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神への姿勢 *ローマ書11章16〜24節


CSではクリスマスに向けてアドベントカレンダー作りが始まりました。11月最終週から始まるアドベントにスタートできるように毎週制作してゆきます。アドベントカレンダー作りはまたクリスマスに向けて動画でご紹介します!ぜひご覧になって作ってみてください!


礼拝は「神のいつくしみと厳しさ」と題して、ローマ書よりメッセージ。

この世界の終末のしるしの一つとして、ユダヤ人からキリスト者が起こされてくるということが聖書に預言されています。救いから遠く離れているユダヤ人がもう一度神に戻される日がくるのです。今ユダヤ教からクリスチャンに改宗することに対して罰則を課すという議案が議会に出されているそうですが、それが通るとクリスチャンになれば罰せられ、死刑の可能性も出てくると言われています。しかし、神の御計画は必ず成り、ユダヤ人の中から救われてくる人々が起こされてくる未来が来るのです。


今日の箇所を通して異邦人キリスト者である私たちは、どんな態度であるべきなのか学びました。

❶救われた異邦人キリスト者は誇ってはならない。


ローマ書11章17節にあります。

「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分を共に受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」

接ぎ木の写真をよく見てみます。元の木のところに枝が接ぎ木されているように、

私たち異邦人という野生の枝が、アブラハムからの祝福であるユダヤ人の木に接ぎ木されているということです。

たむらりんごという品種についての話がありました。

このりんごは梨の木にりんごの枝を接ぎ木してつくられたとのこと。

外観はりんごでも、中身は梨のように強い甘みのある珍しいりんごであるとのことです。

接ぎ木されるとはこういうことであり、

神様は不従順の選ばれしユダヤの民の枝を折り、そこに異邦人を接ぎ木されたのです。

アブラハムに対する祝福が異邦人に、突然神様の心変わりでいったのではなく、世の基が定められる前から、それは神様のご計画としてあったのです。


11章33節にはこのようにあります。

「ああ。神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」


ユダヤ人はその高ぶりゆえに、神様によって折られた民です。私たちも、決して自分が自立しているとは誇れない。接ぎ木された枝がその元の木によって支えられていて生きられているように、私たちも一方的に救ってくださった神様の愛ゆえに生かされていることを覚えつつ、心低く主に感謝しながら歩ませていただくことを教えられました。


❷神のいつくしみときびしさ

イスラエルのエルサレム陥落はAD70年。ユダヤ人は流浪の民として全世界に散らされました。そして第一次世界大戦ホロコーストでのナチス大量虐殺において多くのユダヤ人が殺され、苦しめられました。1948年。このユダヤ人が世界中から帰還し、パレスチナにイスラエル共和国を建国。これが、実に1800年振りの建国です。預言にある通りのことが起こってきています。しかし、この国には常に争い事が絶えず、流血事件が毎日のように起こっているのです。パレスチナ自治区とイスラエルの間ではミサイルが飛び交っています。


祝福の国のはずなのになぜ?。まさにここに神の厳しさがあるのだと語られました。

神のことを信じようとせず、自己流の生き方を貫く彼らに厳しい対応をされているのです。

しかし、彼らが神の愛に戻るなら、悔い改め慈しみにとどまるなら、憐れみのうちに入れられ、恵みが降り注がれていくと神様は言われています。


11章23節ー24節には

「あの人たちも、もし不信仰の中に居続けないなら、接ぎ木されます。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。あなたが本来野生であるオリーブのから切り取られ、元の性質に反して、栽培されたオリーブに接ぎ木されたのであれば、本来栽培された枝であった彼らはもっとたやすく、自分の元のオリーブに接ぎ木されるはずです。」とあります。


ここにイスラエルの希望があるのだと語られました。

神様は枝が折れたら接ぎ木なさってくださる。しかし、そのためには、一つ条件がある。

「もし不信仰を続けなかったならば」なのです。

悔い改めて神様にたち帰るならば、神様は再び彼らを祝福されるのです。

ユダヤ人が自分の義ではなく、イエス様によって示された義を信じること。


かつてアメリカ最大の牧畜業を営んでいた大富豪ロバート・ファンクという人がいたそうです。彼はプロのホッケーチームも所有し、アメリカ最大の人材派遣の社長でもありました。

そんな彼は幼い頃、熱心なクリスチャンの両親に連れられて毎週のように教会に行き礼拝に出席していたのです。ところが成長し、ビジネスにのめり込み仕事が忙しくなってからはパタっと教会にも行かなくなりました。しかし人にあなたの宗教は?と聞かれると、「自分はクリスチャンです。」とさらっと答えていたのです。

そんなある日。友人に誘われてビリーグラハム集会に行きました。

そこで説教者ビリーグラハムが語る言葉が心に引っかかりました。

「本当の信仰とは聖書をどれだけ知っていたかとか、何年教会に行っているかではない。

あなたが、生きる神との個人的な関係を持っているかなのです。そのような関係を神との間に築いていますか?」

彼は、はたと考えました。私には神との個人的な関係がない。私の信仰は偽りで本物ではないのではないか。ただ思い込んでいただけではないか。と。

彼は自分の神への姿勢を悔い改め、「イエスキリストは私の主です。」と告白し、主に立ち返ったのです。


「世的」と「霊的」という言葉が出てきました。


この世に生きているから、私たちは世のことに一杯関心があるのです。衣食住。

しかしこの世のことで心がいっぱいになっている鈍い心では、神のことが理解できないのです。霊的とはこの世のことでなく神と神の言葉である聖書の価値観です。

この世のことにばかり思いを向けていると世的な人間になるのは当たり前のことで、聖書の価値観を学び、そこに生きようとするならばその人の歩みは変えられ霊的なものへと成長させられてゆくのです。


最後にヨハネ15章1〜9節が朗読されました。

神様の愛にとどまる、そのような私たちでありたいです。多くの実を結ぶ人生。

今週も主の守りがありますように。


「主はぶどうの木。私は枝です。いつも離れずに。

主はぶどうの木。私は枝です。豊かな実を結ぶ。

みことばにとどまり、愛に生きるなら

この世は知るでしょう 主の救いと癒し・・・・」リビングプレイズより


「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように

あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。ヨハネ15章4節」 聖書



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