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真に富む者*ルカ6章24〜26節

最終更新: 1月22日


☺️日曜日の礼拝はルカ6章24節から26節まで、「後の祝福を知らない哀れさ」と題してメッセージ。


①イエス様の教える「哀れ」とは何か。

②幸いを選ぶか、哀れを選ぶか。

③預言者となるのか偽預言者となるのか。


今日の箇所で「富んでいるあなたがたは哀れである。笑っているあなたがたは哀れである。人々があなたをほめるとき、あなたがたは哀れである。」とイエス様が言われています。

ルカの福音書が書かれている原語、ギリシャ語においては、この箇所は「災いあれ」と書かれているそうです。日本語では「哀れ」というと、情緒的なニュアンスで受け取りますが、原語においては、やがて裁きの座にでる私たちが、神の御怒りにあう状況に置かれるということを指している言葉であるというのです。

 

イエス様という方は、創造の初めからおられ、またやがて将来起こってくることを全部ご存知の神であられます。その上で、語られているということ、イエス様が語られた世の終わり、裁きの座について意識しながら語られているということに心を留めてこのみ言葉を受けとめていくことの大切さを示されました。

イエス様が常に見ておられたのは「神の国」であり、それゆえに、人が裁きの座につくことを考えた時、「ああ。この人たちは哀れだ」と、神の御怒りのもとにおかれ滅びに向かっていくのだと言われているのです。

 聖書の中に「すべての人は、一度死ぬことと、裁きを受けることが定められている。」という御言葉があります。イエス様の目線で語られたこれらのみことばを真摯に受け留めて

理解していくことがいかに重要かを示されつつ聞きました。

 

イエス様はここでとても厳しい御言葉を語られていますが、愛であり憐れみ深いイエス様は同時に義なる神であり、真実の愛ゆえに親が子を甘やかさずしっかりと育てるように、また愛し合う家族がお互いにただ甘いだけでなく、真実の厳しさを持って臨むように、私達に対しても真実の言葉・姿勢を持って、重要な観点から教え、接してくださっていることを覚えました。

 

またまた笑ってしまう絵になっていますが(^_^;)💦

富む者とは、「自分の慰めのために自分の富を使うことができる者」と語られました。

サイダー著「富める国のキリスト者」という本があります。先進国のキリスト者に向けて30年前に書かれた本ですが、今もなお、世界の三分の一の人々は、一日1ドル以下で3食分という困窮の危機に立たされているといわれています。富んでいる国は貧しい国の食物を搾取しているとも言えます。

 

 富む者たちに向けて、名声・成功・豊かな暮らし、一時的な慰めを求めて生きている人生を、ここで、イエス様は「哀れ」と言われているのです。

 ルカ書においては金持ちとラザロの話の他に、富める青年の話が出てきます。考えさせられます。もちろん、富や財を持ってはいけないと言われているのではありません。マタイは取税人でしたし イエス様のために墓を用意したアリマタヤのヨセフは富を持つ人でした。

 そのように、富を神様に捧げて用いられた人々もいます。しかし、私たちは「富」がもつ独特な誘惑に注意せねばなりません。富ではなく、神に頼ることは非現実的なことでしょうか?いいえ。神は生きておられ、私たちを支え、守り、励ましてくださる方。神を信頼するものに、大きく天の窓を開いてくださるお方。

 しかし、人は見えない神様でなく、見える富の方に信頼し、拠り所としてしまう弱さがあります。神の国のことや裁きのことなど、ほどほどでいいのではないかという思いさえ入ってくるのです。

 イエス様はここで、「金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうが易しい」と言われました。

聖書の中に、「誰も二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」とはっきり書かれていることを思い起こしました。(マタイ6章24節)


 私たちの心がいつも神によって支配されているかを吟味することは、とても大切なことで、神に喜ばれる「幸いな者」となるのか、「哀れと嘆かれる者」になるのかの決断を日々迫られていることを思いました。


 最後に皆から褒められるとき哀れであるということについて、学びました。真の預言者と偽りの預言者が出てきました。真の預言者とは、神が送った預言者であり、その言葉の通りのことが起こります。しかし偽りの預言者はその言葉の通りのことが起こらないということ。いにしえの預言者を見ると、例えば、真の預言者であるエレミヤやエリヤは、神様から人々に伝えよと言われたことを忠実に真っ直ぐに語りました。ところが、その厳しい言葉ゆえに、人々は耳を閉ざし、聞きたくないと応答しないばかりか、彼らを迫害したのです。


 人々が耳を開き、聞いたのは、耳聞こえの良い厳しさのないことばかりを話してくれる偽りの預言者たちでした。真の預言者は「主はこう言われる」「聖書はこう言われる」と語ります。しかし、人々の評価にばかり心を傾け、人々の心を捉えることばかりに気を遣って語るのは偽りの預言者であり、それは神の国の価値基準に立っていないことになるのです。

聖書は、「神の視点に目を置き、語りなさい、それは世の光、地の塩となることであるのだから。そのように生きなさい。」と言われているのです。

キリストによって生きる私たちが心を留めるべきことを改めて考えさせられました。

 

 牧師がこの説教を語りながら、「主は富んでおられたのに貧しくなられた」というみことばが心に与えられ、イエス様は常に人々から称賛される道でなく、神の国を求められ、神の栄光をもつひとりごであられたのに、全てそれを捨てて十字架にかかられた。それは、私たちが真に富む者、御国の相続者となるためである、と語られました。

 私たちは、一見、人を幸せにするように見えるこの世の富に望みを置くのではなく

真の幸い、真の富を選び取るものとされたいともう一度思わされたことでした。


あなたの宝のあるところ、そこに、あなたがたの心もあるのです。マタイ6章21節  聖書



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