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神の時*第一サムエル記11章(礼拝)

今日はCSから!これはトコトコお馬さん💓競馬の様子!?でございます。生きてるみたいに可愛い動きにみんなで大興奮!よーし!僕のは早いぞ!あれ?あれ!がんばれー!僕の馬!!!



CSのお話は第一サムエル記の6章から。馬、でなく牛さんが出てきました・・。😁


暗唱聖句は箴言1章7節「主を恐れることは知識の初め。」

僕たち私たちをとっても愛してくれている神様を心から恐れることの大切なことを学びました。ゲームはピカピカゴロゴロゲーム。賛美もたくさん踊って汗びっしょりです。💦


礼拝の中の子どもタイムでは主のいのりの中の四番目。

「私たちの日毎の糧をお与えください」という祈りから学びました。


礼拝は「ただの人の人生転換」と題して第一サムエル記11章よりメッセージ。

❶神の御手に委ねるという選択

イスラエルの民に対して、東の国のアンモン人が陣を敷いてきた箇所です。

サウルは王として油注がれたものの、人々には仕事を押し付けることもなく、状況が整っていない中、農夫の仕事をして「神の時」を待っていました。


伝道者の書3章11節には有名な聖句があります。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」

この聖句は、全てのことに「神の時」があるということを教えています。

人は時に「支配される」。そして、神は時を「支配する」方であること。

三次元にいる私たちを御心に従って導かれる神様は4次元のお方であり、

私たちが時を支配される神の力強い御手の中にへりくだり、与えられた能力を最大限に用いて精一杯努力しつつ祈っていくときに、神様の方で良い時・機会を与えてくださるのだということ。神様が私の人生の最高のプランナーであることを覚えます。


サウル王が「私こそ王なのだ」と王政を敷こうとしたのでなく、神の時がきますようにと

謙虚に待ち続けた、そこへ、このアンモン人ナハシュによる難問がやってきたのです。


4節において、アンモン人によって脅かされたイスラエルのヤベシュの民から使者がやってきます。それを聞いたイスラエルのギブアにいた民たちは皆、「声をあげて泣いた」と書かれています。


イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷生活をした後、そこから脱出し流浪の民として40年もの間、荒野を旅し続けました。そしてやっと国が与えられたところで、そこには農耕の道具がやっと揃うのみ。

一方、周りの国々は青銅文化が発達し、武器も完璧なもので、そのような剣や武器の前にイスラエルの貧相な農耕道具では一見しても何の勝ち目もなかったと考えられます。


つまり、このような危機的状況にある同胞に対してギブアの民は、同情するだけでなく、

彼らもまた自分たちの無力なことを嘆くしかなかった。


そんな中です。畑からサウルが戻ってきました。

サウルがこのことを聞いたとき、神の霊が激しくサウルの上に下ったと書かれています。(6節)王であることの使命感を与えられ、また、自分が王であることを示す機会を神様の方で用意されていったことを見るのです。


今の時は全く違うと思っても、いつでもその時が来るように備えておくべきこと、またそのように備えて祈っているならば、「今がこの時であるのでは」と気づかせて頂けること。

時が来たら、用いてくださいと主に祈りつつ、生きるにしても死ぬにしても主に栄光を表すことができるように整えさせていただくことの大切さを示されました。


❷神の霊に満たされるならば

ただの人であったサウル王が使命感を果たす人に変えられていった姿を見ます。

彼はひとくびきの牛をとり、それを切り分け、イスラエルの国中に「サウルとサムエルに従って来ない者の牛は、このようにされる。」と送るのです。

主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出てきたと書かれています。(7節)

この「一斉に」と言う言葉は、元々の言葉では「一人の人のように」と言う意味なのだそうです。今までバラバラであったイスラエルの民が団結して行動するように変えられたと言うことを読み取ることができます。


それはサウルに民をまとめる力があったからとか、民が切り分けられた牛を見て震え上がり、恐怖心を煽られた結果出てきたからとか、そう言うことではなく、神の霊が下り、主が人々の心を動かして、一斉に集まるようにされた、ということです。


