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春休み🌸祈祷会 *箴言27章


春一色の暖かい一日!あちらこちらで綺麗な花が咲き、ウグイスや鳥のさえずりに心もほっこり😌11月に厳しく⁉︎剪定した薔薇もぐんぐん育ち、蕾が膨らんでいます。チューリップやクレマチスも元気いっぱい‼️嬉しそう❣️


春休み❤️ということで、いつもは祈祷会に出れない子どもたちも、共に神様の前に出てみことばと祈りと賛美のひととき。祈祷会後は皆で楽しいお掃除タイム😁

「教会が大好きなのねえ」と婦人がニコニコ微笑み見つめる中の憩いの一コマ。


さて、今日の祈祷会は箴言27章より。

27章は「人間関係においての知恵」が具体的に語られています。5つのことを学びました。


❶自分を褒めてはならない。誇ってはならない。

聖書の詩篇103篇15節にこのような言葉があります。

「人、その一生は草のよう。

人は咲く。野の花のように。

風が過ぎると、それはもはやない。その場所さえも それを知らない。」

人はいくら栄えても、明日はどうなるかわからない、そんな儚い存在であることを思います。それなのに、少しでも何かに長けていたり、成功すると、それを誇りやすい弱さがあります。

自慢話や誇る姿を見て、それを聞く人は耐えがたくなったり、憤りや嫉妬を覚えたりして、人間関係が崩壊してゆくということも多々あります。


しかし、主の愛に生き、主の憐れみを知る者は、何か特別なものや成功が与えられたときに、それは「そこに神の特別な意図がある」ということをしっかりと認識し、神の前に謙遜であり続けることができます。


つまり、今与えられている物は「神の国とその義とをまず第一とせよ。そうすればそれに加えて全てのものは与えられる。」と約束してくださる主によって、与えられているのだと自覚し、へりくだった姿勢で生きることができるのです。


「空の鳥を見よ。野の花を見よ。・・・働きもせず、紡ぎもしない。しかし、ソロモンでさえこの花の一つほどにも装っていなかった。今日あっては炉に投げ込まれてしまう野の花さえ神はこのように装ってくださる。ましてや、あなたがにはもっとよくしてくださらないことはあろうか。」(マルコ6章25〜34節)

イエスさまは、明日はどうなるかわからない私たちの存在を無下にせず、細かいところまでご配慮してくださるお方。

だから自分を誇らず、主を誇るということは至極当然なことであること・・・・。


❷積極的に助言を行う。

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するよりよい。愛する者が傷つけるのは誠実による。憎む者は多くの口づけでもてなす。」5〜6節


真実の愛を持って、忠告し、また時宜にかなった助言をすることがとても大切なことを学びました。真実な交わりというのは、仲良しグループということではない。キリストの体をたてあげていく上で、罪の故に我がままであったり、気づきが必要な状態を見るとき、愛を持って厳しいことをも助言してゆくことが非常に大切であることを学びました。


パウロがコリントの教会への手紙の中で、第一コリント12章12節〜

「あなたがたは、キリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」と書いています。私たちはキリストにあって一つのからだであり、一人一人はその各器官です。不必要だと思われがちなところこそ必要な器官であるとも書かれています。

共に謙遜でありつつ、真実の愛をもって、キリストの体をたてあげて行くことを思いました。


❸神の御名がそしられない生活をする。

クリスチャンは何のために生きるのでしょうか。それは神の栄光を表すためです。

私たちの生き様がこの世に神の栄光を証し、表してゆく。そして教会はその中心的な場所であり、「天国の前味を味わうところ」です。


天国とは、神の支配・神の平和・神との交わりで満ち、皆と一緒に神を賛美する場所です。

この教会で私たちが共に歩むようにされている今、神の声を聞いたならそれにふさわしく生活するということを私たちは求められてるのです。


「私たちは聖徒である。」という意識。クリスチャン、キリスト者など様々な呼び方がありますが、この「聖徒」という言葉は「聖められた者たち」という意味であり、

私を愛し、救い、私の罪のために死んでくださったそのイエスさまによって聖められた者となったということを常に覚えて生活する者でありたいと思わされました。


❹人格を整えられるべきこと

17節に「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。」とあります。

私たちは十人十色、それぞれの個性・違いがありますが、主にある交わりの中で、互いによって研がれることもあり、共にキリストの体をたてあげて行く、その過程の中で、人格が整えられていくということ。


❺十分に心を配る。

23節「あなたの羊の様子をよく知り、群れを心に留めておけ。」とあります。

これは牧畜に携わる人への勤勉の勧めですが、私たちはお互いにお互いを心に留めているかということを常に心に据えておかねばなりません。

愛の反対語は憎しみではなく「無関心」です。

イエスさまは、100匹のうち、1匹の羊がいなくなったら、他の99匹を残して、その一匹を探しにいくと言われました。私たちは、十分に配慮して、お互いを顧みる時に、その群れは自然にキリストの愛の体を作り上げていっているということができるのです。


愛の共同体を作り上げる温かい群れと成長してゆけますように・・・。

この受難週にキリストの苦しみを思い、その愛を見上げる時となりますように。



「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。ピリピ2章4節」 聖書






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