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憐み深い神様*ルカ7章24−28節

更新日:2月28日


礼拝はルカ7章24−28節より「預言者よりも優れた者」と題してメッセージ。


イエス様からバプテスマのヨハネが何者なのか、どういう人物なのか。それが語られた箇所です。

❶バプテスマのヨハネとは何者か

ルカ3章2節に「アンナスとカヤパが、大祭司であったころ、神の言葉が、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」とあります。

 使徒において、聖霊に満たされた弟子たちは、エルサレムにおいて語り、そこで3000人の人が救われたと書かれていますが、ここで、バプテスマのヨハネは街から離れた、人がいないような荒野へ退き、悔い改めを人々に説き始めたことがわかります。

 ヨハネは、ザカリヤという祭司職の子でありました。だからエルサレムにとどまることができた。しかし、人気のないような遠いところに退き、語り始めました。

 そこで悔い改めの叫びをした時に、人々が次から次へと彼の元に集まるようになったのです。

 

 イエス様は25節で「あなたがたは何を見に行ったのですか?」と言われました。

風に揺れる葦ですか?と。葦とは細長いススキのようなもので、人の意見に「あら、そうですか〜」「そうですね〜」となびきやすいことを表しています。

 また柔らかな衣をまとった人ですか?と。それは時代の権威に取り入る、贅沢な人を表しています。


 ヨハネはそのような人ではなく、預言者。いえ、預言者よりも優れた者だとイエス様は言われたのです。


 聖書のいう預言者は、ノストラダムスの大予言のような「こんなことが起こりますよ」といった「予言者」ではなく、神様の言葉を預かる「預言者」を指します。

預言者は、神様から言葉を預かり、「神はこう言われます」と人の前に出ていき語ります。


そして預言者にも「偽」と「真」の預言者がおり、どうやってそれを見分けるか。

それは、その預言者の語る言葉が神の言葉かどうかで判断されるのです。

偽の預言者は、人にとって耳応えの良いことしか語りません。人に取り入り、人の望み

喜ぶことだけを語ります。権力を持つ人に、「神はこう言われる」と語れないのです。

人を見ていくと、「主はこう言われる」と、主の裁き、罪・悔い改めを語れないのです。


ヨハネは何のゆえに死に瀕し、牢に繋がれていたか。それは、まさに彼が預言者としての働きをしたからです。

時の権力者であり、兄弟の妻をも奪い、悪王であったヘロデ・アンティパスに対して、ヨハネは、逃げず、避けず、真っ向から向かい「あなたは問題だ!」と言いそして、捕えられ今や死を迎えようとしていたのでした。


ヨハネはルカ3章16−17節において、メシヤについて語り、イエス様を見たときに、人々に指ししめし、「この方こそ、その方である」と言いました。これがヨハネの使命であり、イエス様はこのヨハネに対して「預言者よりも優れた者」と言われたのでした。


❷神の国でいちばん小さいものとは誰か。


イエス様は、ヨハネをこのように褒められましたが、その後で、しかし、神の国で一番小さい者は彼よりも偉大であると言われました。


これは、ヨハネが指し示した「メシヤ」への理解をイエス様が訂正されたのではないかと語られました。

ヨハネがいう「メシヤ」は「人々の罪を裁かれる方」でした。ゆえに、ヨハネは罪人への神の怒りを説き、悔い改めの実を結ぶようにと叫びバプテスマを強調しました。それは言い換えれば「律法を守ってきちんと生きろ」というメッセージともとれます。


神の言われたことをできないなら、悔いあらためよ、それはどこかパリサイ人たちにも通じるような厳しさです。


イエス様の公生涯はガリラヤからスタートし、貧しい病んでいる人々の所に出向いていかれました。ヨハネは、「あなたこそ来られる方ですのに、罪を指摘するのではなく、罪人の所へ行き彼らを赦しておられるとは」と、もしもヨハネがつまずいたなら、まさにここではなかったか。そう語られました。


律法学者やパリサイ人は、律法を守る自分たちを正しい、ゆえに救われるのだとし、守れない人々に対しては「できないならお前は罪人だ」と断定し人々を裁きました。ヨハネは律法を守れない自分自身を自覚し「守れないなら、悔い改めよ」と語ったのでこの点においては、大きく違いますが、「行いを求める」という事においては同じだったことになります。


