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「神が共におられる人」*第一サムエル記16章

更新日:2022年2月15日


「主が彼と共に」という題で第一サムエル記16章14〜23節よりメッセージ


❶神との交わりを失った者と

 神との交わりに生きる者との違い


14節において、わざわいの霊がサウルを怯えさせたと記されています。

主の霊が激しく下った(13節)ダビデは、確かに力を受け、やがてイスラエルを治めて行きますが、サウルからは主の霊が去り、わざわいの霊が下り心配や不安でいっぱいになり、不安定になって行きます。


「誰が私の王位を狙っているだろうか。私の人生はどうなるのか。これからアマレク、ペリシテ、アンモン人・・これらの部族とどう戦っていくか。」主の霊が去った後のサウルの心の中には、不安と心配、思い煩いが次から次へと湧き上がってきて、頭を悩ませたことでしょう。


「少しずつ兵は強くなったかもしれない。しかし戦いに終わりが見えない。どのように

私は歩んだら良いのですか。」そのようなサウルの祈りにも、神はもうお答えにならず沈黙を守られた。


神の沈黙ということを見る時、アブラハムのことが挙げられました。アブラハムも神様から約束をいただきましたが、それはいつ果されるのか・・・。待てど待てど、与えられない。神の沈黙の前に彼の心は、やきもきするのです。また、マラキ書から新訳の時代まで、500〜600年の間も、神の言葉がありませんでした。まるで、見放されたかのような状態が続くと、神様は見捨てないと言われる方なのに、なぜ語ってくださらないのだろうかと私たちの心は疲弊してゆくのです。


しかし詩篇の作者でもあるダビデはこう歌います。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と。


ダビデが功績を積み、サウルの婿となり、王位継承権も得てゆく中で、人々の目がダビデに集まってゆく時、サウルは嫉妬で彼を殺そうとしました。それまで、好意を持っていた周りの人々からも、ダビデは見捨てられ、頼りにする人々も彼を助けなかった。逃げた荒野でいつ追っ手が来るか、いつ捕らえられるか。一寸先もわからないそんな中で、ダビデはこの詩篇23篇を歌ったのです。


孤独と不安の中でも、「私は欠けていない。」ということ。それは、物に困らないということではなく、羊飼いなる神様から忘れられていないということ。


荒野に飛び出したダビデは、よくこんなところで捕まらなかったと思われるような場所でもサウルの兵から逃げ切り、生きながらえることができ、そんな中で神を見上げた。「このお方が、私を助けてくださる。私はこの方に覚えられているから大丈夫なのだ。」と。


肉によって歩んだ末に、神の霊が取り去られ、臆病な気質に加えて不安でいっぱいの愚かな人生を歩むことになったサウルと、

御霊によって歩み、主に従い、主とともに歩む人生を選び祝福を受けていったダビデ。

対照的な二人の姿を思いました。


ローマ書には「信じたすべての人に聖霊が与えられる」と書かれています。

貧しい者でありながら、富む者とされ、聖霊に満たされて歩むという恵み。自分に頼らず、聖霊によって弱さを超えて働いてくださる神の霊に自分を委ねる歩み。

この神の霊が私たちと共に歩んでくださるというならば、私たちは何を恐れ、また落ち込むのか。主に励まされて歩みを強められたいです。


❷神が導かれることに無駄はない。

恐れと不安でいっぱいのサウルの様子を見て、15節で家来たちが申し出たことは、竪琴による音楽療法でした。音楽は人を良い方にも悪い方にも導きます。ここで家来たちは、怯えているサウルに対して、心が和やかになるために・・・と身近に竪琴を奏でる人をと申し出たのです。それで一時的にでも不安が消されるようにと。


18節でダビデが推薦されます。

ここに成長したダビデの姿を見ます。

家来の一人が即座にいうのです。

「ご覧ください。ベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。弦を上手に奏でることができ、勇士であり、戦士の出です。物事の判断ができ、体格も良い人です。」と。そして最後に、一番大事なことが伝えられます。

