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「身代わりになって下さった方がおられる」*アモス章1章

更新日:2月8日


12月から1月にかけての7回にわたるミカ書講解メッセージに続き、2月の祈祷会からは、アモス書の講解メッセージが始まりました。


この時代には何人もの預言者が北イスラエル王国、南ユダ王国に遣わされました。イザヤ・エレミヤといった大預言書がありますが、アモス書はミカと同様、少ない分量でコンパクトに神の預言を語っています。

国が滅び行く中で神様が預言者を通してイスラエルに語られたことから学びたいと思います。


このアモスという預言者は南ユダ王国の田舎町テコア出身の羊飼いであり農夫でありました。彼が北イスラエル王国に遣わされて預言を語ったのがアモス書です。

「預言者と農夫」とは、少し畑違いでは?と意外に思います。しかし、主が彼を用いられて北イスラエルに語られて行ったということを心に留めたいと思います。


1章において、まず北イスラエル王国の周辺諸国への裁きが語られています。

アモスが北イスラエルに遣わされる前に大きな地震がありました。(1章1節)

そして、周辺近くの国々への主の厳しい裁きが次々と語られてゆくのです。

この1章から2章前半にかけて、「三つの背き、四つの背きのゆえに・・・」という同じフレーズが繰り返されています。しかしそのすぐ後の文章には一つの背きの罪しか語られていません。つまり、これは言及されている四つ目の罪であり、神がこの国を裁かねばというその理由となる罪について言及されていると語られました。


❶3節 ダマスコは、北イスラエルから見て北東アラムの首都。ダマスコがギルアデを攻めた、それ故に神様は、ハザエルの王、つまりアラムの国王を裁き、アラムの民は(5節)キルへと捕らえられる、捕囚の民とされる。と言われています。


❷6節 ガザは、北イスラエルから南西にある都市でペリシテ人の主要都市。

❸9節 ツロは、北イスラエルから見て、北西の町。

❹11節 エドムは、北イスラエルから見て南東。そして、エドム人の先祖は遡ると、エソウであり、本来はイスラエルと兄弟関係にあるにもかかわらず、イスラエル人を侵略してきたその罪。

❺13節 アンモン人。彼らは北イスラエルの東に住んでいた民族であり、遡るとその先祖は、アブラハムの甥ロトであり、それにもかかわらず、彼らはイスラエルに残酷な事をして土地を侵略し、攻めてきたことが書かれています。

13節の妊婦たちとは、山々のことであり、土地を侵略した様子が描かれています。


これらの国を点と点で結ぶと✖️印ができ、その中央に北イスラエル王国が位置する形になります。

北イスラエル王国の周辺のひどい罪に対しての裁きが厳しく語られ、そして、やがて北イスラエル王国自身への裁きが明らかにされてゆくということを見るのです。


これらの国々が他国に対して残忍なことを繰り返してきたという事を見せられるときに、さて、私たち、平和の国と言われる日本はどうであったか。これまでの歴史を振り返るときに考えさせられます。時代が過ぎればその恐ろしい罪は消し去られるかというと、そうではなく、先祖が犯した罪は子孫が受け継いでゆくということ、神の前にどんな言い訳もできないことを知らされるのです。


これらの5つの国々への裁きは、「不信仰」ゆえの裁きではなく、「隣人たちへの不誠実さ」であることがわかります。

ヨハネ3章16節〜には「神は実にそのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の一人子の名を信じなかったからである、・・・」とあります。

信じないから裁かれ滅びに至るという理解と共に、神を知らない民に神が何を問われているか。それは「隣人に対してどう生きたのか?」ということであり、神に対しての罪と同時に人に対しての罪。それも裁きの対象になるということです。


「罪に対する理解」この時代、キリスト教界においても「罪」に対して厳しく語られるということが多くありません。「教会では罪の話はしません。なぜなら教会は心のオアシスだから罪への裁きの話など聞きたくない。」という事を耳にもします。しかし、それが教会の使命かというと、神は旧約において罪に対して妥協のない厳しい神であられることを見ます。旧約と新訳の神は同じ唯一の神であり、この罪が語られた上での大きな愛であるということ。神の愛は、罪はどうでもいいよ、そんなものを差し置いての愛なのだということではありません。罪を持ち、罪を犯すものは裁かれてしまうのであり、罪が指摘されない愛は単なる「ヒューマニズム」となってしまうのです。


私たちは、罪人としての現実がさらされる時に、初めて十字架の前に立つことができる。罪を指摘されてもどうすることもできない、罪を取り除く力など私にはないという現実。

そこにどっぷり浸かっている私を救い出すためにこそ、罪なき一人子を送り、十字架につけられた神様。ここに愛があるのです。


ですから、教会ははっきりと人間の罪を語り、神の憐み・救いを語らねばならない。それが使命である事を覚えたいと思います。


私たちは、罪を繰り返してしまう愚かな存在です。しかしだからこそ、キリストが、どうすることもできない私の罪のために来てくださった。この尊い主の愛に感謝しつつ・・。


「それは罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。ローマ5章21節」聖書


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