「行いによっては救いは得られない」何が必要か。それは「神様の憐み」です。


ヨハネはマルコ1章において、ラクダの毛の衣を着て、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べていたとあります。非常に質素でシンプルに神の前にいき、人々に説き明かしをする生活をしていました。


ルカ16章16節に

「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、誰もが力づくでそこに入ろうとしています。」とあります。

つまり、ヨハネまでは、律法による救いが大々的に語られていましたが、

ヨハネ以降は、イエス様はヨハネのように生きるということでなく、神の憐みを受け入れるものが救われるのだと、そして、見捨てられた人々のところへご自分の方から近づき救いを宣言されていったのです。


病んでいる人。悪霊に取り憑かれている人。そのような人々のところにイエス様は入っていかれ、「あなたは神の怒りにあるわけではない。あなたがたをなんとしても救いたい。そのためにわたしを地上に遣わされた、それが神である。」と、人としての限界ある肉体をとってきてくださったイエス様は、寝る間も惜しみ、癒し、悪霊を追い出し、神がどれほど

あなたを憐み、愛しているか、ご自分を通して人に示してくださったのでした。


神様の憐みは私が受ける値が無くても一方的に与えられるものであること。

この「神様の憐み」を理解するときに、自分からその恵みに対して神の前に捧げて行こうとすること。

「神の深い憐みのゆえの私」というのが原点であること。

改めてイエス様の愛の福音の原点を示され、とても恵まれました。感謝します。



午後は、自宅で観る事が困難な方のみ会堂に集まり、ソーシャルディスタンスをとって学びのひととき。2月11日は「建国記念日」でしたが、キリスト教会では「信教の自由を守る日」。

JECA関東4地区においての集会の講演動画を流しました。


講師は村岡崇光先生。日本でよりも海外で知られている「聖書語学者」。海外生活57年

を迎えられる82歳の先生。(以下、大住雄一氏による紹介)「ヘブライ語文法の教科書のスタンダードに「ゲゼニウス・カウチュ」と呼ばれるものがあるが、最近の新しい学問を代表する教科書には「ジュオン・ムラオカ」があり、旧約学の世界でこの教科書を知らない人はいない。その村岡氏は、ヘブライ大学で学位を取られた後、イギリス、オーストラリア、そしてオランダでそれぞれ10年余り、聖書学を研究し、また教えて来られた。

イギリス・オーストラリア・オランダ、いずれも「大東亜戦争」において、日本軍に酷い目に遭わされた国である。日本がそれら諸国の植民地支配から東南アジアを解放したといえば聞こえは良いが、実際は国際法違反をたくさん犯して捕虜を強制労働に服させて多くの犠牲者を出し、解放したはずの現地の人々を数えきれないほど虐殺した。そうした日本が犯した不法の事実の証言にそれらの国で研究教育に専念した村岡氏は出会うことになった・・・。)


講義の内容はモーセの十戒を中心に、日本軍がアジア諸国において犯してきた罪を示され、具体的な内容・また数字を聞き驚くばかりでした。

現在も先生は、ご夫妻で一年の十分の一の時間を捧げて、そのアジア諸国に自費で赴き、無償で教えられることによって、先生の日本人としての償いをされていると聞き、教えられることが多々ありました。


先生の著書の中に「ヴィア・ドロローサ」(大東亜戦争の爪痕をアジアに訪ねて)

また、翻訳された書「折られた花」があり紹介されました。


「神の姿に似せて創造された人間を不当に傷つけることは、神に拳を振り上げること、神に対する反逆であり、犯罪・罪である」

「罪の赦しと真の和解は、加害者と被害者が共に神の前において向き合うことによって初めて成る」という言葉が、心に残りました。



zoomで元気にCS!みことばは5つのパンと2ひきの魚。ゲーム工作賛美!楽しく感謝❤️

講壇のお花は、礼拝のために新鮮なお花を!と小田原まで、ある婦人が買いに行き捧げてくださった春いっぱいのカラフルな可愛いお花。「ストック」です。💐


「主は憐み深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。」詩篇103篇8節 聖書

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