い方であることを改めて教えられます。

神様は全ての人が滅びることを望まれず、ご自分のたった一人子であるイエス様を与えてくださった。このイエス様を十字架につけ私たちの罪を贖ってくださったことにより、私たちはそれを信じ、悔い改めるだけで、永遠の命を持つことができる。


永遠の命とは「永遠に神との交わりの中に入れられていく」ということ・・・。


カルヴァンの言葉です。

神の憐みを知っていれば、良い時には高慢にならず、また逆境の時にも慰め・励まし頂くことができ、神を信頼し、この先の将来にも平安・安心をいただける。そのような言葉です。

どんな状況にあっても、神は絶対私を見捨てない。そんな神様を知っていることに感謝し、主を見上げ、褒め称える。今週もそのような神の憐みに信頼し祈りつつ歩む時とされたいです。


CSは第一サムエル記の4章のお話を聞きました。皆、熱心に耳を傾け、よく聞いていました。

礼拝での箇所をCSでも語っていくようになりましたが、子どもたちにさらに理解力が与えられ、教師も礼拝で語られたところからしっかりとみことばを語ってゆくように工夫しての取り組みが始まっています。

暗唱聖句はマタイ7章21節。長いけれども、みんな賢いなあ!すぐに暗唱してしまいました!大切なみことばです。

工作は父の日に向けての製作。「足跡」の詩に本当の足跡をつけたかったのですが、みんなの足は成長とともに額に入らないので☺️グーにしてミニ足跡を絵の具で作ってみました。

ゲームも賛美も身体をいっぱい動かすので、スタッフやお母さんたちは筋肉痛になってしまったとのこと😂

こどもたちのパワー‼️素晴らしい‼️


礼拝・CSが終わってから、ヒーローくんが「あれ、マキ先生どこにいっちゃったかナ」「どこかな」と一生懸命走りまわり探していました。なんで?と聞くと「ぼくカブト虫欲しいんだよね!マキ先生くれるかな・・。」これにはお母さんも皆も大爆笑。そうだよね。今年もコロナ禍でクワカブ大会出来なさそうだしね・・おうちで飼いたいよね!見つかったかな。マキ先生。そして交渉できたかな?☺️

ヒーローくんは今日こどもタイムで学んでいる主の祈りの質問にもしっかりスラスラと答えていてこれもびっくり!拍手でした。よく聞いているんだなあ!と改めて皆で感心・感動でした・・❣️


個人的にですが、年始に与えられた励ましのみことばを今日の説教中改めて思い起こしました。感謝しつつ・・。

「人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。箴言5章21節」                                聖書



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