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「クリスマスとは」*ゼカリヤ書2章1〜13節

更新日:7 日前


4日(日)の礼拝は第二アドベント。主のご降誕を思いつつ、みことばはゼカリヤ書よりメッセージ。


神様はイエスキリストの誕生の情報を預言者イザヤやミカの口を通して多く語られました。

民が滅ぼされるのか、救われるのか、悔い改める民の中にどんな祝福を与えられるのか、将来与えられてゆく救い主の誕生について彼らは預言したのです。

ゼカリヤ書は、イスラエルの民がバビロニアに奴隷として連れていかれ、再びイスラエルに戻された時のことが記されている書物です。


イスラエルの民は戻るとすぐに、クロス王のお墨付きも得て神殿の再建に取り組みました。ところが既にそこに住み着いていたカナン人たちの妨害に遭います。工事は中断し、民は神殿の再建よりも、自分の生活の再建に力を注ぎ、何年もそのまま放置されるといった状態に陥りました。


神様はそこへ預言者ハガイを遣わします。神殿の再建工事をするように励まされます。工事が再開すると、神様は次に預言者ゼカリヤを遣わされました。ここで、彼を通してイスラエルの民に与えられる将来の希望を語られたのです。


❶測量士の過ち



 ゼカリヤのメッセージは、この世のことでもなく、物質的な目に見えるもののことでもなく、イスラエルの民の霊的な部分に対して神様が彼に御使いを送って幻を見せられたことによって語られました。

それはエルサレムの城壁を再建するために測量している測量士の姿でした。


彼は神殿再建の際にまず城壁を作り直そうと、しかもそれは以前侵攻された際にあったものと同じものを作ろうとして測量していました。天の御使いは、彼にそれが過ちであり、新しいエルサレムは以前ものとは比較にならないほど人も家畜も多くなるので、同じ大きさで城壁を築いても意味がないと語ります。


測量士の過ちの一つ目は、彼が現実的で過去のものに習おうとするあまりに、この先に何が起こるのかを見通せないという事でした。地上の知恵に長けているが、神がくださる知恵に欠けている、そんな彼の姿があります。壊されてしまった城壁なのだから、また同じに建てればいいという姿勢です。

二つ目に指摘された過ち。彼は、バビロニアに攻められた際と同じ城壁を作ろうとした。つまり、また次に攻めれらたなら同じことになるのだ、と言われたのです。

これは、自分達が本当に守られるためには、何に頼るべきなのか、との主の問いでした。

強い材料?石を倍に?違うだろう、と神様はご自身が「火の城壁」になると言われたのです。

それは何物をも近づけず、また壊されず、揺るがされない。

神様は「わたしこそが、あなたがたを守り、支える」と言われたのです。


神に信頼する信仰をもってゆくーしかし測量士はそのようなものを持たず、前と同じでよい。つまり「神を信頼しない」姿がそこにあったのでした。

財産や人は私たちを守ることができません。しかし、目に見えるものを追いかけているのが私たち人間の姿です。

「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」ヘブル11章1節のみことばです。

神様は、目に見えるものに頼り、見えない神様に頼ることができない愚かさを測量士の姿に見せられたのでした。


❷クリスマスは全ての人への良き知らせ

神様は、4節で「エルサレムは、その中に人と家畜が溢れ、城壁のない町のようになる」と言われました。このような神様のご計画を私たち人間は信頼できるでしょうか。


6〜7節では、神様はイスラエルの民に、捕囚されて連れて行かれたバビロニアから帰りなさい、と言われています。

捕虜でありながら、そこで仕事をし生活にも慣れていった民たち。

その中で、7節「さあ、シオンに逃れよ。娘バビロンと共に住む者よ。」と記されていますが、神様がイスラエルに「戻れ」と声をかけられた時に、廃墟となった何もない所に帰って行くことができたのは「信仰のあった人々」だったのです。

信仰のない人々はそのままバビロニアに残ったのでした。


11節には「その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む」とあります。神の都に住む者は、イスラエルの民だけではない。諸国民がやがて神の元に集められ、それゆえに、神の都は城壁のない町のようになるのです。

ルカ2章10節には、イエス様が誕生されたときに羊飼いに告げた御使いの言葉がこのようにあります。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」と。

「この民全体」というのは、イスラエルの民全体、というのではなく、この全世界の全ての民たちのためにということであり、ユダヤ人としてお生まれになったイエス様を通して全ての人々に救いがもたらされていくということなのです。


第一テモテ2章4節にはこのようなみことばがあります。

「神は、全ての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」

なぜ、今世界中でキリストの誕生を祝うのか。それはこの地上に生を与えられている全ての人々のためにキリストがお生まれくださったからです。


❸神の約束の確実性を何に見出すのか。


霊である神様を見出すということ。私たちが目に見えないものを信じるという信仰を働かせにくい存在であることを神様はよくご存じです。

それゆえに、神様は「わたしが語ったことが必ず成就する」ということを、実際に見せ、実現させてくださいました。

約束されたことが確かであるという証拠・しるしを見せてくださったのです。

10節にこうあります。「娘シオンよ。喜び歌え。楽しめ。みよ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。・・・わたしはあなたのただ中に住む。」


神様は、民の中に下って、そこに住むと言われたのです。神は霊なるお方なので、人の目に見える形でくるなど、できないのではないか。しかし、神様はそれを実現してくださった。

それが、まさにクリスマスなのです。

神様の不思議です。目を向けるべき神であるお方が、私たちと同じ人間になって降ってきてくださった。目に見えることのできないお方。肉声を聞くこともできず、触ることもできないお方。

それが、目に見え、肉声を聞き、触ることができるお方として降ってきてくださった。

永遠のご計画の中で「あなたがたのただ中に住む」と言われて。


ヨハネ1章14節にはこうあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちは、この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。このかたは恵みとまことに満ちておられた。」

そして、この後で、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言われたのでした。


クリスマス。小さな赤ちゃんとしてお生まれくださったイエス様。このイエス様のうちに、私たち人間は、目に見えない神様を見せていただき、イエス様のお姿、言葉、人格の中に

到底、目や耳や手で知ることのできないほどのお方を知ることができる。

神様の奇しいお約束が実現されたということ。

神様が、ご自身がこの地上に降るなど、別にする必要がなかったのに、そのほとばしる愛ゆえに神はご自身を表し、降ってきてくださった。


聖書の教える神と他の宗教の決定的な違い。

「自分達が行かなければならない、お布施や多額のものを捧げたり、努力したり、基準を満たせねば得られない救いを説く」宗教が他の全ての宗教です。

しかし、聖書の神様は「神の方から私たちの方にきてくださったということ。」

私たち人間には神に救っていただく要素はなく、基準を満たすことのできる人間は一人もいない。神を信じようともしない憐れな私たちに「見える形」をとって、ご自身を示してくださった。それがキリストの示してくださった愛なのです。


それゆえに「喜び歌え」とあるのです。

神がおられ、救いの道が開かれ、私たちの人生はこの方によって守られるということ。

このことを知ったときに喜びが湧き起こり、これを伝えて行きたいと願わされるのです。

この本物の「救い」がわかったら、「笑み」がこぼれる。証せずにはおれない喜びが湧き上がってくるのです。ークリスマスとは。それは神が人となってくださったこと。

改めて感動が湧いてきました。。。。感謝します。。。


「娘シオンよ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。」ゼカリヤ書2章10節






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