「主が彼と共におられます。」


これは最高の言葉だと語られました。

「この人は、これができて素晴らしい。これを持っているし、こんな経歴があり、名がある。活躍がある。」ではなく、「神がこの人と共におられる。」


私たちは、「神の霊に満たされた人と一緒にいたいなー。」と思います。「この人といると神と共に歩んでいることがよくわかる。この人の内側に神様を感じる。」

私たちは、この世にあって証として、召されていることを思います。


主が選び、祝され、共にいて働きを導かれる人と一緒にいるならそこに平安があります。

ヨセフ物語を思い出します。

兄弟によって売られたヨセフですが、この記事の中で、何度も繰り返される御言葉は

「主が彼と共におられたので」という言葉でした。

ヨセフが連れて行かれた家の主人は、ヨセフが神によって祝福された者であり、彼と共にいるときに、家の財産も増えていくことに気づいてゆきます。そして奴隷の彼に財務を担当させるほどになります。神が共にいる人はその人がそこいるだけで、周りにも祝福が及んでゆくのです。


ダビデが弾く竪琴の音色や、選曲も良かったかもしれませんが、サウルが癒されていった理由は、まさにこの

「神がダビデと共におられたから」であること。


神の平安が溢れるダビデと共にいるゆえに、主の霊が去ってしまったサウルの上にも平安が与えられたということ・・。


私たちも自分に神の霊が宿ってくださっていることがわかれば、私を通して祝福が及んでゆくということ、その祝福をもたらしてゆくために遣わされているということをもう一度覚えました。

私たちの行く所どこにおいても、主の霊、祝福が私たちを通してもたらされてゆく。。。


またここで覚えたいのは、今の王(サウル王)の元に、次の王となる人(ダビデ)が置かれた不思議について。(21節)

このことについては、モーセのことも挙げられました。


モーセはイスラエル人の子として生まれましたが、イスラエルの民が増え広がってゆくことを恐れたエジプト王パロが生まれてくるイスラエル人の男の子を殺すことを命じます。モーセの両親は可愛い赤ちゃんモーセをカゴに入れて川に流しますが、そこで水浴びに来たパロの王女がモーセを見つけ、モーセは養子となり、宮殿で生き延びていくことになります。

神の配剤により、のちのパロとなる王子と共に帝王学、ありとあらゆる知識を学び、40歳に至るまで宮殿で過ごすのです。そして荒野に逃げ、80歳になってから、イスラエルの民を導き出すために神様に遣わされエジプトの地に戻ってきてリーダーとしてパロと対峙することになります。なぜ、このようなことが起こるのか。神様はなぜ?


数奇な人生。モーセはすべて自分で選んだわけではありませんでした。しかし、神の御心が、導きがある中で、起こったこと。それを思うときに、私たちもまた、自分の置かれている状況もすべて神の御許し、導きの中で起こっていることと知るのです。だから、


「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」ピリピ2章14節


このみことばです。

なぜ?どうして?神様ちゃんと説明してください。と、自分が受け入れられるからではなく、神の御心は確実に成る、そして万事を益としてくださる神様が必ず、私を通して栄光を現してくださるというところに信仰を置き、起こってくる状況に一喜一憂せずに主の前に主とともに歩ませていただくということ。

神様との関係を何よりも大切に、御霊を悲しませるのでなく、喜ばせる歩みをすることができるように。。。今週の歩みも守られますように。みことばに感謝しつつ、みことばをしっかりと握りつつ。。


CSは来週から緊急事態宣言に伴い、少し早め、多めの夏休みになります。


礼拝後、短くですが、上映会。スーパーブックの「サムエル」を観ました。

6月からずっとサムエルについて学んできたので、お話の内容の総まとめ・おさらいのような感じで、良かったなーと思いました。ゲームや賛美も元気よく・・・。

しばらく、感染拡大のため、お休みとなりますが、良い夏休みが過ごせますように。


「見よ。私は世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。マタイ28章20節」聖書






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