破れ口に立つ者*ローマ書9章1〜5節
- nycc-jesus
- 2021年8月22日
- 読了時間: 5分
更新日:2022年2月15日

朝顔の花が玄関前の掲示板を飾ってくれています。☺️今朝のメッセージは「大きな悲しみ」と題してローマ書9章よりメッセージ。
先週までのサムエル記の講解説教より、久しぶりにローマ書に戻ってきました。
ローマ書8章までにおいてパウロは、私たちがどのように救われ、また救われたものはどんなに祝されるか、義とされていくことについて語っています。
この9章から11章までは一転して、音楽に例えると、曲がだんだん盛り上がり引き上げられたところで、突然急に低調になるというような箇所であるということです。
パウロが同胞ユダヤ人に対して深い悲しみを抱いていることが語られています。
私たちも、日本人として、キリスト者とされたものが今度は同胞の救いのために、どのような姿勢であるべきなのか考えさせられる、そんな箇所です。

❶パウロの悲しみとは
1〜3節においてパウロは、心にある深い悲しみ・痛みを語っています。
同胞であるユダヤ人がイエスキリストを拒否し、信じようとしないことを嘆き、ぜひ同胞にも救いを受け入れてほしいと切に願っているのです。
現在でも世界の60%は宣教師を受け入れようとしていない状態だということです。しかし中でも一番キリストを信じない民族はどこでしょうか。なんと、それは神様がご自分の民として選ばれたはずのユダヤ人であるというから驚きます。
なぜユダヤ人が、キリストを信じないのか。それはキリストが十字架に架けられて死なれたからです。律法には「木にかけられた者は呪われたもの」と記されており、自分たちを救うメシヤが十字架にかかって死ぬはずなどないという考えによるのだということです。
パウロ自身もそのようなユダヤ人の先頭にいたリーダーでした。律法を厳格に守ることに心血注いでいた彼が、ダマスコの途上でキリストに出会いました。(使徒9章)
キリスト者たちを迫害するために出た旅の途中で、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」というキリストの声を聞くのです。
それから3日間。目が見えず、飲食もせず過ごした沈黙の中で、パウロはイエスキリストについて改めて考え、この方こそ、私のために神様が与えてくださったキリストなのだと理解し、それまではキリストなどとんでもない教えだと迫害していたのに、180度変えられて、
「迫害者」から、キリストを宣べ伝える「宣教師」へと変えられたのでした。
人々はこのように変わったパウロを殺そうと迫害しました。しかしパウロは彼らに対して敵対心を持つどころか、この同胞の救いのためになおもイエスを伝え続け、その愛と情熱は彼に「私が犠牲になっても、同胞が救われるように」と祈らせるほどだったのです。
私は日本人に対して、どのような心持ちでいるだろうか。メッセージが心に響きました。
❷イスラエルという民族の特殊性
4〜5節を通して、イスラエルの民族が主に選ばれた特別な民族であることがわかります。
エペソ2章12〜13節にあるように私たちのように、救われた異邦人は神の子とされること、それは養子縁組のようであるけれど、イスラエル人に関しては、彼らは生まれながらの神の子であるということ。そのような特別な身分であることを知ります。
イスラエル人は無条件で神に礼拝を捧げることができ、例えば、モーセもシナイ山において
「神と顔と顔を合わせるようにして会われた」と記されており、アブラハム、またイサクやヤコブ・・・神さまの特別な選びを見ることができます。
神様の選びは私たちの理解を超えたものであり、全てを理解することはできません。
なぜ救われるのか、なぜ信じることができるのか。
もちろん、背後で私のために祈っていてくれた人がいる・・。しかし、その祈りがあったから救われたのではない。もっと広い大きな視野の中で、私の救いはただひたすらに神の選びと深いご計画のうちにあったということを知るのです。
世界の基が置かれる前から救いを用意してくださっていた神様。
三年もイエス様と共に過ごしていたのに、イエス様を知らないと否んだペテロが、
キリスト者を迫害しては苦しめていたパウロが、
なぜ、主に用いられたのか。それはただ、神の選びでありご計画なのだということ。
神様の選びの恵みと憐みに思いを馳せるときに、私たちは、自分の存在の意味を知り、
そして神の福音を伝え行く通り良き管としてどうか用いてくださいと、神様はこんな私にこんなによくしてくださったのだと、神が成してくださったことを出会わせていただく方々に伝え行くことができるように・・・・。願わされたことでした。
❸キリスト者は破れ口に立つものである
エゼキエル書22章30節にこのようなみことばがあります。
「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」
かつて南王国ユダは罪に汚れ、それをご覧になられた神様が裁きをなさろうとするときに、
執りなしの祈りをする者があるかどうか、もしもいるならば裁きを思いとどまろうとされたのに、見つからなかったこと。そして南王国ユダは歴史上において、バビロニアによって滅ぼされたことを私たちは見ます。
破れ口に立つ者とは、神の前に必死に執りなす者です。
「彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と十字架の上でもご自分を嘲る者を憐れみ祈られたキリストです。
またイスラエルの民が金の子牛の像を作り、神様に忌み嫌われる偶像礼拝をしていたことを知ったモーセが、自分を犠牲にしてまでも神様に取り入って祈った姿。
私の命をかけて、救われるべき魂のために祈っていくこと。
神様はその祈りに耳を傾けてくださるということ。
同胞のために、日本のために、家族のために、友人のために・・・神様に涙を持って祈りを積んでいくこと・・・。
サムエル・スティーブンソンという方の言葉が引用されました。
彼は、「多くの魂を救いに導いた人々には共通点があることに気づいた。」と言いました。
それは、「神の器たちは、その魂のために何時間も祈る人であった。」というのです。
神様は祈る彼らの上に聖霊を注ぎ、救いを伝える道具として用いてくださった。
魂のために祈る人・・・。同胞のために深い悲しみを持って祈ろう!
いつかでなく「今」、この時に。。。
そのように強く願わされたことでした。
今週も主の守りと豊かな導き、祝福がありますように・・・。
「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。
第二テモテ4章2節 聖書」
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