この時、イスラエルの民は30万人。ユダの人々は3万人。合計33万人。

サウルはこの兵を三組に分けて奇襲攻撃を仕掛け、イスラエルに大勝利をもたらしました。

(11節)


サウルは戦いの経験もなく、戦法を学ぶこともなかったでしょう。

戦いは策略と策略の戦いであり、作戦が必要なことは言うまでもありません。

さらに、戦いというものは、軍力・兵器よりも、どんな人が軍師であるかが大きく問われてくるのです。それによって負け戦に勝利がもたらされたり、逆に勝つはずの戦いが破れたりということにもなるのです。


この時、サウルを大将として、また軍師として大きく用いられたのは神の霊であることを私たちは知るのです。ちょっと賢いとか、才能があるとか、そういうことではない。神の霊が豊かに下り、力のない人が力をいただき、知恵のない人が知恵をいただいてゆく。素晴らしい主です・・・。


このようなことを見るときに、取り去って欲しい弱さを抱えてそのために、何度も祈ったパウロの姿やギデオンの姿。さらに初代教会を思い出します。


必死に祈るパウロに神様は「わたしの恵みはあなたに十分である。弱い時にこそあなたは強い、わたしは弱さのうちに働くのだ。」とそう言われました。


戦いが怖くて、隠れて葡萄の踏み場で小麦を打っていた(士師記6章11節)ギデオンに向かって、神様が声をかけられました。「力ある勇士よ。」と。

本来なら勇士と呼ばれるべき人は戦いの最前線に出て、民を鼓舞し勇ましく戦っている人間です。しかしこの時、隠れていたギデオンに向かって主がそう声をかけられた。


自らの力を誇る者を主は退けられるということ。神様が用いようとされる人は、自分には力がないことを自覚し、主により頼み、信頼し、主の憐れみによって進んでゆく者であるということを知るのです。


初代教会も、


聖霊がのぞまれ、使徒達は力を受けました。

彼らを見ると、漁師、取税人、そして熱心党員であったりして宗教的な地位を得ている人でもなければ、無学で人々から注目などされるような人材ではありませんでした。

イエス様と一緒にいた時も、常にリーダーとなれるのは誰か。誰が一番偉いのかなどとお互いを思い合うことなどはなく、協力するなどとは考えてもいなかったような弟子たちでした。


しかし、主の霊が臨まれた時に、彼らは変わります。心一つとされ、主から力をいただき、主の働きを進めるものに変えられていったのです。


❸初めの愛から離れないように。


サウルの謙虚さを見ます。大勝利の後。

12節で、民がサムエルに「サウルが我々を治めるのかといったのは誰でしたか。そのものたちを引き渡してください。彼らを殺します。」と言います。

その民に、サウルがいいます。

「今日は誰も殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」と。

10章27節において、よこしまなものたちがサウルを王と認めず、反抗するような態度をとっていた時にサウルは黙っていました。そして今、サウルがそのものたちを見返すことができる立場に置かれた時に、サウルは人々の提案を受け入れず、神の知恵による寛大な処置を取り、復讐を選びませんでした。


サムエルに従い、ギルガルに行って、王政の樹立がなされます。


このようなサウルの姿を見ると、なんて素晴らしいと私たちは思います。

しかし、この後のサウルの転落を見るときに、初心を忘れてしまうことの悲しさを思うのです。

私たちは、彼の姿から、初めの愛から離れず生かされることの重要なことを示されます。


わたしは神に愛され、憐れまれ、罪を赦していただいた、本当は滅ぼされるべき一介の罪人であったということ。

キリストがこんな私のために十字架に身代わりとなって死んでくださったこと。

このキリストの愛から離れないように常に主に悔い改め、感謝を捧げるということ。


これを忘れると高慢が生まれてしまい主を悲しませる結果になること。


今週。主の前に心低く、また「神の時」を神に信頼して待ち、備える日々となるように祈りつつ歩むことができますように・・・。


「あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。ヨハネの黙示録 2章4ー5節」           聖書




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